表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
光よ、満ちろ  作者: 織 航(しき わたる)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

49/49

最終話 見ないふりはできなかった

 最初に聞こえたのは、車の音だった。

 石畳を踏む靴音ではない。

 馬車の車輪でもない。

 金属と油の匂いを含んだ、低く流れる音。

 目を開けると、空は薄く曇っていた。

 灰色の空。

 濡れた道路。

 白い線の引かれた車道。

 信号機。

 電柱。

 道路脇の小さな水たまり。

 見慣れていたはずの景色だった。

 けれど、あまりにも遠く感じた。

 僕は、バス停の少し後ろに立っていた。

 黒い上着を着ている。

 白い勇者の衣装ではなかった。

 剣もない。

 術式を刻んだ床もない。

 足元に石畳もない。

 けれど、右手はあった。

 指を握る。

 少しだけ震えていた。

 よかった、と思った。

 震えている。

 だから、まだ僕だ。

 バス停には、まだ人が少なかった。

 スーツ姿の男。

 イヤホンをつけた学生。

 スマートフォンを見ている女。

 誰も、僕を見ていない。

 当たり前だった。

 ここでは、勇者リュシアンなどいない。

 魔王もいない。

 光の院もない。

 アニエスも、イリアも、サリアもいない。

 それでも、胸の奥に光はあった。

 小さく、静かに。

 鏡の中で見た光。

 僕の瞳の奥に宿っていたもの。

 その光だけが、こちらまでついてきていた。

 バス停へ、一人の少年が走ってきた。

 息を切らしている。

 鞄を抱え、髪も乱れている。

 僕は、その顔を見た。

 胸の奥が、きゅっと縮む。

 僕だった。

 過去の僕。

 まだ何も知らない僕。

 このあと何から逃げるのかも。

 その逃げた記憶を、どれほど長く抱えていくのかも。

 何も知らない顔をしている。

 少年は、バス停の前で立ち止まった。

 周囲を見る。

 少し離れた場所に、制服姿の少女がいた。

 川上さんだ。

 名前を、胸の中だけで呼んだ。

 彼女は、何も知らない顔でバスを待っている。

 過去の僕も、彼女も、まだこちらを見ない。

 僕は、二人を見ていた。

 逃げたくなった。

 ここまで来たのに。

 足が、後ろへ下がりそうになる。

 あの時のことを思い出す。

 気づいていたのに、見ないふりをした。

 声を出せばよかったのに、出さなかった。

 翌朝、助けなければならないと分かっていたのに、バスに乗らなかった。

 その僕が、今ここにいる。

 過去を消すためではない。

 逃げた自分を責めるためでもない。

 逃げた後に空いた場所へ、立つために。

 バスが来た。

 古い車体が、濡れた道路を滑るように近づいてくる。

 ブレーキの音。

 車体が少し揺れる。

 ドアが開いた。

 人が乗り込んでいく。

 川上さんが乗る。

 過去の僕は、乗ろうとして立ち止まった。

 片足だけ、バスの入口へ向きかけている。

 鞄を抱えた手に、力が入っていた。

 車内の奥に、川上さんが見えた。

 そのすぐ後ろに、大きな肩の男がいた。

 つり革を掴まないまま、混んだ車内で妙に安定して立っている。

 間違いなかった。

 昨日と同じ男だった。

 川上さんも、こちらを見た。

 一瞬だけだった。

 けれど、過去の僕には長すぎたのだと思う。

 彼女の目に、責める色はない。

 泣いてもいない。

 ただ、何かを諦めたように静かだった。

 その静けさに、過去の僕は耐えられなかった。

 足が止まる。

 後ろに並んでいた人が、軽くぶつかった。

 僕は、過去の自分のすぐ後ろにいた。

 乗れ。

 そう思った。

 乗ればいい。

 ここで一歩進めば、昨日とは違う。

 そう叫びたくなった。

 けれど、声にはしなかった。

 ここで過去の僕を無理に押せば、僕が逃げた事実が変わってしまう。

 あの日の僕は、乗らなかった。

 助けなければならないと分かっていて、それでも怖くて、足を止めた。

 その事実は、消してはいけない。

 だから、僕は別の言葉を選んだ。


「乗らないんですか?」


 自分の声なのに、少し遠く聞こえた。

 過去の僕の肩が、小さく跳ねる。

 彼は振り向いた。

