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光よ、満ちろ  作者: 織 航(しき わたる)


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第4話 勇者の器

 雨の音。

 濡れた木段の冷たさ。

 川上さんの目。

 つり革を掴む白い指。

 バスに乗っていった金色の瞳の男。

 それらが順番もなく浮かび、白い光の中へ溶けていく。

 身体が遠ざかっていく感覚があった。

 手も、足も、声も、痛みも。

 自分のものだったはずの全部が、向こう側へ沈んでいく。

 怖い。

 そう思った。

 死ぬのが怖いのか。

 消えるのが怖いのか。

 それとも、何もできなかったまま終わるのが怖いのか。

 分からなかった。

 ただ、まだ終わりたくないと思った。

 その瞬間、白い光の奥で誰かが笑った気がした。

 目を開けた。

 最初に見えたのは、白い天井ではなかった。

 石だった。

 滑らかで、冷たそうな白い石。

 天井なのか壁なのか、すぐには分からなかった。視界の端で、淡い光がゆっくりと流れている。蛍光灯ではない。窓から差し込む朝日でもない。水の底に沈んでいるような、揺れる白い光だった。

 雨の音は、もう聞こえなかった。

 代わりに、かすかな低い音がある。

 唸り声のような。

 機械の駆動音のような。

 けれど、どちらとも違う。

 身体を起こそうとして動きが止まった。

 痛くない。

 腹の奥にあった熱がない。

 冷えていく手足の感覚もない。

 膝をぶつけた痛みも、肩を掴まれた痕も、雨に濡れた制服の重さもなかった。

 助かったのか。

 そう思った瞬間、女の声が頭の中で蘇る。

 ――君は、この世界ではもう助からない。

 喉がひゅっと鳴った。

 ゆっくりと自分の腹に手を当てた。

 そこに傷はなかった。

 それどころか、制服もなかった。

 白い薄布のような服を着せられている。病院着に似ているようで少し違う。肌に触れる感触はやけに軽く、布なのに体温を吸わなかった。

 手を見る。

 知らない手だった。

 指が長い。

 爪の形も違う。

 手の甲に浮かぶ骨の筋も、掌の大きさも、僕のものではなかった。

 息が止まった。


「起きた?」


 声がした。

 身体が跳ねる。

 白衣の女が、少し離れた場所に立っていた。

 神社にいた女だった。

 けれど、ここでは場違いには見えなかった。

 この白い石の部屋も、淡く光る床も、壁に刻まれた文字のような模様も、すべて彼女のためにあるように見えた。

 女は片手に薄い板のようなものを持っていた。

 紙ではない。金属でもない。そこに指を滑らせるたび、表面に小さな光が浮かび、消えていく。


「……ここ、どこですか」


 自分の声が聞こえた。

 思っていた声ではなかった。

 低くも高くもない。

 けれど、明らかに違う。

 喉に手を当てる。

 声を出したのは自分なのに、自分ではない誰かが喋ったように聞こえた。


「君のいた世界ではないよ」


 女は当たり前のように言った。


「そう言っただろう。助かる場所は、そこではないと」


「……病院じゃ、ないんですか」


「違う」


「じゃあ、僕は――」


 言葉が続かなかった。

 死んだのか。

 そう聞きたかった。

 けれど、その言葉を口にした瞬間、本当にそうなってしまう気がした。

 女は僕の迷いを待たなかった。


「元の身体はもう使えない」


 声は静かだった。


「君の世界で言うなら死んだと言っていい」


 胸の奥が、すっと冷えた。

 死んだ。

 その言葉は、思っていたよりも軽く届いた。

 重さを感じる前に、意味だけが先に染み込んでいく。

 あの神社。

 雨。

 木段。

 腹の奥に走った熱。

 白衣の女。

 それらが一本の線になってつながる。


「じゃあ……僕は、何なんですか」


 手が震えた。

 知らない手が震えている。

 そのことが余計に気持ち悪かった。

 女は僕を見た。

 感情の薄い目。

 心配でも、同情でも、慰めでもない。

 ただ、状態を確認している目だった。


「勇者リュシアンだ」


「違います」


 反射的に言っていた。


「僕は、そんな名前じゃない」


「だろうね」


 女はあっさり頷いた。


「君の魂の名前は別にある。けれど、この身体の名前はリュシアンだ」


「身体の、名前……?」


「そう」


 女は薄い板を閉じた。


「勇者リュシアン。人類の希望。不滅の勇者。魔王を討つための器」


 言葉の意味が、ひとつも頭に入ってこなかった。

 勇者。

 神社でも聞いた。

 死にかけた僕にこの女はそう言った。

 そこで君は勇者になる、と。

 馬鹿げている。

 僕が勇者になれるはずがない。

 川上さん一人助けられなかった。

 昨日も今日も逃げた。

 男と目が合っただけで手が止まった。

 そんな僕が何を助けるというのか。


「……戻してください」


 声が震えた。


「元の世界に。家に。病院でもいい。警察でもいい。どこでもいいから」


「戻してどうする?」


 女は首を傾げた。


「君の身体は死んでいる」


「でも……」


「戻ったところで、君は動けない。喋れない。助からない」


「……そんなの」


「だから移した」


 あまりにも簡単な言い方だった。

 移した。

 鞄を別の場所へ置くように。

 濡れた服を脱がせるように。

 それくらいの軽さで言われた。


「君の魂をこの器へ」


 僕は手を見た。

 長い指。

 白い肌。

 自分のものではない手。

 吐き気がした。

