第44話 グレモルトの核
音が消えた。
グレモルトの咆哮も。
光の院の崩れた壁の軋みも。
イリアの荒い息も。
サリアの詠唱も。
カテリーナがフィルを抱き寄せる音も。
すべてが遠のいた。
ただ、僕の右手の先に、何かがあった。
硬い。
冷たい。
生き物の心臓とは違う。
けれど、確かに脈のようなものがある。
黒く濁った核。
グレモルトという魔王の中心。
そこに、僕の光が触れていた。
触れた瞬間、膨大なものが流れ込んできた。
怒り。
嘲り。
飢え。
長い年月をかけて積み上がった闇。
人を見下してきた視線。
魔王を従えてきた傲慢。
アニエスを哀れみ、嘲り、それでもどこかで恐れていた記憶。
その全部が、黒い水のように押し寄せる。
吐きそうになった。
手を離したかった。
こんなものに触れていたくなかった。
けれど、離せば光は届かない。
カテリーナが後ろにいる。
フィルがいる。
イリアがいる。
サリアがいる。
アニエスがいる。
僕は歯を食いしばった。
怖い。
気持ち悪い。
逃げたい。
それでも、右手を引かなかった。
光は、核の表面を焼いた。
黒い殻に、白い亀裂が走る。
グレモルトが絶叫した。
静けさが破れた。
「貴様ァ!」
巨体が暴れる。
石畳が割れた。
光の院の壁から、さらに石が落ちる。
カテリーナがフィルを抱きしめる。
イリアの剣が軋む。
サリアの術式が震える。
それでも、二人は支えていた。
僕の光が折れないように。
僕の右手が、核から逸れないように。
「押し込め!」
イリアが叫んだ。
「そのまま、奥へ!」
奥へ。
言われるまでもなく、光は進もうとしていた。
けれど、核の内側から、黒い力が押し返してくる。
グレモルトの闇は、ただ焼かれるのを待ってはいなかった。
白い光を噛み砕こうとする。
絡みつき、濁らせ、僕の中へ逆流しようとする。
右腕が軋んだ。
光でできた腕の内側に、黒い筋が浮かぶ。
「っ……!」
痛い。
さっきまでの痛みとは違う。
腕を切られる痛みでも、喰われる痛みでもない。
中から黒く塗り潰されるような痛みだった。
「リュシアン様!」
サリアが叫ぶ。
術式の線が、僕の足元から右腕へ伸びる。
白い光が補強される。
けれど、足りない。
グレモルトの核が、光を呑み返そうとしている。
「やはり器だ」
グレモルトが、苦痛の中で笑った。
「どれほど光ろうと、器は器。中身ごと、闇で満たせば――」
黒い力が、右腕を伝って胸へ入ろうとした。
息が止まる。
冷たいものが、心臓へ触れかける。
その瞬間、胸の奥で、さっき開いた術式がまた震えた。
光よ、満ちろ。
言葉ではなく、道があった。
外から闇を押し返すのではない。
内側を先に満たす。
空いた場所を残さない。
恐怖も、痛みも、後悔も、逃げた記憶も。
全部を消すのではなく、全部を抱えたまま満たす。
僕は息を吸った。
黒いものが胸に触れる。
怖い。
でも、そこに空洞を作らなかった。
逃げた自分。
見ないふりをした自分。
腕を切られて泣いた自分。
喰われて逃げた自分。
全部、ここにある。
なかったことにはできない。
勇者らしくない。
けれど、それらすべてが、僕だ。
白い光が、胸の奥から広がった。
黒い筋が止まる。
右腕に浮かんでいた闇が、白い光の中でほどけていく。
グレモルトの笑いが消えた。
「なぜだ」
その声には、初めて焦りが混じっていた。
「なぜ、呑めぬ」
僕は答えなかった。
分からなかった。
ただ、さっきまでなら、呑まれていたと思った。
空っぽだったから。
自分は駄目だと、弱いと、逃げるだけだと、それだけを見ていたから。
でも今は違う。
駄目なまま、弱いまま、逃げたまま。
それでも、ここに立っている。
カテリーナが言った。
私も無理です、と。
怖いです、と。
でも、フィルが後ろにいます、と。
それでよかった。
強くならなくてもいい。
恐怖を消さなくてもいい。
誰かの前に立つ。
それだけで、光は満ちていく。
右腕の光が、さらに強くなった。