 目が合う。

 僕の顔を見た瞬間、過去の僕は不思議そうに固まった。

 分かる。

 僕だとは分からないはずだ。

 黒い上着。

 年齢の違う顔。

 そして、瞳の奥に宿った光。

 けれど、何かを感じたのだと思う。

 過去の僕は、息を詰めたまま僕を見ていた。

 責めているわけではない。

 急かしているわけでもない。

 ただ、乗らないのかと聞いただけ。

 それなのに、彼の顔から血の気が引いていく。


「……すみません」


 過去の僕は、反射的に横へ退いた。

 僕は、薄く笑った。

 笑えたのかどうかは分からない。

 ただ、責めていないことだけは伝えたかった。


「では、僕は先に行きますね」


 静かな声だった。

 その言葉を口にした瞬間、胸の奥が少し痛んだ。

 先に行く。

 置いていくのではない。

 責めるのでもない。

 ただ、過去の僕が空けた場所へ、今の僕が入る。

 僕は、過去の自分の横を通った。

 肩には触れなかった。

 声も、それ以上はかけなかった。

 バスの入口に足をかける。

 金属の段差。

 ゴムの床。

 車内の湿った空気。

 胸の奥が縮む。

 ここだ。

 僕が乗れなかった場所。

 過去の僕が空けた場所。

 そこへ、今の僕が入る。

 運転手がこちらを見る。

 僕は小さく会釈して、車内へ進んだ。

 ドアが閉まる。

 その音を、今度は中から聞いた。

 振り返ると、窓の向こうに過去の僕がいた。

 バス停に立ったまま、こちらを見ている。

 不安そうな顔。

 情けない顔。

 何かを失ったことに、まだ気づききっていない顔。

 僕は、その顔を責めなかった。

 責められなかった。

 お前は逃げる。

 でも、それで終わりじゃない。

 心の中で、そう言った。

 バスが動き出す。

 過去の僕の姿が、窓の外で後ろへ流れていく。

 僕は吊り革を握った。

 右手が震えている。

 けれど、離さなかった。

 車内には、朝の匂いがあった。

 湿った制服。

 誰かの鞄。

 弱い冷房の風。

 床の揺れ。

 全部、覚えている。

 忘れたかったのに、覚えている。

 川上さんは、少し前に立っていた。

 窓際ではない。

 身を引こうとしても、人に塞がれる位置だった。

 彼女は、こちらを少しだけ見た。

 さっきバス停で過去の僕を見た時とは違う目だった。

 驚き。

 戸惑い。

 そして、ほんの少しの警戒。

 当然だと思った。

 僕は彼女にとって、知らない男だ。

 助けに来たなどと分かるはずがない。

 だから、近づきすぎない場所に立った。

 でも、見失わない位置にいた。

 バスは次の停留所へ向かう。

 車内の揺れに合わせて、人の肩がぶつかる。

 誰かの鞄が、僕の腰に当たった。

 朝の湿った空気が、制服と上着の間にこもる。

 胸の奥で、光が静かに揺れていた。

 ここに魔王はいない。

 核もない。

 牙も、黒い靄も、崩れる石畳もない。

 けれど、怖さはあった。

 こちらの世界の怖さだった。

 声を出す怖さ。

 間違う怖さ。

 見られる怖さ。

 誰かに笑われる怖さ。

 自分が大げさな人間だと思われる怖さ。

 小さくて、みっともなくて、それでも足を止めるには十分な怖さ。

 僕は、その怖さを知っている。

 知っているから、息を整えた。

 バスが大きく揺れた。

 川上さんの身体が、少し前へ流れる。

 その背後で、男が動いた。

 吊り革を掴まないまま、混雑に紛れるように半歩近づく。

 昨日、過去の僕が見たのと同じ位置だった。

 川上さんの肩が強張る。

 手が、つり革を握り直す。

 視線が落ち、逃げ場を探すように、ほんの少しだけ周囲を見る。

 僕は、それを見た。

 もう、見ないふりはできなかった。

 足を出した。人の肩と肩の隙間を抜けていくと、誰かの鞄が腰に当たった。靴先が、床に置かれた傘に触れた。すみません、と小さく言いながら、それでも止まらなかった。

 川上さんと男の間へ、身体を入れる。

 それだけのことだった。

 ただ、立つ場所を変えただけだ。

 けれど、足が重かった。吊り革を握る右手に、汗が滲む。


「すみません」


 声が出た。

 近くにいた数人がこちらを見る。

 心臓が跳ねた。

 見られた。

 やっぱり、見られた。


「――何ですか」


