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光よ、満ちろ  作者: 織 航(しき わたる)


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第46話 僕の光

 夜は、すぐには明けなかった。

 光が消えたあとも、聖都にはしばらく白い余韻が残っていた。

 石畳の割れ目。

 崩れた壁の縁。

 倒れた荷車の車輪。

 血の滲んだ布。

 そこに淡い光が残り、やがて少しずつ薄れていった。

 魔物の声は、もう聞こえなかった。

 代わりに、人の声が戻ってきた。


「こっちだ!」


「まだ下にいる!」


「水を持ってこい!」


「怪我人を先に!」


 泣き声。

 呼び声。

 瓦礫をどかす音。

 誰かが誰かの名を呼ぶ声。

 夜の街のあちこちで、灯りが揺れる。

 光の院の者たちが、扉を開けた。

 逃げ込んでいた人々が、恐る恐る外へ出てくる。

 最初は誰も、広場の中央へ近づこうとしなかった。

 グレモルトが崩れた場所には、まだ白い粒が薄く漂っていた。

 大蛇の巨体は消えている。

 黒い灰も、濁った血も残っていない。

 ただ、魔王がいた場所だけ、石畳が深く抉れていた。

 そこへ最初に足を踏み出したのは、イリアだった。

 剣を杖のように突きながら、彼女は広場の中央を横切った。

 歩くたびに肩が揺れる。

 足も引きずっている。

 それでも、彼女は倒れた人の傍へ膝をついた。


「生きている。運べ」


 短く言う。

 近くにいた兵士が、はっとして走り出した。

 サリアも立ち上がった。

 杖に体重を預け、崩れかけた術式を解きながら、光の院の者たちへ指示を出す。


「治癒が必要な方は院内へ。動かせない方は、その場で布を敷いてください。水は節約を。火が回っている区画には、まだ近づかないで」


 声は掠れていた。

 けれど、誰も聞き返さなかった。

 その声があるだけで、周囲の人々は動き出せた。

 僕は、すぐには立てなかった。

 右手を握って、開く。

 指は動く。

 痛みもある。

 震えもある。

 確かに、僕の腕だった。

 それが不思議で、何度も同じ動きを繰り返した。


「勇者様」


 呼ばれて、顔を上げた。

 光の院の若い女が、布を抱えて立っていた。

 目元は泣き腫らしている。

 けれど、こちらを見る目には、さっきまでの怯えだけではないものがあった。


「こちらを……」


 差し出された布を、僕は受け取った。

 何に使うのか、一瞬分からなかった。

 彼女は僕の右腕を見て、次に肩を見た。

 そこに残った血と、裂けた衣服。


「あ……」


 ようやく分かった。

 僕は布を肩へ当てた。


「ありがとうございます」


 声が小さくなった。

 女は首を横に振った。


「こちらこそ」


 そう言って、別の怪我人のもとへ走っていった。

 こちらこそ。

 その言葉が、うまく頭に入ってこなかった。

 僕はこの世界にきて何をしたのだろうか。

 救えなかった人がいる。

 逃げて。

 切られて。

 泣いて。

 グレモルトを倒して。

 そして、光を満たした。

 でも、フィルは戻らない。

 全部が一緒に頭の中にあって、ぐちゃぐちゃだった。

 カテリーナは、崩れた壁の内側にいた。

 フィルを抱いたまま、動かなかった。

 誰かが毛布をかけようとしても、彼女はしばらく反応しなかった。

 やがて、光の院の年配の男がそっと膝をつき、何かを言った。

 カテリーナは小さく頷いた。

 フィルの身体を離す時、彼女の指はなかなかほどけなかった。

 僕は、そこへ近づけなかった。

 近づいて何を言えばいいのか分からなかった。

 ごめんなさい。

 それは違う気がした。

 助けられなくて。

 それは本当だった。

 でも、言葉にすると、あまりに軽い気がした。

 だから、ただ瓦礫の前に膝をついた。

