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光よ、満ちろ  作者: 織 航(しき わたる)


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第47話 一度だけ、あの朝へ

 朝の光は、細い窓から少しずつ差し込んでいた。

 眠っている人の顔に、淡い光を落としている。

 光の院の一室に、アニエスはいた。

 破れた外套を肩にかけ、髪を顔の横へ落とし、頬の半分を隠している。

 彼女はまだ、アニエスとして人前に出る気がないのだと思った。

 アニエスは、僕が入る前から気づいていたように顔を上げた。


「休めと言われなかったか」


「言われました」


「なら、なぜ来た」


 僕は少し黙った。

 言葉にすれば、また何かが崩れる気がした。

 けれど、もう見ないふりはしたくなかった。


「元の世界へ戻る方法はありますか」


「帰りたいのか」


 アニエスの目が細くなった。


「違います」


 すぐに答えた。

 それだけは違った。

 そもそも、あちらの世界では僕はもう死んでいる。


「僕は、この世界で生きていくつもりです。だからこそ、未練をそのままにしたくないんです」


「未練?」


「あの朝の出来事です」


 声が小さくなった。


「僕は、助けなければならない人がいると分かっていたのに、バスに乗りませんでした」


 アニエスは何も言わない。

 その沈黙が、僕に続きを促しているようだった。


「一度目は、動けませんでした。見ていたのに、動かなかった。次の朝も、分かっていたのに、逃げました」


 右手を握る。

 鏡の中の光を思い出す。


「その過去を消したいわけではありません。あの時の僕を、なかったことにしたいわけでもない」


 消してしまえば、今の僕も消える。

 逃げた僕がいたから、ここへ来た。

 ここへ来たから、フィルに出会った。

 カテリーナの背中を見た。

 グレモルトの前に立った。

 それを、なかったことにはできない。


「でも、このままでは僕は前だけを見て歩けない気がするんです」


 アニエスの瞳が、わずかに揺れた。


「僕が立てなかった場所があります。そして、きっと、誰も立たなかった場所があります。そこへ、今度は立ちに行きたい」


 言い終えると、部屋の中が静かになった。

 外では、人の声がしている。

 水を運ぶ音。

 誰かを起こす声。

 朝を迎えた聖都の音。

 アニエスは、長く目を伏せた。


「過去へ戻るということが、何を意味するか分かっているのか」


「分かっているつもりです」


「つもりでは足りない」


 声が低くなった。


「お前が過去を変えれば、お前はここへ来ないかもしれない。お前がここへ来なければ、グレモルトは倒れない。フィルが見た光も、カテリーナが立った場所も、すべてが崩れる」


 分かっていたことだった。

 それでも、アニエスの口から聞くと、重さが違った。


「過去は変えません。僕が逃げたことは、消しません」


 アニエスが顔を上げた。

 言葉にすると痛かった。

 でも、言わなければならなかった。


「僕は逃げた。その事実は変えません。変えてはいけないと思います」


「では、どこへ行く」


「過去の僕が逃げた後に、空いた場所があります。そこへ行きたい」


 僕がバスに乗らなかった朝。

 逃げた後に、まだ続いていた時間。

 アニエスは僕を見つめた。

 その目に、五百年分の疲れがあった。

 そして、僕には分からないほど深い計算があった。


「容易ではない」


「はい」


「あちらの世界とこの世界は、完全に切れているわけではない。精霊の流れはある。お前の魂にも、こちらへ来た時の傷が残っている。道を開くだけなら、不可能ではない」


 そこで、アニエスは言葉を切った。


「だが、狙えるのは一度だけだ」


「一度だけでいいです」


「戻れる保証もない」


 息が止まりかけた。

 アニエスは続ける。


「向こうで何かがずれれば、お前はこの世界へ戻れないかもしれない。あるいは、戻ってきても、ここでは別の時間が流れているかもしれない」


 廊下の向こうで、誰かが咳をした。

 その小さな音が、急に遠く感じた。

 戻れない。

 その言葉は怖かった。

 ここで生きていくと決めたのに。

 戻れなくなるかもしれない。

 それでも、あの朝を捨て置いたまま前へ進むことも、同じくらい怖かった。


「それでも、行きます」


 アニエスは、しばらく僕を見ていた。


「なぜそこまでして、ひとりの娘を助けたい」


 僕はすぐには答えられなかった。

 川上さんの顔を思い出す。

 バスの中で縮こまっていた肩。

 見ないふりをした横顔。

 閉まる扉の音。


「彼女を助けるためでもあります。でも、それだけじゃないと思います」


 自分でも、うまく言えなかった。


「僕は、自分が逃げたことを知っています。そのままでも、生きていけるのかもしれません。でも、この世界で誰かの前に立つたびに、きっと思い出す。あの時、自分は立たなかったと」


