第1話 六月のバス
それは、六月初旬のことだった。
僕はいつものようにバスに乗って通学していた。
今年の四月に高校へ入学したばかりだから、いつものようにと言ってもまだ二か月ほどのことだ。けれど、朝のバスの混雑にはもう慣れはじめていた。
午前八時前。
通勤と通学の時間が重なり、車内は今日もぎゅうぎゅうだった。つり革を掴んで立っているだけで肩がぶつかる。バスが曲がるたび、誰かの鞄が腰に当たり、湿った空気が制服の内側にまとわりついた。
梅雨入り前の妙に重い空気だった。
窓ガラスは薄く曇っている。外の景色はぼやけ、車内には人の息と汗と濡れた傘の匂いが混じっていた。
正直、不快だった。
けれど今日に限ってはそれだけではなかった。
すぐ隣に、川上さんがいた。
同じクラスの女子だ。
ショートボブの髪は少し茶色がかっていて、赤いラインの入ったセーラー服がよく似合っていた。教室ではいつも明るい友達に囲まれている。笑うと目元が少し細くなって、周りまでつられて笑ってしまうような人だった。
僕はその輪に入ったことがない。
話しかけたこともほとんどない。
それでも、朝のバスで何度か見かけるうちに自然と目で追うようになっていた。
今日もそうだった。
隣に立っているだけでどうしていいか分からなくなる。
近い。
肩が触れそうになるたび変に意識してしまう。
挨拶くらいしてみようか。
そう思った。
おはよう。
ただ、それだけでいい。
頭の中では何度も言えた。
けれど、口は動かなかった。
目が合えば気まずい。
変に思われるかもしれない。
同じクラスだからこそ失敗したら教室でも気まずくなる。
そんな言い訳ばかりが浮かぶ。
結局、僕は窓の方へ顔を向けた。
何もしなければ何も起きない。
誰も傷つかない。
そう思えば少しだけ楽だった。
バスがガソリンスタンドの先の交差点を曲がる。
学校まではあと少しだった。
そのとき川上さんの指がつり革を強く握った。
つり革の軋んだ音が聞こえるほど、強く。
最初は、バスが揺れたせいだと思った。
けれど違った。
彼女の肩が小さく震えている。顔は前を向いているのに、目だけが落ち着かない。周囲を見ている。誰かに気づいてほしいように。
僕は息を止めた。
川上さんのすぐ後ろに見知らぬ男が立っていた。
大きな体だった。
首が太く、肩幅が広い。吊り革には掴まらず、混んだ車内の中で妙に安定して立っている。
その男の手元が見えた。
その手は、川上さんの腰のあたりにあった。
何をしているのか一瞬分からなかった。
いや、分かりたくなかった。
川上さんと目が合った。
声にはならない。
けれど、その目ははっきりと言っていた。
助けて。
頭の中で何かが弾けた。
動け。
そう思った。
手を伸ばせ。
その男の腕を掴め。
周りに声をかけろ。
運転手に知らせろ。
何でもいい。
僕の右手がほんの少しだけ動いた。
つり革から指を離しかける。
その瞬間、男と目が合った。
濁った目だった。
怒っているわけでも慌てているわけでもない。
ただ、こちらを見ていた。
見たな。
そう言われた気がした。
背中が冷たくなった。
指先から力が抜ける。
離しかけた手がまたつり革を掴んだ。
違う。
今のは違う。
まだ何が起きているか分からない。
勘違いかもしれない。
ここで騒いで、もし間違っていたらどうする。
周りの人だって気づいているはずだ。
誰も動かないなら自分が動く必要はないんじゃないか。
言い訳がいくつも浮かんだ。
浮かぶたびに川上さんの目が遠くなっていく。
彼女はまだこちらを見ていた。
けれど、少しずつ諦めたような色に変わっていく。
胸の奥が詰まった。
ごめん。
心の中で言った。
声にはならなかった。
バスが学校前の停留所に近づく。
車内アナウンスが流れた。
いつもの声だった。何度も聞いた、何の感情もない機械の声。
降車ボタンの赤い光が点く。
バスが止まった。
扉が開く。
川上さんは逃げるように降りた。
人を押しのけるでもなく、ただ早足で外へ出ていく。
その背中は小さかった。
僕も降りた。
足がうまく動かない。
地面に立ったとき膝が少し震えていた。
校門へ向かう生徒たちの流れができている。
みんな、いつも通りだった。友達と話し、スマホを見て、眠そうな顔で歩いている。
川上さんの姿はもう前の方にあった。
追いかければよかった。
大丈夫かと聞けばよかった。
さっきはごめんと言えばよかった。
先生に言おうと、一緒に言えばよかった。
けれど、僕は何もしなかった。
そのまま、いつものように校門をくぐった。
教室に入る前で一度足が止まった。
扉の向こうから声が聞こえる。笑い声。机を引く音。朝のホームルーム前のざわめき。
この中に川上さんがいる。
そう思うと、手が冷たくなった。
どんな顔をして会えばいいのか分からなかった。
それでも、いつまでも廊下に立っているわけにはいかない。
僕は扉を開けた。
教室の中はいつもと同じだった。
同じ机。
同じ黒板。
同じ騒がしさ。
川上さんは、自分の席にいた。
友達に囲まれていなかった。
一人で座って、机の上に置いた手をじっと見ていた。
髪で横顔が隠れている。表情は分からない。
けれど、彼女の肩がいつもより小さく見えた。
僕は声をかけられなかった。
自分の席へ行き、鞄を置き、椅子に座る。
その全部を、ただいつものように繰り返す。
先生が来る。
ホームルームが始まる。
誰かが提出物を忘れて笑われる。
前の席の男子が眠そうに欠伸をする。
何も変わらなかった。
変わらないことが気持ち悪かった。
僕の意識だけが、朝のバスに置き去りにされていた。
授業中もノートにはほとんど何も書けなかった。
黒板の文字を写そうとしても気づけば同じところを見ている。
助けて。
あの目だけが浮かぶ。
昼休みになっても川上さんの周りには人が少なかった。
いつもなら友達と弁当を広げているのにその日は早々に教室を出ていった。
僕は後を追わなかった。
まただ。
そう思った。
朝と同じだ。
気づいている。
分かっている。
なのに動かない。
自分の手を見る。
つり革を握っていた手。
伸ばしかけて、引っ込めた手。
何もできなかった手だ。
その日は、長かった。
帰りのホームルームが終わるころには、身体の中が空っぽになっていた。誰とも話さず、誰にも話しかけられず、ただ学校を出た。
帰りのバスは朝ほど混んでいなかった。
座ることもできた。
けれど、窓に映る自分の顔を見るのが嫌でずっと足元を見ていた。
家に帰ってからも何もする気になれなかった。
夕飯の味も分からない。
母に「具合でも悪いの」と聞かれて、適当に首を振った。
自分の部屋に戻り、制服のままベッドに倒れ込む。
天井を見た。
白い天井だった。
何度も見てきた何の変哲もない天井。
そこに、バスの扉が閉まる音が重なった。
何度も。
何度も。
あのとき動いていれば。
そう思った。
でも、本当に動けただろうか。
男と目が合っただけで手が止まった。
声どころか息まで止まった。
あの場で何かを言ったら殴られたかもしれない。
逆恨みされたかもしれない。
学校にまで来られたかもしれない。
そんなことを考えた。
考えた瞬間、自分が嫌になった。
結局、僕は自分のことしか考えていなかった。
川上さんのことを心配しているふりをして本当は自分が怖かっただけだ。
目を閉じても、その日は眠れなかった。