 崩れた石を一つ、横へどかす。

 次の石を持ち上げる。

 右腕は動いた。

 さっきまでなかった腕が、重い石を掴んでいる。

 指先が痛む。

 手のひらの皮が擦れる。

 その痛みが、少しだけありがたかった。

 何も感じないより、ずっといい。


「勇者様、そちらは危ないです」


 光の院の男が言った。


「奥の柱が割れています」


「なら、先に支えます」


 僕は立ち上がった。

 足元がふらつく。

 それでも、壁の傍へ向かった。

 イリアが遠くからこちらを見る。


「無理をするな」


 いつもの声だった。

 冷たく聞こえるのに、今は少し違って聞こえた。


「倒れたら邪魔だ」


「分かっています」


「分かっていない顔だ」


 イリアはそう言って、近くの兵士を顎で示した。


「二人つけ。勇者を支えろ。瓦礫の下敷きになられたら面倒だ」


 兵士たちは慌てて頷いた。

 僕の左右に立つ。

 支えられながら、僕は割れた柱に手を当てた。

 ただ、力を込める。

 サリアが近くに来て、杖で床へ線を描いた。


「一時的に固定します。リュシアン様、そのまま押さえていてください」


「はい」


 彼女の術式が、石と木の間に淡く走る。

 ぐらついていた柱が、わずかに落ち着いた。

 奥から、まだ避難していた人たちが出てくる。

 小さな子ども。

 足を怪我した老人。

 肩を貸し合う女たち。

 その中の一人が、僕を見て立ち止まった。

 深く頭を下げる。

 次の人も。

 また次の人も。

 やめてほしかった。

 けれど、やめてくださいとは言えなかった。

 言えば、何かを否定してしまう気がした。

 僕が受け取れるものではない。

 でも、彼らは何かを渡そうとしていた。

 それだけは分かった。

 だから、僕は小さく頭を下げ返した。

 何度も。

 何度も。

 夜の間、復旧は続いた。

 火が回った区画には水が運ばれた。

 崩れた門の近くでは、兵士たちが瓦礫を積み直していた。

 北と西と南から、少しずつ報せが届く。

 魔物の群れは崩れた。

 光に触れたものは消え、逃げたものも聖都の外へ向かった。

 防衛圏の外側では、まだ魔物同士がぶつかっているらしい。

 それがアニエスの支配に残ったものなのだと、僕にはあとから分かった。

 その報せを聞いた時、僕はアニエスを探した。

 けれど彼女は見つからず、代わりに少し離れた壁際に、見慣れない女が座っていた。

 最初は、怪我人の一人かと思った。

 破れた薄い外套を肩からかけ、髪を顔の横へ落とし、光の院の者から渡された布で腕を隠している。

 ただ、疲れ切った人間の女が、壁に背を預けて座っているように見えた。

 けれど、目が合った瞬間、分かった。

 アニエスだった。

 彼女は、僕を見て、ほんのわずかに目を細めた。

 それから、視線だけで周囲を示す。


『言うな』


 そう言われた気がした。

 僕は息を呑んだ。

 周りには、光の院の人々がいる。

 兵士もいる。

 避難していた住民もいる。

 人の目から外れた場所に、彼女は身を潜めていた。

 白い長衣ではなかった。

 頬から首へ走っていた赤黒い線も、見えない。

 足元にあった黒い霧も消えている。

 賢者として指示を出すでもなく。

 魔王として力を振るうでもなく。

 アニエスとして誰かの前に立つでもなく。

 ただ、見知らぬ怪我人の女として、壁際に沈んでいた。

 誰にも名を呼ばれたくないのだと思った。

 誰にも顔を見られたくないのだと思った。

 五百年前を見た目で。

 殺してしまった人を思い出した目で。

 そして、誤りを知ってしまった目で。

 アニエスは、人の中に戻ることも、魔王として立つこともできず、そこに座っていた。

 正体を隠すために、人の形へ整えている。

 それはたぶん本当だ。

 でも、それだけなら、もっと人目につかない場所へ消えることもできたはずだった。

 それでも彼女は、壊れた光の院の壁際にいた。