 僕が川上さんと男の間を少しだけ塞ぐように立つと、男はこちらを向いた。

 少し苛立ったような声だった。

 過去の僕を止めた目と同じだった。

 濁っている。

 怒っているわけではない。

 慌ててもいない。

 ただ、見たな、と言っているような目。

 背中が冷たくなる。

 手が震える。

 それでも、目を逸らさなかった。


「そこ、代わってもらえますか」


 車内が少しだけ静かになる。

 男の眉が動いた。


「は?」


「僕がここに立ちます」


 言い方は下手だった。

 もっと自然に言えればよかった。

 知り合いのふりをするとか。

 川上さんへ直接声をかけるとか。

 運転手に知らせるとか。

 うまいやり方は、きっといくらでもある。

 でも、今の僕にはこれが精一杯だった。

 男は口元を歪めた。


「混んでるんで、こっちに来ないでもらえますか?」


「そうですね。たしかに混んでますね」


 僕は頷いた。


「でも――僕はここに立ちたいんです」


 同じことを言っただけだった。

 けれど、一度目より声は少しだけ通った。

 周囲の視線が増える。

 誰かがスマートフォンから顔を上げる。

 誰かが、状況を察したように目を逸らす。

 誰かが、小さく息を呑む。

 誰もすぐには助けてくれない。

 それも知っている。

 僕だって、そうだった。

 男が小さく舌打ちした。

 彼は一歩下がった。

 完全に離れたわけではない。

 けれど、川上さんとの間に隙間ができた。

 僕はそこへ入った。

 吊り革を握る。

 右手が震えている。

 川上さんが、僕の背中の後ろで小さく息を吐いた。

 その音を聞いた瞬間、胸の奥が痛んだ。

 バスがまた揺れる。

 男は少し離れた場所に立ったまま、こちらを睨んでいる。

 僕は前を向いた。

 窓の外には、朝の道が流れている。

 何も起きていないように、店の看板が過ぎていく。

 信号で止まる。

 また動く。

 でも、何も起きていないわけではなかった。

 小さな場所が、ひとつ変わった。

 誰も立たなかった場所に、僕が立っている。

 次の停留所の案内が流れる。

 男は降りなかった。

 まだこちらを見ている。

 僕も、吊り革を握ったまま立っていた。

 逃げない。

 それだけを決めていた。

 川上さんは、しばらく何も言わなかった。

 言えなかったのかもしれない。

 彼女が今どんな顔をしているのか、見てしまえば、何かを言わなければならなくなる気がした。

 だから、ただ立っていた。

 彼女と男の間に。

 過去の僕が立てなかった場所に。

 バスの窓に、朝の光が差し込む。

 その光の中で、吊り革を握る右手が映った。

 震えは、まだ残っている。

 でも、離していなかった。

 あの日、伸ばせなかった手。

 つり革から離しかけて、男の目を見た瞬間に戻してしまった手。

 何度も思い出して、何度も嫌になった手。

 その手が、今はここにある。

 川上さんと男の間に。

 誰も立たなかった場所に。

 僕が立てなかった場所に。

 胸の奥で、小さな光が揺れた。

 次の停留所で、男が降りた。

 最後までこちらを睨んでいた。

 けれど、何も言わなかった。

 ドアが閉まる。

 男の姿が、窓の外で後ろへ流れていく。

 誰かが息を吐く。

 吊り革が揺れる。

 車体が小さく軋む。

 次の停留所の案内が流れると、川上さんが、小さく身じろぎする。次が学校前の停留所だ。僕も、少し遅れて出口へ向かった。降り口の前で、手が止まった。

 運賃。

 当たり前のことなのに、頭から抜けていた。

 黒い上着のポケットに指を入れる。

 硬貨があった。

 いつからそこにあったのかは分からない。

 アニエスが気を利かせたのか。

 転移が、この世界に合わせて整えたのか。

 それとも、僕が最初から持っていたことになっているのか。

 分からない。

 ただ、小さな金属の感触が指先に触れた。

 僕はそれを運賃箱へ落とした。

 硬貨の音が、小さく鳴る。

 その音で、ここが魔王のいる世界ではないのだと、少しだけ思い出した。

 ここには剣もない。

 術式もない。

 ただ、朝のバスと、運賃箱と、濡れた道路がある。

 それでも、怖さは確かにあった。

 僕は、その中で立った。

 バスを降りると、湿った朝の空気が頬に触れた。

 川上さんは、少し先で立ち止まっていた。

