第2話 乗れなかった朝
翌朝。
目覚ましが鳴る前から目が覚めていた。
制服に着替える。
鞄を持つ。
居間ではテレビがついていた。
母が朝食の片づけをしながら画面をちらりと見ている。
『昨夜、市内で男性が刃物のようなもので通行人を傷つけ、現在も逃走中です。警察は近隣住民に注意を呼びかけています』
アナウンサーの声がいつもの朝の音に混じって流れていた。
「物騒ね」
母が小さく言った。
「うん」
僕はそれだけ返した。
自分とは関係のないニュースだと思った。
それよりも、今日もあのバスに乗らなければならないことの方が、ずっと胸の中にあった。
いつもの時間に家を出る。
全部、昨日と同じだった。
けれど、バス停に近づくにつれて足が重くなった。
またあのバスに乗る。
また同じ男がいるかもしれない。
また川上さんと目が合うかもしれない。
そう考えるだけで、喉の奥が乾いた。
バス停にはすでに人が並んでいた。
会社員。
高校生。
買い物袋を持った年配の人。
いつもの朝だった。
しばらくして、バスが来た。
扉が開く。
人が順に乗り込んでいく。
僕も列に従って前へ進んだ。
ステップに足をかける。
そのとき、車内の奥に川上さんが見えた。
そのすぐ後ろに、昨日の男もいた。
大きな肩。
つり革を掴まないまま、混んだ車内で妙に安定して立っている姿。
間違いなかった。
昨日と同じ男だった。
川上さんも、こちらを見た。
一瞬だけだった。
けれど、昨日よりもずっと長く感じた。
彼女の目に責める色はなかった。
泣いてもいなかった。
ただ、何かを諦めたように静かだった。
その静けさに僕は耐えられなかった。
足が止まった。
後ろの誰かが軽くぶつかる。
「乗らないんですか?」
耳元で声がした。
振り向くと、男が立っていた。
初めて見る。
男、と呼ぶには少し不思議な雰囲気だった。
年齢がよく分からない。整った顔立ちをしているのに、どこか印象が薄い。
ただ、瞳だけが妙に明るかった。
金色だった。
朝の曇った光の中で、そこだけが小さく輝いているように見えた。
男は僕を見ていた。
怒っているわけではない。
呆れているわけでもない。
早くしろと急かしているようにも見えなかった。
ただ、僕が乗らないことを最初から知っていたような目だった。
責められていない。
そう感じた瞬間、なぜか余計に息が苦しくなった。
「……すみません」
僕は反射的に横へ退いた。
男は薄く笑った。
「では、僕は先に行きますね」
静かな声だった。
男は僕の横を通り、バスに乗り込んだ。
扉が閉まる。
エンジン音が鳴る。
バスがゆっくりと遠ざかっていく。
車内の窓越しに、金色の瞳の男がこちらを見ていた気がした。
その視線はすぐに見えなくなった。
僕はバス停に立ったままだった。
次のバスが来た。
乗らなかった。
その次も来た。
それにも乗らなかった。
スマホを見ると、始業の時間はとっくに過ぎていた。
教室で川上さんと目を合わせるのが怖かった。
学校へ行かない理由ばかりを探してしまう。
結局、僕は鞄の紐を握りしめたまま歩き出した。
どこへ行くのかは決めていなかった。
ただ、学校とは反対の方へ歩いた。




