序章 勇者リュシアンの勝利
※本作は序盤から重めの展開が続きます。暴力描写・身体損壊を含みますので、苦手な方はご注意ください。
勇者リュシアンは、猿の魔王ガルヴァンめがけて跳んだ。
戦いが始まってからどれほど経ったのか分からない。
砕けた石柱。割れた床。壁に残る拳の跡。足元には兵士のものとも魔物のものともつかない血が黒く広がっている。
その中央にガルヴァンがいた。
猿がそのまま人より大きくなったような姿だった。
背を覆う黒い毛は血と土で固まり、肩から腕にかけての筋肉は岩のように盛り上がっている。長い腕。太い指。黒ずんだ爪。
魔法は使わない。
ただ殴る。
掴む。
潰す。
喰らう。
それだけで、ガルヴァンは魔王と呼ばれていた。
リュシアンは両手で剣を握りしめる。
白く輝く刀身。
伝説の剣。
アニエスはそう言った。
この剣を持てば、魔王と戦えると。
ならば、やるしかない。
元の世界で僕は何者でもなかった。
怖くて声も出せず、手も伸ばせず、目を逸らすことだけはうまかった。
けれど、ここでは違う。
勇者リュシアン。
人類の希望。
魔王を討つために呼ばれた者。
その名で呼ばれるたび胸の奥が熱くなった。
自分でも、変われる気がした。
「っせやぁぁああ――!」
リュシアンはガルヴァンの頭上へ躍りかかった。
決まった。
そう思った。
振り下ろした剣は確かに魔王の頭部を捉えた。
だが、刃は肉を裂かなかった。
硬い音が広間に響く。
「――っ!」
衝撃が腕を跳ね上げた。
手首から肘、肩まで痺れが走る。身体が宙に浮いた。視界がぶれ、石の天井とガルヴァンの顔が入れ替わる。
魔王の腕が動いた。
リュシアンはとっさに足を突き出す。ガルヴァンの頭を蹴り、反動で後ろへ跳んだ。直後、さっきまで身体のあった場所を拳が通り過ぎる。
風が裂けた。
殴打というより壁が飛んできたような音だった。
リュシアンは床に着地し、たたらを踏みながら距離を取った。
広く。できるだけ広く。
剣先が震えている。
手の痺れだ。
そう思おうとした。
違う。
恐怖だ。
目の前の魔王はこちらを見ていた。
獲物を見る目だった。息を吐くたび獣の臭いが熱を帯びて届く。
喉が乾く。
鎧の内側に汗が溜まっている。
背中が冷たい。
リュシアンは歯を食いしばった。
怖い。
怖くないわけがない。
けれど、勇者が恐怖で止まってどうする。
頭の奥にアニエスの声が残っている。
勇者が伝説の剣を全力で振るえば、魔王は斬れる。
そう言った。
イリアも否定しなかった。
サリアも微笑んでいた。
なら、さっきの一撃は自分が悪い。
腰が引けていた。
どこかで死にたくないと思っていた。
全力ではなかった。
だから通じなかった。
リュシアンは震える手に目を落とした。
白い剣がわずかに光った気がした。
――そうか。
この震えは恐怖じゃない。
腕の痺れでもない。
伝説の剣が、次の一撃を待っている。
武者震いだ。
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。
大丈夫だ。
今度こそいける。
僕は勇者なのだから。
リュシアンは息を吸い、床を蹴った。
ガルヴァンが拳を振り上げる。
その拳ごと両断する。
頭の中に勝利の形だけを描いた。
剣を振り下ろす。
「っせいやぁぁああ――!」
その瞬間だった。
――ポキンッ。
音は、あまりにも軽かった。
リュシアンは目を見開いた。
伝説の剣はガルヴァンの拳に触れたところで細い枝のように折れていた。
白い刀身の先が宙を舞う。
少し遅れてガルヴァンの拳が迫った。
避けられない。
そう思った次の瞬間、胸に衝撃がめり込んだ。
息が消えた。
身体が後ろへ吹き飛ぶ。視界が白く弾け、背中から壁に叩きつけられた。
骨が軋む音がした。
床に落ちたのだと分かったのは頬に冷たい石の感触が触れてからだった。
身体が動かない。息を吸おうとしても、胸の奥で何かが詰まっている。
「……ど、どうして?」
声はかすれていた。
リュシアンは腹ばいのまま折れた剣へ手を伸ばした。
指先が柄に触れる。だが、それを握る力すら残っていなかった。
『そりゃ、偽物だからな』
声がした。
耳ではない。
頭の内側に響く声だった。
イリアの声。
リュシアンはゆっくりと顔を上げる。
広間の端。
結界の向こうにイリアが立っていた。大剣を肩に担ぎ、こちらを見ている。
助けに来る気配はない。
「……偽物?」
『ああ。よくできていただろ』
イリアは表情を変えなかった。
「だって……君たちは、勇者が必要だって」