 右手が震える。


「それを、消すんじゃなくて、抱えたまま前に進みたいんです」


 アニエスは目を閉じた。

 長い沈黙だった。

 やがて、彼女は小さく笑った。

 嬉しそうではなかった。

 苦しそうでもあった。


「リュシアンは、そういうものを残していく」


「え?」


「いや」


 アニエスは首を振った。


「こちらの話だ」


 彼女は立ち上がった。

 怪我人の女の姿のまま、外套を肩へかけ直す。


「支度をする」


「今からですか」


「今でなければ、迷う」


 アニエスは僕を見る。


「お前も。私も」


 その言葉に、返せなかった。

 アニエスは扉へ向かった。


「イリアとサリアには知らせる。あの二人には黙っていられない。だが、他には言うな」


「はい」


「これは帰還ではない」


 アニエスは言った。


「逃亡でもない」


 僕は頷いた。


「分かっています」


「なら、言葉にしておけ」


 言葉。

 僕は少し考えた。

 そして、ゆっくり言った。


「この世界へ戻ってくるために、行きます」


 アニエスは一瞬だけ、僕を見た。

 それから、静かに頷いた。


「なら、行け」


 その声は、命令ではなかった。

 送り出す声だった。


「過去を消すためではなく、残した心残りの前に立つために」


 僕は頷いた。

 その日の夜明け前。

 光の院の奥にある、使われていない祈りの間に、僕たちは集まった。

 イリアは腕を組んで壁にもたれていた。


「面倒なことを考える」


 第一声がそれだった。


「すみません」


「謝るくらいならやめろ」


「やめません」


 イリアは、少しだけ目を細めた。


「なら謝るな」


「……はい」


 サリアは床に膝をつき、古い紋様を調べていた。


「あちらの世界への道は、通常の転移とは違います。座標ではなく、縁を辿る形になります」


「縁?」


「あなたの魂に残っている記憶です」


 サリアは顔を上げた。


「その朝を強く思い出してください。場所。匂い。音。誰がいたのか。何から逃げたのか」


 胸が詰まる。

 逃げた記憶を、道にする。

 都合がいい話ではなかった。

 そこへ行くには、もう一度、自分が逃げた場所を見なければならない。

 アニエスは祈りの間の中央に立っていた。

 まだ、あの怪我人の女の姿のままだった。

 髪も、顔立ちも、声の響きさえ、賢者アニエスとは少し違う。

 別人として人の中に紛れるための姿。

 けれど、それは正体を隠すためだけではない気がした。

 アニエス自身が、まだその姿を手放せないのだ。

 賢者アニエスとして僕を送り出すのではなく。

 元魔王として道を開くのでもなく。

 ただ、傷を抱えた一人の女として、そこに立っている。

 けれど、足元には薄い光と黒い影が重なっていた。

 白でも黒でもない。

 境目のような色だった。


「お前の瞳の光を使う」


 アニエスが言った。


「私の力だけでは、過去へは届かない。だが、お前の中に宿った光の精霊が、あちらとこちらのずれを渡る目印になる」


 僕は頷いた。


「戻る時は……?」


「同じ光を辿れ」


 アニエスは短く答えた。


「ただし、向こうで迷うな。お前が何をしに行くのか、忘れれば道は閉じる」


 何をしに行くのか。

 僕は目を閉じた。

 バス停。

 朝。

 川上さん。

 逃げた僕。

 乗らなかったバス。

 誰も立たなかった場所。

 そこへ、今度は立ちに行く。

 目を開ける。


「大丈夫です」


 声は震えていた。

 でも、言えた。

 アニエスが手を上げる。

 祈りの間の床に、淡い線が走った。

 サリアの術式がそれを支える。

 イリアは何も言わず、扉の前に立った。

 誰も入ってこないように。

 誰にも見られないように。

 アニエスの声が、低く響いた。

 それは詠唱ではなかった。

 祈りでもなかった。

 もっと古いもの。

 闇の精霊と光の精霊の境目に触れるための言葉。

 床の線が揺れる。

 空気が歪む。

 僕の瞳の奥が、熱を持った。

 鏡で見た光が、そこから外へこぼれていく。

 怖い。

 戻れないかもしれない。

 間に合わないかもしれない。

 また、動けないかもしれない。

 それでも。


「行ってきます」


 僕は言った。

 イリアが短く鼻を鳴らした。


「早く戻れ。瓦礫が残っている」


 サリアは目を伏せた。


「お待ちしています」


 アニエスは、僕を見ていた。


「行け」


 もう一度、そう言った。


「今度は、目を逸らすな」


 白と黒の境目が、足元から立ち上がる。

 視界が揺れた。

 光の院の祈りの間が遠ざかる。

 イリアの姿も。

 サリアの杖も。

 人の姿をしたアニエスの目も。

 全部が白くほどけていく。

 最後に、胸の奥で言葉が灯った。

 光よ、満ちろ。

 声には出さなかった。

 けれど、その光だけは離さない。

 そして。

 遠い世界で、朝が来る。

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