 誰にも触れられない距離で。

 誰かが倒れた時だけ、すぐに手を伸ばせる距離で。

 人の中に紛れていた。

 そのことに気づいた瞬間、背筋が冷えた。

 グレモルトは消えた。

 でも、全部が終わったわけではない。

 アニエスの正体も。

 勇者の器の真実も。

 防衛圏の嘘も。

 何一つ、まだ明るみに出てはいない。

 サリアがアニエスの傍に膝をついた。

 声を落として、何かを言う。

 アニエスは小さく首を振った。

 サリアの表情が硬くなる。

 イリアも気づいていた。

 アニエスは、周囲の人々の視線が逸れた隙に、崩れた壁の方へ手を伸ばした。

 ほんの少しだけ、指先に力が集まる。

 黒ではない。

 けれど、勇者の白とも違う。

 薄く濁った光が、割れた石の隙間へ染み込んだ。

 崩れかけていた壁が、わずかに落ち着く。

 人々は、それをサリアの術式だと思ったのかもしれない。

 誰も、アニエスを見なかった。


「崩れるのを遅らせただけだ」


 アニエスが言った。

 声は低く、人の声に聞こえるように抑えられていた。


「それ以上はできない」


「十分です」


 サリアが答えた。

 その会話も、周囲には届かないほど小さかった。

 アニエスは何も言わなかった。

 ただ、石の粉で汚れた自分の指先を見ていた。

 その手は、人の手に見えた。

 けれど、僕は知っている。

 その内側に、まだ魔王がいる。

 隠しているだけだ。

 聖都の人々に悟られないように。

 光の院の者たちに正体を知られないように。

 彼女は、今この場では、ただの怪我人の女として座っている。

 その不安定さが、逆に胸に残った。

 人の姿に戻っても、罪が消えたわけではない。

 魔王でなくなったわけでもない。

 それでも、今は瓦礫を支えている。

 それだけが、目の前にあった。

 カテリーナはフィルを院の奥へ運んだあと、しばらく姿を見せなかった。

 けれど夜が深くなった頃、布を抱えて戻ってきた。

 目は赤い。

 頬も濡れている。

 それでも、彼女は僕の前で立ち止まった。


「勇者様」


 僕は手を止めた。

 また、その呼び方だった。

 でも、今度は胸が強く痛まなかった。


「休んでください」


 彼女は言った。


「ずっと動いています」


「でも、まだ――」


「まだあります」


 カテリーナは頷いた。


「だから、少し休んでから、また手伝ってください」


 その言い方に、僕は何も返せなかった。

 休め、ではない。

 もういい、でもない。

 また手伝ってほしい。

 そう言われた。

 僕は小さく頷いた。


「分かりました」


 カテリーナは、抱えていた布を僕の肩へかけた。

 その手も震えていた。

 けれど、彼女は布を落とさなかった。


「フィルは」


 そこまで言って、言葉が止まった。

 聞いていいのか分からなかった。

 カテリーナは、少しだけ目を伏せた。


「眠っています」


 そう言った。

 嘘ではないのだと思った。

 ただ、生きているという意味ではなかった。


「最後まで、光を見ていました」


 カテリーナの声が震える。


「怖くないって、言っていました」


 僕は何も言えなかった。

 カテリーナは僕を見た。


「お礼は――言えません」


 胸が少し痛んだ。


「はい」


「でも」


 彼女は布の端を握った。


「フィルの世界は、暗いままではありませんでした」


「……はい」


 僕は頷いた。

 それ以上、言葉は出なかった。

 夜がさらに深くなってから、光の院の中へ入った。

 廊下には負傷者が並んでいる。

 水の入った桶。

 血で汚れた布。

 薬草の匂い。

 石の粉。

 白い院の中は、もう白だけではなかった。

 汚れていた。

 傷ついていた。

 でも、人がいた。

 誰かが誰かを呼び、誰かが水を運び、誰かが眠れない子どもの背を撫でている。

 その中を歩いていると、何人かが僕に気づいた。

