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光よ、満ちろ  作者: 織 航(しき わたる)


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第3話 雨の神社 

 通りの車の音が遠ざかる。

 住宅街へ入り、狭い道を抜ける。

 雨が降りそうな空だった。雲は低く、電線の上に重たく垂れているようだった。

 しばらく歩くと、小さな神社があった。

 子どものころに一度だけ来たことがある気がする。

 けれど、どんな用事だったのかは覚えていない。

 小さな山の中にひっそりとあり、長い間、誰も来ていないように感じた。

 石段の脇には雑草が伸びていた。

 鳥居の朱色は剥げ、賽銭箱の前には落ち葉が溜まっている。人の気配はなかった。

 僕は石段の途中に腰を下ろした。

 鞄を横に置く。

 息を吐く。

 何をしているんだろう。

 学校をさぼった。

 川上さんを助けなかった。

 昨日も、今日も、逃げた。

 何かを失った気がした。

 けれど、何を失ったのかは分からなかった。

 ただ、手だけが覚えている。

 つり革から離れかけた指。

 男の目を見た瞬間に戻ってしまった指。

 僕はその手を膝の上で握った。

 爪が掌に食い込む。

 痛い。

 空から、ぽつりと雨が落ちた。

 石段に小さな黒い点ができる。

 ひとつ。

 ふたつ。

 すぐに増えていく。

 僕は動かなかった。

 濡れてしまえばいいと思った。

 そうすれば、少しは何かが変わる気がした。

 もちろん、そんなことで何も変わらない。

 そんなことは分かっていた。

 分かっているのに動けなかった。

 昨日の朝と同じように。

 僕はただ、そこに座っていた。

 雨は強くなった。

 制服の肩が濡れ、髪から雫が落ちる。鞄にも黒い染みが広がっていく。けれど、動く気にはなれなかった。

 どれくらいそうしていたのか分からない。

 社殿の奥で砂利を踏む音がした。

 最初は参拝客かと思った。

 こんな雨の日に来る人もいるのか、とぼんやり考えた。

 けれど、その足音は鳥居の方からではなく社殿の裏手から聞こえてきた。

 顔を上げる。

 男がいた。

 昨日のバスの男ではない。

 さっきの金色の瞳の男でもない。

 痩せた男だった。

 傘も差さず、濡れた髪を顔に貼りつかせている。黒い上着の袖口から、何か濡れたものが落ちた。雨水にしてはやけに黒く見えた。

 目が合った瞬間、胸の奥が冷えた。

 朝のニュースが、遅れて頭の隅に浮かんだ。

 関わってはいけない。

 そう思った。

 僕は鞄を掴み、立ち上がろうとした。


「おい」


 男が言った。

 低い声だった。

 足が止まる。


「学校はどうした」


 笑っているような声だった。

 けれど、目は笑っていなかった。


「……すみません」


 なぜ謝ったのか分からない。

 逃げようとした。

 その瞬間、男の手が伸びた。

 肩を掴まれる。

 強い力だった。身体が後ろへ引かれ、石段の角に膝をぶつけた。


「何逃げようとしてんだよ」


 声が近い。

 雨の音が遠くなった。

 僕は男の手を振り払おうとした。

 けれど、力が入らなかった。

 昨日と同じだ。

 また、手が動かない。

 また、声が出ない。

 頭のどこかでそんなことを考えた。

 男が何か言った。

 聞き取れなかった。

 社殿の方へ引きずられる。

 賽銭箱の前にある木の段に手をついた。雨を吸った木は冷たく、指先の下でぬるりと滑った。埃と湿った木の匂いが混じる。

 逃げなければ。

 そう思った。

 けれど、身体が思うように動かない。

 痩せているわりに、肩を掴む男の手が強く、振りほどこうとしても指先に力が入らなかった。

 男の手元で何かが鈍く光った。

 朝のニュースが遅れて頭の隅に浮かんだ。

 刃物のようなもの。

 通行人を傷つけた男。

 現在も逃走中。

