第45話 救えなかった光
フィルが、崩れた壁の向こうから這うように出てきた。
カテリーナの服を掴んで、僕を見ている。
その目に、光が映っていた。
怖さも、驚きもある。
けれど、絶望だけではなかった。
フィルは、かすれた声で言った。
「……きれい、だった」
僕は何も言えなかった。
喉が詰まった。
ただ、右手を伸ばした。
触れていいのか分からなかった。
それでも、フィルは逃げなかった。
小さな手が、僕の指先に触れた。
その手は冷たかった。
でも、確かに生きていた。
サリアが、膝をついたままこちらを見ていた。
頬に涙が流れている。
「……発動、しました」
彼女は呟いた。
「中心の術式が、初めて……」
言葉の途中で、声が崩れた。
イリアは、剣を支えにして立っていた。
しばらく何も言わなかった。
やがて、ゆっくりと剣を下ろす。
「今のは――」
彼女は言った。
「私たちが使わせた光じゃない」
その声は、いつもの鋭さを残していた。
けれど、どこか遠かった。
「お前が出した」
僕は顔を上げられなかった。
何かを言えば、また崩れそうだった。
アニエスが、壁の下で動いた。
白い石を押しのける。
立ち上がろうとして、膝をつく。
それでも、彼女は僕を見ていた。
いや、僕の向こうを見ていた。
たぶん、五百年前の誰かを。
「……震えていたのか」
アニエスが言った。
声は小さかった。
誰に訊いたのか分からない。
「お前も、ずっと」
その問いに答える者はいなかった。
リュシアンはもういない。
五百年前から、ずっといない。
それでも、術式は残っていた。
彼が強かったからではない。
恐怖を消したからでもない。
怖いまま、手を伸ばしたから。
その形だけが、器の中心に残っていた。
アニエスの顔が歪んだ。
泣いているようにも見えた。
笑っているようにも見えた。
どちらでもないようにも見えた。
「私は……」
彼女は言った。
「ずっと、見ていなかったのだな」
赤黒い線の走る手が、石畳を掴む。
「立っているところだけを見ていた。戻ってくるところだけを見ていた。光っているところだけを見ていた」
声が震えていた。
「あいつが、戻る前にどれほど怖かったのかも。剣を握る手が震えていたことも。私の前に立つたび、死にたくないと思っていたかもしれないことも」
アニエスは目を伏せた。
「何も、見ていなかった」
そのまま、彼女は崩れた石畳へ視線を落とした。
「あの日も……そうだったのか」
声が、さらに細くなる。
「老いたからではなかった。光を失ったからでもなかった」
誰も動かなかった。
イリアも。
サリアも。
僕も。
アニエスだけが、五百年前の一点を見ていた。
黒い森。
最後の戦い。
殺すつもりのなかった、気の抜けた黒い靄。
いつものリュシアンなら、簡単に弾いたはずの一撃。
けれど、あの日のリュシアンは、剣を上げなかった。
光も灯さなかった。
アニエスは、ずっとそれを衰えだと思っていた。
老いにより、勇者の光が失われたのだと思っていた。
だから、老いない器を作った。
壊れても戻る身体を作った。
何度でも光を灯せるはずの術式を刻んだ。
でも、違った。
「あいつは、私を討つ魔王として見ていなかったのだな。哀れんだのではない。見下したのでもない。ただ……私を人として見て、私の前に立っていた」
魔王を討つ心構えではなく。
ただ、一人の少女へ接する心構えで。
だから、光は盾にならなかった。
刃にもならなかった。
アニエスは、口元を歪めた。
笑おうとしたのかもしれない。
泣こうとしたのかもしれない。
けれど、そのどちらにもならなかった。
「私は、それを殺したのか」
誰も答えなかった。
答えられるはずがなかった。
光の院の広場に、白い粒がまだ舞っている。
遠くの警鐘が、少しずつ弱くなっていく。
グレモルトが消えたことで、北と西と南の魔物の群れにも乱れが出ているのかもしれない。
けれど、まだ完全には止まっていない。
遠くで、悲鳴が上がった。
それは小さかった。
でも、確かに聞こえた。
続いて、別の方向からも。
北。
西。
南。
魔王は消えた。
けれど、聖都に入り込んだ魔物は、まだ残っている。
グレモルトの支配が砕け、群れは乱れている。
それでも、闇に濁った精霊と魔物たちは、まだ人を襲っていた。
サリアが顔を上げた。
「まだ……終わっていません」
その声は弱かった。
けれど、事実だった。
イリアが剣を握り直す。
しかし、足が動かない。
もう立っているだけで限界だった。