 頭を下げる者がいた。

 何も言えずに泣く者がいた。

 ただ道を空ける者もいた。

 僕は、そのたびに足を止めた。

 どうすればいいのか分からない。

 でも、逃げるように通り過ぎることだけはしたくなかった。

 廊下の奥に、小さな洗い場があった。

 水瓶と、ひびの入った陶器の器。

 壁には、古い鏡が掛かっている。

 僕はそこで足を止めた。

 鏡。

 そういえば、この世界に来て最初に鏡を見た。

 あの時は、自分の顔だとは思えなかった。

 白い衣装。

 整った顔。

 作り物のような肌。

 勇者リュシアンの器。

 見たはずだった。

 けれど、ほとんど何も覚えていない。

 目の色も。

 表情も。

 そこに何が映っていたのかも。

 ただ、自分ではないものが映っていると思ったことだけを覚えている。

 僕は、鏡の前に立った。

 ひびの入った鏡に、疲れ切った顔が映っていた。

 髪は乱れ、頬には煤がつき、白い衣装も破れている。

 肩にはカテリーナがかけてくれた布がある。

 右手はまだ震えていた。

 僕は、その顔を見た。

 勇者らしい顔ではなかった。

 泣いた跡がある。

 唇も切れている。

 目元は赤く、情けないくらい疲れている。

 けれど、視線を逸らせなかった。

 鏡の中の瞳。

 その奥に、光があった。

 最初に見た時には、印象にも残らなかった瞳。

 作られた器の、ただ整っただけの目。

 そう思っていた場所に、今ははっきりと白いものが宿っている。

 炎ではない。

 宝石の輝きでもない。

 もっと小さい。

 もっと柔らかい。

 まるで、瞳の奥に小さな精霊が座っているようだった。

 僕の中に。

 器の奥ではなく。

 術式に押し込まれたものでもなく。

 僕の瞳の奥に、宿っていた。

 右手を鏡へ伸ばす。

 指先が、冷たい鏡面に触れる。

 鏡の中の僕も、同じように手を伸ばしている。

 情けない顔をして。

 泣きそうな目をして。

 それでも、その奥に光を宿して。


「……僕の」


 声が出た。

 小さく、掠れていた。


「光」


 言った瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。

 勇者リュシアンの光。

 そう呼ばれてきたもの。

 器に刻まれ、使われ、切り取られ、喰わせられてきたもの。

 でも、鏡の中にあるそれは、誰かに押しつけられた名前だけではなかった。

 怖かった。

 逃げたかった。

 逃げたこともある。

 それでも、立った。

 カテリーナの前に。

 フィルの前に。

 黒い光の前に。

 その結果として、ここに宿ったものだった。

 僕は鏡を見つめた。

 瞳の奥の光は、消えなかった。

 強くもない。

 眩しくもない。

 けれど、確かにそこにあった。

 右手の震えも、まだ止まらない。

 それでも、鏡の中の僕はもう、完全な空っぽには見えなかった。

 廊下の向こうから、誰かが呼ぶ声がした。


「勇者様、こちらを手伝っていただけますか」


 僕は鏡から手を離した。

 深く息を吸う。

 まだ怖い。

 疲れている。

 逃げたい気持ちも、どこかに残っている。

 でも、足は動いた。


「はい」


 僕は答えた。

 鏡の中の光を、もう一度だけ見てから、廊下へ戻った。


 復旧作業が一段落したのは、夜明け前だった。

 空はまだ暗い。

 けれど、完全な夜ではなくなっていた。

 東の空の端が、ほんの少しだけ薄くなっている。

 聖都の白い壁は、灰色に沈んでいた。

 崩れた門も、抉れた石畳も、夜の間に運び出せなかった瓦礫も、朝を待つように黙っている。

 光の院の廊下では、眠った者たちの息が重なっていた。

 負傷者。

 避難してきた子ども。

 治癒術を使い果たした院の者たち。

 床に座り込んだまま眠ってしまった兵士。

 誰も、きれいな姿ではなかった。

 けれど、誰も一人ではなかった。