 けれど、胃の奥から何かが上がってくる感覚すらどこか違っていた。身体の作りそのものが、自分の知っているものではない気がする。


「……なんで、僕なんですか」


 ようやくそれだけ聞いた。


「僕じゃなくてもいいでしょう。もっと、強い人がいる。勇気のある人がいる。あの場でちゃんと動ける人だって!」


 川上さんの目が浮かぶ。

 助けて。

 あの目に応えられる人間は、きっといる。

 僕ではなく。


「僕は……無理です」


 言ってから、自分でそれが一番正直な言葉だと思った。

 無理だ。

 勇者なんて無理だ。

 人類の希望なんて無理だ。

 誰かを助けるなんて、無理だ。

 女はしばらく黙っていた。

 それから、小さく笑った。

 笑ったと言っても楽しそうではなかった。

 長い時間をかけて見飽きたものを、また見たような笑みだった。


「知っているよ」


 女は言った。


「君は強くない」


 胸の奥が詰まった。


「死ぬのは怖い。痛いのも怖い。誰かのために自分を投げ出せるほど、勇気も、正義感もない。目の前で助けを求められても手が止まる」


 何も言えなかった。

 全部、当たっていた。


「でも、生きたいと思った」


 女は続ける。


「死にたくないと、はっきり願った」


「そんなの……誰だって」


「そう。誰だってそうだ」


 女は僕のそばまで歩いてきた。

 足音がしない。

 白衣の裾が揺れているのに、床には影が薄くしか落ちていなかった。


「だから試す価値がある」


「試す……?」


「君が、本当にただの軟弱な魂なのかどうか」


 軟弱。

 その言葉は、思ったよりも痛かった。

 言い返したかった。

 けれど、言い返せなかった。

 自分で同じことを思っていたからだ。


「私はアニエス」


 女は名乗った。


「この聖都で、勇者リュシアンの帰還を管理している」


「管理……?」


「今はそれだけ覚えておけばいい」


 アニエスは手を伸ばし、僕の顎に触れた。

 指先が冷たい。

 僕は反射的に身を引こうとした。

 けれど、身体が思うように動かない。まだこの身体の動かし方が分かっていなかった。


「馴染みは悪くない」


 アニエスは僕の目を覗き込んだ。


「魂の定着も、今のところは安定している。記憶の欠損も少ない。痛覚も残っている。恐怖も残っている」


「……恐怖?」


「大事なことだよ」


 アニエスは顎から手を離した。


「恐怖が残っているなら、器から完全には剥がれていない」


 何の話なのか分からなかった。

 分からなかったが、この人が僕を人間として見ていないことだけは分かった。

 僕は患者ではない。

 助けられた人間でもない。

 ここでは、何かの材料だ。

 そう思った瞬間、背中が冷たくなった。

 白い部屋の奥で低い音が続いている。

 床の模様が淡く光り、その光が僕の足元から身体へ細く流れ込んでいるように見えた。

 僕は自分の胸に手を当てた。

 心臓は動いている。

 けれど、それが本当に自分の心臓なのか分からない。


「立てるかい」


 アニエスが言った。


「……無理です」


「立てるよ」


「無理です」


「その身体なら立てる」


 言い方が嫌だった。

 この人は僕を見ているようで見ていない。

 でも、言われた通り、腕に力を入れてみる。

 驚くほど簡単に身体が起き上がった。

 軽い。

 さっきまで倒れていたのが嘘のように上半身が持ち上がる。足を床へ下ろすと、白い石の冷たさが足裏に伝わった。

 立とうとして、よろけた。

 アニエスは支えなかった。

 壁に手をつき、なんとか身体を起こす。

 視界が少し高い。

 いや、少しではない。

 僕の知っている自分より、目線が高かった。

 手も足も長い。

 身体が細いのに芯が強い。

 深く息を吸うだけで、肺がどこまでも広がるような感覚がある。

 気持ち悪いほど、よく動く身体だった。


「映せ」


 アニエスが短く言った。

 壁の一部が淡く光り、鏡のようなものが現れた。

 そこに像が映った。

 僕は、息を呑んだ。

 そこにいたのは僕ではなかった。

 白に近い金の髪。

 整った顔と目。

 病的なほど綺麗な肌。

 人形のようだと思った。

 いや、人形というより、誰かが人々に希望を抱かせるためだけに作った姿だった。

 勇者。

 その言葉が、急に現実味を持った。


「それがリュシアンの器だ」


 アニエスが言う。


「これから君は、その名前で呼ばれる」


「……僕の名前は」


 言いかけて、止まった。

 自分の名前を言おうとした。

 けれど、その名前がこの部屋ではひどく遠く感じた。

 母に呼ばれた名前。

 学校の出席で呼ばれた名前。

 川上さんが一度も呼ばなかった名前。

 それらが、もう戻れない場所に置いてきたもののように思えた。

 そのとき、部屋の低い音が変わった。

 今まで眠っていたものが急に息を吸い込んだような音だった。

 アニエスが薄い板へ視線を落とす。

 表面に浮かんだ光が、赤く瞬いた。


「……早いね」


 アニエスが呟いた。


「何が……ですか」


「ガルヴァンの核が残っている」

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― 新着の感想 ―
元の世界で死の淵に瀕し、見知らぬ白い石の部屋で「勇者リュシアン」の器として目覚めた主人公。 勇者に転生、チートか? 色々あったけど、心に引っかかるものはあるけど、人生やり直しだ!ってならない展開が悲し…
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