 そこまで思い出したところで、腹に熱が走った。

 痛い、と思うより先に足から力が抜けた。

 視界が傾く。

 濡れた木段が近づき、肩から崩れ落ちた。頬に冷たい木の感触が触れる。

 男が何かを吐き捨てた。

 言葉は分からなかった。

 足音が遠ざかり、男が去っていく。

 雨の音だけが残る。

 僕は社殿前の木段に倒れたまま、軒の下を見ていた。

 古い木の梁。

 黒ずんだ注連縄。

 賽銭箱の隙間に溜まった落ち葉。

 身体の奥が熱い。

 けれど、手足の先は急に冷えていく。

 息がうまく吸えなかった。

 救急車。

 そう思った。

 誰か。

 声を出そうとする。


「……だれか」


 喉から出たのはかすれた音だけだった。

 視界の端に白いものが見えた。

 最初は、雨が入り込んだのかと思った。

 違った。

 白衣だった。

 女が立っていた。

 長い髪。

 細い体。

 雨に濡れていない白衣。

 この場所にいるにはあまりにも場違いな姿だった。

 女は一度だけ、男が消えた社殿の奥へ目を向けた。

 けれど、すぐに僕へ視線を戻した。

 感情の薄い顔だった。

 心配も、驚きも、怯えもない。

 ただ、観察している。

 そういう目だった。


「……救急車を」


 僕は言った。

 声はほとんど出なかった。


「呼んで……ください」


 女は少しだけ首を傾げた。


「それは無理だよ」


 澄んだ声だった。


「君は、この世界ではもう助からない」


 意味が分からなかった。


「……呼んでください」


「呼んでも間に合わない」


「お願い……しま、す」


 木段に手をかける。

 指が滑る。濡れているのか、血なのか分からない。

 女はしゃがみ込む。

 白衣の裾が濡れた木段に触れた。

 それでも汚れたようには見えなかった。


「君はずいぶん迷っているね」


 女が言った。

 何の話だ。

 僕はそう言おうとした。

 けれど、声が出ない。


「助けたかった?」


 女は続ける。


「それとも、助けたくなかった?」


 川上さんの顔が浮かんだ。

 あの目。

 つり革を掴む白い指。

 バスの扉。

 金色の瞳の男。

 胸の奥が痛んだ。


「……助けたかった」


 言葉は、勝手に漏れた。


「でも、怖かった」


「そう」


 女は少しも驚かなかった。


「死にたい?」


 僕は首を横に振ろうとした。

 うまく動かなかった。

 死にたくない。

 そう思った。

 はっきりと。

 川上さんを助けられなかったくせに。

 学校から逃げたくせに。

 こんなところで、雨に濡れて倒れているくせに。

 それでも、死にたくなかった。


「……助けて」


 声が震えた。


「助けてください」


 女の目が、わずかに細くなる。


「いいよ」


 あまりにも簡単に女は言った。


「ただし、君が助かる場所はここではない」


「……どういう」


「別の世界だ」


 女は僕の額に指を伸ばした。

 その指先は冷たかった。


「そこで君は勇者になる」


 勇者。

 その言葉がひどく遠く聞こえた。

 何をふざけているんだ、と笑いたかった。

 けれど、笑えなかった。

 僕が?

 川上さん一人助けられなかった僕が?

 何を助けるっていうんだ。

 そう思った。

 けれど、その言葉も声にはならない。

 女の指先に淡い光が灯る。

 雨の音が遠ざかる。

 軒下の暗がりがぼやけていく。

 身体の痛みも、寒さも、少しずつ輪郭を失っていく。

 最後に浮かんだのは川上さんの顔だった。

 そして、バスに乗っていった金色の瞳の男の横顔だった。

 なぜか、その男だけは僕を責めていなかった気がした。

 光が広がる。

 白い女の声が遠くで聞こえた。


「ようこそ、勇者リュシアン」


 そこで、僕の意識は途切れた。

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