 僕は、水の入った桶を置いた。

 右腕はまだ重い。

 何度も瓦礫を持ち上げたせいで、手のひらが赤くなっている。

 傷はすぐに消えなかった。

 それが、少しだけ不思議だった。

 勇者の器なのに。

 でも、今はそれでよかった。

 痛みが残ることが、なぜか人間らしく思えた。


「リュシアン様」


 サリアの声がした。

 振り返ると、廊下の奥に彼女が立っていた。

 顔色はまだ悪い。

 杖を持つ手も疲れている。

 それでも、背筋は伸びていた。


「少し、お時間をいただけますか」


 僕は頷いた。

 案内されたのは、光の院の奥にある小さな祈りの部屋だった。

 壁には小さな燭台がある。

 窓は細く、外の明るさはまだ入ってこない。

 部屋には、イリアがいた。

 腕に包帯を巻き、壁にもたれている。

 剣は手元に置いていた。

 その隣に、見慣れない女が座っている。

 破れた外套。

 落とした髪。

 疲れた顔。

 広場の壁際で見た、怪我人の女。

 アニエスだった。

 扉が閉まると、彼女は顔の横に落としていた髪を払った。

 白い肌が見える。

 頬から首にかけて、赤黒い線はもう見えなかった。

 黒い霧もない。

 見た目だけなら、ただの疲れた女だった。


「座れ」


 イリアが言った。

 僕は扉の近くに腰を下ろした。

 少し沈黙があった。

 最初に口を開いたのは、アニエスだった。


「お前が見たことは、外では口にするな」


 声は静かだった。

 命令のようでもあり、懇願のようでもあった。


「私のことも。勇者の器のことも。五百年前のことも。防衛圏のことも」


 僕は頷いた。


「分かっています」


 本当に分かっているのかは、自分でも分からなかった。

 でも、言ってはいけないことだということは分かる。

 今それを口にすれば、聖都はもう一度壊れる。

 グレモルトに壊された壁ではなく、もっと内側から。


「勇者の仕組みは?」


 僕は言いかけて、喉が詰まった。

 制度。

 器。

 魂。

 喰わせるための身体。

 そのどれもが、うまく言葉にならない。

 アニエスは僕を見た。


「すぐには終わらない」


 短く言った。

 胸の奥が沈んだ。

 分かっていた。

 分かっていたけれど、聞きたくなかった。


「グレモルトは倒れた。だが、魔王はあれ一体ではない。防衛圏も傷んだ。聖都の外には、まだ闇がある」


「だから、また僕を使うんですか」


 声が出た。

 思っていたより、低かった。

 サリアが目を伏せた。

 イリアは何も言わない。

 アニエスは、逃げなかった。


「使おうとしてきた」


 彼女は言った。


「私は、そうしてきた。何度も。お前の前にいた魂にも、その前にも」


 燭台の火が揺れる。


「言い訳はしない」


 アニエスの指が、自分の膝の上で小さく握られた。


「だが、今日、お前は自分で光を放った」


 その言葉は、鏡の中で見た瞳の光に重なった。

 小さな精霊のような白いもの。

 押し込まれたものではなく、瞳の奥に宿っていた光。


「それが何を意味するのか、私にもまだ分からない」


 アニエスは言った。


「分からないことが、五百年ぶりにある」


 それは、少しだけ意外な言葉だった。

 アニエスは何でも知っているのだと思っていた。

 ずっと前からいて、全部を作り、全部を隠してきた人。

 その人が、分からないと言った。


「私は、リュシアンを見誤った」


 アニエスの声が細くなった。


「そして、今日までお前たちを見誤っていた」


 サリアが息を止めた。

 イリアがわずかに目を細める。


「だからといって、罪が消えるわけではない」


 アニエスは続けた。


「お前が私を許す必要もない。イリアも、サリアも、聖都の誰も、私を許す必要はない」


 彼女は、そこで少しだけ視線を落とした。


「ただ、私はまだ死ねない」


 静かな声だった。


「死んで終われるほど、軽くない」