 こちらを振り返る。

 まだ戸惑いは残っている。

 けれど、さっきより呼吸は落ち着いていた。

 彼女は、もう一度小さく頭を下げた。


「ありがとうございました」


 声は小さかった。

 僕はすぐには答えられなかった。

 その言葉を受け取っていいのか、まだ分からなかった。

 あの日、助けなかった僕が。

 翌朝、バスに乗らなかった僕が。

 今さらここに立って、その言葉を受け取っていいのか。

 けれど、カテリーナの言葉を思い出した。

 お礼は――言えません。

 でも、フィルの世界は、暗いままではありませんでした。

 言葉は、それぞれ違う。

 重さも違う。

 でも、どちらも誰かが差し出したものだった。

 受け取らなければ、また見ないふりになる気がした。

 僕は、小さく頷いた。


「大丈夫です」


 何が大丈夫なのか、自分でも分からなかった。

 けれど、川上さんは少しだけ息を吐いた。

 それ以上の言葉はなかった。

 それでよかった。

 助けた、とは言えない。

 救った、とも言えない。

 ただ、あの日届かなかった場所に、ようやく手が届いた。

 そう思った。

 届いたからといって、何もかもが許されるわけではない。

 川上さんが受けた怖さも。

 僕が見ないふりをした事実も。

 翌朝、バスに乗れなかった自分も。

 消えない。

 それでも、もう目を逸らしてはいなかった。

 僕は、そこに立っていた。

 濡れた道路の向こうで、バスが走り去っていく。

 排気の匂いが、朝の空気に薄く混じる。

 道路脇の水たまりに、曇った空が映っていた。

 僕は、目を閉じた。

 戻る道を探す。

 アニエスが言っていた。

 同じ光を辿れ。

 向こうで迷うな。

 何をしに来たのか、忘れれば道は閉じる。

 忘れていない。

 僕は、立ちに来た。

 そして、立った。

 だから戻る。

 帰るためではなく。

 逃げるためでもなく。

 あの世界で、また前へ進むために。

 胸の奥の光が、静かに揺れる。

 車の音が遠くなる。

 濡れた道路の匂いが薄れていく。

 川上さんの小さな息遣いも、朝の街のざわめきも、少しずつ白くほどけていく。

 最後に、雲の切れ間から朝日が差した。

 それは、聖都の夜を満たした光とは違う。

 ただの朝の光だった。

 でも、まぶしかった。

 僕は、その光を見たまま、胸の奥で言った。

 戻ります。

 その言葉に、胸の奥の光が応えた。

 白くほどけていく世界の向こうに、ほんの一瞬、別の光景が見えた。

 光の院の祈りの間。

 割れた床。

 夜明け前の薄い光。

 そこに、アニエスが立っていた。

 もう、怪我人の女の姿ではなかった。

 白い長衣をまとい、髪を上げ、顔を隠していない。

 赤黒い線も、黒い霧も見えない。

 それでも、すべてが消えたわけではない。

 彼女の目には、まだ五百年分の疲れが残っていた。

 殺してしまった人を思い出す影も。

 見誤ってきた時間の重さも。

 けれど、壁際に沈んでいた時とは違った。

 彼女は、顔を上げていた。

 賢者としてでも。

 魔王としてでも。

 ただ、アニエスとして。

 僕が戻る道の先に立っていた。

 その姿を見た瞬間、戻る道の輪郭がはっきりした。

 僕が帰るのは、何も終わっていない場所だ。

 嘘が残る場所。

 傷ついた聖都。

 フィルが最後に光を見た光の院。

 イリアが瓦礫をどかし、サリアが術式を結び直し、カテリーナが誰かの手を握っている場所。

 そして、まだ終われないアニエスが立っている場所。

 そこへ戻る。

 逃げるためではなく。

 やり直すためでもなく。

 そこで、もう一度前へ進むために。

 胸の奥の光が、強く揺れた。

 そして、世界が白くなった――。

 ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

『光よ、満ちろ』は、過去に別名義で冒頭数話のみ試験的に公開したことがありますが、今回の投稿にあたり、現在の文体で全編を改稿しました。

 当時の自分が書いた熱を、今の自分の言葉で届け直すつもりで整えました。

 本作の空気や、弱さを抱えたまま前へ進む物語を気に入っていただけたなら、次の作品でもお会いできると嬉しいです。

 最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