言葉が途切れる。
血の味がした。
「僕を、魔王を倒すために……」
『勇者は元々そういうものなんです』
今度はサリアの声だった。
上品で、静かで、どこか申し訳なさそうですらある声。
リュシアンは視線だけを動かした。
サリアは杖を胸の前に抱えていた。
白い指が、杖の飾り紐に触れている。目は伏せていた。
『悪く思わないでくださいね』
「……意味が、分からない」
どうして。
その言葉が頭の中で渦を巻く。
どうして助けない。
どうして偽物の剣を渡した。
どうして最初から言わなかった。
どうして。
だが、誰も答えなかった。
ガルヴァンの足音が近づいてくる。
一歩ごとに床が鳴る。
砕けた石の欠片が跳ね、リュシアンの頬に当たった。
逃げなければ。
そう思った。
腕に力を入れる。
肘を立てる。だが身体は動かない。背中も、脚も、まるで自分のものではなかった。
ガルヴァンの影がかかる。
長い指が伸びた。
鎧ごと胸を掴まれる。
身体が持ち上がった。床が遠ざかる。
「――ヒッ」
情けない声が漏れた。
ガルヴァンの口から涎が落ちていた。
牙の隙間に、何かの肉片がこびりついている。熱い息が顔にかかり、胃の奥がひっくり返りそうになった。
死ぬ。
今度は、言い訳のしようもなくそう思った。
勇者なのに。
人類の希望なのに。
変われるはずだったのに。
ただ喰われる。
それだけのためにここへ連れてこられた。
『勇者は魔王に喰われる』
イリアの声が響く。
『今日もまた、それは変わらないようですね』
サリアの声が続いた。
ガルヴァンの口が開く。
赤黒い闇が広がる。
牙が近づく。
リュシアンは目を閉じることもできなかった。
胸の奥で声にならない叫びが上がる。
そして、その叫びごと、身体は魔王の口の中へ呑み込まれていった。
暗闇。
熱。
潰される音。
自分のものとは思えない痛み。
そのすべてが一瞬で白い光に変わった。
ガルヴァンが吠えた。
結界の中で獣の咆哮が広間を震わせる。
巨体がよろめき、腹を押さえた。黒い毛の隙間から白い光が漏れている。
最初は細い線だった。
やがて、それは目から、喉から、爪の根元から、裂け目のように噴き出した。
ガルヴァンが床を叩く。
石が砕ける。
だが光は止まらない。
体の内側から焼かれているのだ。
猿の魔王ガルヴァンは最後にもう一度だけ吠えた。
それは怒りにも恐怖にも聞こえた。
そして巨体が崩れ落ちる。
黒い灰が舞った。
焼けた臭いが広がる。
少し前まで魔王だったものは、黒く焼けた巨体を床に沈めていた。
動かない。
だが、完全に崩れたわけではなかった。
胸の奥でまだ小さく白い光が燻っている。
魔王城の広間は静まり返っている。
遠くで石の欠ける音がした。崩れた壁の隙間から冷たい風が入り、灰をさらっていく。
イリアは大剣を肩から下ろした。
サリアは結界を解き、折れた剣の柄を拾い上げる。
「器の反応は?」
「入りました。ただ、核の焼き切りまでは届いていません」
「魂は?」
「残っていません」
サリアは布を広げ、折れた剣の柄を包みながら言った。
「次で終わるでしょう」
イリアは灰の残る床を一瞥する。
「猿の魔王ガルヴァン討伐。勇者リュシアンの勝利。報告はそれでいいな」
「はい」
サリアが杖を掲げる。
足元の床に淡い光が走った。
転移の術式だった。
リュシアンをこの場所へ運んできた光と同じものが、今度はイリアとサリアを包んでいく。
二人の姿が消えたあと、魔王城の広間には静けさだけが残った。
誰の歓声もない。
勝利を告げる鐘もない。
砕けた柱。
焼けた床。
黒く崩れた灰。
勇者リュシアンは、もうどこにもいなかった。
ただ、黒く焼けたガルヴァンの巨体だけが、広間の中央に沈んでいる。
胸の奥で燻る白い光は、今にも消えそうで、まだ消えていなかった。
やがて、崩れた柱の陰で小さな蛇が一匹、音もなく動いた。
蛇は黒い灰の上を這い、ガルヴァンの胸元へ近づく。
細い舌が、白く焼けた傷跡に触れた。
蛇の瞳がわずかに光る。
そして、石の隙間へ消えていった。
その日の夕刻。
人間の中心地、聖都ルミナでは勇者リュシアンが猿の魔王ガルヴァンを討ったことを告げる鐘が鳴った。
人々は歓声を上げた。
勇者が勝った。
魔王が討たれた。
人類はまた救われた。
誰も知らない。
勇者がどう戦ったのか。
剣が本物だったのか。
リュシアンと呼ばれた魂が、最後に何を思ったのか。
人々の希望は守られた。
不滅の勇者リュシアンの名は、今日も傷つかなかった。
その代わりに、一人の魂が消えた。
それだけだった。