 誰も答えなかった。

 僕は、フィルの顔を思い出していた。

 最後まで光を見ていた目。

 カテリーナの震える肩。

 お礼は言えません、と言った声。

 許すとか、許さないとか。

 その言葉は、今の僕には大きすぎた。


「僕は」


 言葉を探した。


「僕は、まだ何も分かりません」


 アニエスが僕を見る。


「あなたをどう思えばいいのかも。勇者リュシアンという名前をどう受け取ればいいのかも。自分の光が何なのかも」


 右手を握る。

 まだ震えている。


「でも、もう、見ないふりはしたくありません」


 それだけは言えた。

 アニエスの顔が、少しだけ歪んだ。

 痛みを受けたような顔だった。


「そうか」


 短く言った。

 イリアが壁から背を離した。


「なら、しばらくはそれでいい」


 僕は彼女を見る。


「聖都での戦いは終わった。人は死んだ。嘘は残った。だが、お前は立った」


 イリアは剣を拾う。


「今すぐ全部の答えを出そうとするな。出した顔をしたら、殴る」


「……はい」


「それでいい」


 サリアが小さく息を吐いた。

 泣いているようにも、笑っているようにも見えた。


「リュシアン様」


 彼女は言った。


「あなたには、休息が必要です」


「皆、休んでいません」


「だからです。立っている人が倒れれば、次に支える人が増えます」


 そう言われると、返せなかった。

 イリアが扉へ向かう。


「少し寝ろ。起きたらまた瓦礫運びだ」


「はい」


 扉が開く。

 外の廊下から、まだ人の声が聞こえてくる。

 僕は立ち上がった。

 部屋を出る前に、もう一度アニエスを見た。

 彼女はまだ、人の姿をしていた。

 怪我人の女として、誰にも悟られない顔でそこに座っている。

 けれど、その目だけは、隠しきれていなかった。

 五百年前を見ている目だった。

 殺してしまった人を見ている目だった。

 そして、まだ終われない人の目だった。

 僕は何も言わず、部屋を出た。

 廊下の先で、空が少しだけ白み始めていた。

 夜が明ける。

 けれど、何も終わってはいない。

 そう思いながら、僕は光の院の廊下を歩いた。

 それから、聖都は少しずつ朝を迎えた。

 夜明けの光は、昨夜の白い光とは違っていた。

 弱く、冷たく、どこか頼りない。

 それでも、人々はその光の下で瓦礫をどかし、倒れた者を運び、まだ使える布を洗った。

 カテリーナは、光の院に残った。

 フィルの眠る部屋の扉を何度も見に行きながら、それでも水を運び、怪我人の手を握った。

 僕が重い石を持ち上げると、彼女は横から小さな石をどかした。

 会話は多くなかった。

 けれど、彼女はもう僕の前で身を引かなかった。


「勇者様、そちらをお願いします」


 そう言われるたび、胸は少し痛んだ。

 でも、苦しさだけではなかった。

 呼ばれるたびに、僕は少しずつ、その場所へ足を運べるようになった。

 人々は僕を見た。

 頭を下げる者もいた。

 泣く者もいた。

 祈る者もいた。

 怖がる者もいた。

 それでも、光の院で瓦礫を運んでいるうちに、少しずつ、その視線は遠くの英雄を見るものだけではなくなっていった。


「勇者様、そこを持ってください」


「はい」


「そっちは重いです。手を挟まないでください」


「分かりました」


「少し休んでください。顔色が悪いです」


「あと一つだけ」


「駄目です」


 そう言って、年配の女に叱られた。

 周囲にいた人が、小さく笑った。

 僕も、少しだけ息を漏らした。

 笑えたのかどうかは分からない。

 でも、その場にいた。

 勇者として祀られているのではなく。

 器として運用されているのでもなく。

 瓦礫を運ぶ手として。

 水を渡す人として。

 誰かに呼ばれて、そこへ行く者として。

 光の院は、僕を受け入れていた。

 完全にではない。

 何もかもを知っているわけでもない。