アニエスも同じだった。
赤黒い線は濃く、黒い霧も途切れかけている。
僕は、右手を見た。
震えていた。
今すぐ倒れたい。
もう一度立つ力など残っていない。
でも、遠くで誰かが叫んでいる。
僕は、その声を聞いてしまった。
聞こえないふりはできなかった。
フィルが、僕の指先を握った。
冷たい手だった。
「……まだ、光る?」
かすれた声だった。
僕は、フィルを見た。
その顔は白い。
唇の色も薄い。
命そのものが、細い糸のように揺れているのが分かった。
カテリーナも、それを分かっていた。
彼女はフィルを抱きしめる手に力を込めた。
僕は答えられなかった。
光れば、フィルが助かるわけではない。
それは、さっき分かった。
光は万能ではない。
傷も、罪も、失ったものも、なかったことにはできない。
それでも。
僕は、右手を握った。
震えは止まらない。
止まらないまま、胸の奥の術式へ触れる。
今度は、グレモルトの核へ向ける光ではなかった。
誰かを焼くためでもない。
どこか一か所へ押し込むためでもない。
聖都へ。
この白い街へ。
まだ逃げている人たちへ。
誰かを抱えて走る人へ。
泣いている子どもへ。
倒れた兵士へ。
暗がりの中で、まだ何かに怯えている人へ。
届くように。
僕は息を吸った。
喉が痛い。
声はほとんど出なかった。
「光よ」
光の院の壁が、淡く白んだ。
崩れた石の隙間に、光が染み込む。
いつの間にか、聖都は夜の中にあった。
遠くで上がる火の色が、黒い屋根の向こうで揺れている。
逃げ惑う人の影が、白い壁に細く伸びていた。
フィルの目が、わずかに大きくなった。
僕は続けた。
「満ちろ」
白い光が、広場から広がった。
爆発ではなかった。
刃でもなかった。
波のように、ゆっくりと。
けれど確かに。
光の院から、聖都の道へ。
白い石畳の割れ目へ。
崩れた門へ。
北へ。
西へ。
南へ。
光が満ちていく。
闇に濁った魔物たちが、光に触れた。
焼けるものもいた。
ばらばらになるものもいた。
黒い靄を失い、ただの小さな精霊の残り香のように空へ消えていくものもいた。
人を追っていた影が、足を止める。
牙を剥いていた獣が、白い光の中で崩れる。
空を飛んでいた黒い鳥の群れが、一斉に羽を散らし、光の粒へ変わる。
聖都のあちこちで、悲鳴が止まった。
代わりに、息を呑む音が広がっていく。
光が、夜の街を満たしていた。
朝のような光ではなかった。
昼のような強さでもなかった。
もっと静かで、もっと近い。
誰かが震える手で隣の人を掴む、その指の間に入るような光。
泣いている子どもの頬に触れるような光。
倒れた人の目に、最後まで暗闇だけを残さないための光。
フィルは、それを見ていた。
カテリーナに抱えられたまま、崩れた壁の向こうから。
目を閉じずに。
光が、彼の瞳に映っている。
「……さっきより」
フィルが言った。
声は、ほとんど息だった。
「明るい」
カテリーナの顔が歪んだ。
「フィル」
「怖く……ない」
フィルは、小さく笑おうとした。
うまく笑えてはいなかった。
でも、その目は光を追っていた。
「勇者様の、光……」
僕は何も言えなかった。
違う、とも言えない。
大丈夫だ、とも言えない。
フィルの手から、少しずつ力が抜けていく。
カテリーナが、その手を両手で包む。
「フィル」
呼ぶ。
もう一度。
「フィル」
フィルの目は、まだ光を見ていた。
光の満ちた聖都を。
闇がほどけていく空を。
その瞳から、少しずつ焦点が消えていく。
最後に、彼は本当に小さく呟いた。
「……きれい」
それだけだった。
そのあと、フィルの手から力が抜けた。
カテリーナが息を止めた。
次の瞬間、彼女は声を出さずに泣いた。
泣き声にならなかった。
ただ、フィルの身体を抱きしめ、肩を震わせた。
僕は、光の中でそれを見ていた。
救えなかった。
光は満ちた。
魔物は消えた。
聖都は守られたのかもしれない。
でも、フィルは戻らない。
その事実が、胸に沈んだ。
重かった。
逃げ出したくなるほど重かった。
けれど、今度は目を逸らさなかった。
フィルが最後に見ていた光を、僕も見た。
消えない痛みの中で。
消えない後悔の中で。
それでも、暗闇だけでは終わらなかった光を。
遠くの警鐘が、ひとつ、またひとつと止まっていく。
聖都に、白い光が満ちていた。
僕は、震える右手を握った。
その手はまだ、僕のものだった。
でも、もう僕だけのものではない気がした。