 でも、あの夜、震えながら立った僕を見た人たちは、僕が痛がることも、疲れることも、休まなければ倒れることも知ってしまった。

 その上で、手伝ってほしいと言った。

 それが、ありがたかった。

 同時に、怖かった。

 受け入れられることにも、重さがあるのだと知った。

 何日かが過ぎた。

 聖都の傷は、まだ残っていた。

 東門の崩れた壁は仮の木組みで支えられ、北と西と南の区画にも焼け跡が残っている。

 グレモルトの名は、街のあちこちで囁かれた。

 勇者リュシアンの光も。

 けれど、真実は語られなかった。

 勇者の器のことも。

 アニエスの正体も。

 防衛圏の本当の仕組みも。

 何も。

 街に伝えられたのは、こうだった。

 勇者リュシアンが魔王グレモルトを討った。

 賢者アニエスと、随伴者イリア、サリアがそれを支えた。

 光は聖都を満たし、魔物の群れを退けた。

 嘘ではない。

 けれど、すべてでもない。

 僕はその話を聞くたびに、鏡の中の瞳を思い出した。

 奥に宿っていた小さな光。

 あれだけが、僕にとっての本当だった。

 聖都の復旧が進み始めた頃、僕はもう一度、光の院の洗い場へ行った。

 ひびの入った鏡は、まだ壁に掛かっている。

 僕はその前に立った。

 最初にこの世界で鏡を見た時のことを、もう一度思い出そうとした。

 白い衣装。

 整った顔。

 勇者リュシアンの器。

 でも、やはり瞳の記憶はない。

 印象に残っていない。

 ただ、空っぽだったのだと思う。

 少なくとも、僕にはそう見えていた。

 今は違った。

 鏡の中の瞳の奥に、白い光がある。

 小さな精霊のように。

 消えそうで、消えない。

 静かにそこにいる。

 誰かに入れられたものではない。

 僕が怖いまま立った場所に、宿ったもの。

 僕は鏡に映る自分を見た。


「……まだ、怖い」


 声に出してみた。

 光は消えなかった。


「逃げたい」


 それでも、消えなかった。

 指先で、鏡のひびに触れる。


「僕は、行きます」


 誰に言ったのか分からなかった。

 リュシアンにかもしれない。

 フィルにかもしれない。

 あの時、置いてきた誰かにかもしれない。

 鏡の中の光は、ただ静かに揺れていた。

 僕は、この世界で生きていくのだと思った。

 勇者リュシアンという名前を背負ったまま。

 まだ何も終わっていない嘘の中で。

 傷ついた聖都の中で。

 僕を勇者と呼ぶ人たちの中で。

 ここで、目を逸らさずに生きていく。

 そう思った時、ひとつだけ、どうしても心に残るものがあった。

 あの朝のことだった。

 バスの中。

 気づいていたのに、動かなかったこと。

 声を出せばよかったのに、見ないふりをしたこと。

 その翌朝、助けなければならないと分かっていたのに、バスに乗らなかったこと。

 あれを捨て置いたままでは、僕はまたどこかで目を逸らす気がした。

 この世界で生きると決めたからこそ、なおさら、あの場所を見ないふりにはできなかった。

 逃げた過去を消したいのではない。

 あの時の僕を、なかったことにしたいのでもない。

 ただ、あの朝だけが、まだ僕の中で終わっていなかった。

 誰も立たなかった場所。

 僕が立てなかった場所。

 そこへ戻れるのかは分からない。

 戻る方法があるのかも分からない。

 それでも、もしもう一度あの場所に立つことが許されるなら。

 今度は、目を逸らしたくなかった。

 僕は鏡から離れた。

 廊下の向こうでは、まだ人の声がしている。

 水を運ぶ音。

 誰かを呼ぶ声。

 朝を待つ聖都の息遣い。

 ここで生きていく。

 その思いは変わらない。

 帰るためではない。

 逃げるためでもない。

 この世界で前へ進むために。

 ただ、あの朝だけが、まだ胸の奥に残っていた。

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