グレモルトの核に入った亀裂が広がる。
一筋だった白が、枝分かれする。
喉へ。
胸へ。
背へ。
尾へ。
巨体の内側を、白い線が走り抜けていく。
「やめろ!」
グレモルトが叫んだ。
「この私が、こんな器に――」
言葉の途中で、核が軋んだ。
黒い殻が一枚、剥がれる。
その奥に、さらに濃い闇が見えた。
闇の底で、何かが蠢いている。
人の形ではない。
獣の形でもない。
ただ、長い年月の憎悪と飢えが固まったもの。
それが、白い光を見て暴れていた。
僕は怖かった。
今すぐ手を引きたかった。
けれど、右手を伸ばしたまま、もう一度言った。
「光よ」
声は震えていた。
膝も震えていた。
それでも、言葉は途切れなかった。
「満ちろ」
光が、核の奥へ落ちた。
グレモルトの巨体が硬直した。
次の瞬間、黒い鱗の隙間から白い光が噴き出した。
喉元。
胸。
腹。
背中。
尾の先。
白い線が、全身を裂いていく。
グレモルトの口が開いた。
声は出なかった。
黒い靄が口から溢れようとする。
けれど、その靄も内側から白く染まっていった。
魔王の核が、砕ける音がした。
小さな音だった。
石が割れるよりも静かで、硝子が欠けるよりも軽い。
けれど、その音が響いた瞬間、グレモルトの巨体から力が抜けた。
黒い大蛇の身体が、白い広場へ沈む。
石畳が大きく揺れた。
僕は右手を核から離さなかった。
離せなかったのではない。
最後まで、届いているのを確かめたかった。
白い光は、核を焼いた。
けれど、ただ消しているだけではなかった。
闇の中に沈んでいたものを、ひとつずつほどいていく。
歪んだ魔力。
濁った精霊。
喰われた魔物の残響。
支配されていた小さな闇の欠片。
それらが、白い光に触れて、煙のように上がっていく。
黒ではなく、灰でもなく。
薄い、透明な光になって。
空へ消えていく。
グレモルトの目が、僕を見た。
さっきまでの嘲りはなかった。
怒りも、薄れていた。
ただ、理解できないものを見る目だった。
「……それが」
掠れた声が漏れる。
「リュシアンの……」
最後まで言えなかった。
黒い瞳に白い光が走る。
グレモルトの核が、完全に砕けた。
巨体が、崩れ始める。
鱗が光になって剥がれ、肉が黒い灰ではなく白い粒へ変わっていく。
尾が消える。
胴が消える。
巨大な頭部だけが、最後まで残った。
グレモルトは、崩れゆく視界の中でアニエスを見た。
「アニエス……」
その声は、もう魔物の王としてのものではなかった。
古い魔王が、古い魔王へ向けた声だった。
「貴様は……こんなものを……」
羨望だったのか。
侮蔑だったのか。
あるいは、もっと別のものだったのか。
アニエスは答えなかった。
崩れた壁の下で、ただその最期を見ていた。
グレモルトの頭部が、白い光の粒になって崩れた。
最後に残った黒い核の欠片も、空気の中で静かに砕けた。
風が吹いた。
白い粒が、光の院の広場に舞う。
警鐘の音が、遠くから戻ってきた。
北。
西。
南。
まだ鳴っている。
けれど、その音はさっきまでとは違って聞こえた。
終わった音ではない。
まだ誰かが生きていて、誰かへ知らせるために鳴らしている音だった。
僕の右手から、白い光が少しずつ引いていく。
腕は残っていた。
光だけではない。
指がある。
手のひらがある。
傷の跡は薄く残っているけれど、確かに僕の腕だった。
僕は、その手を見た。
震えていた。
まだ震えている。
それを見て、なぜか少しだけ安堵した。
震えていても、消えなかった。
怖かったのに、そこにあった。
そのまま膝から力が抜けた。
倒れそうになった僕を、誰かが支えた。
カテリーナだった。
彼女も震えていた。
僕を支えられるほど強くはない。
だから二人で崩れるように膝をついた。
それでも、彼女は僕の袖を離さなかった。
「勇者様……」
彼女はそう呼んだ。
今度は、さっきほど苦しくなかった。
否定する言葉は、やはり出ない。
でも、胸の奥で硬く閉じる感じも、少しだけ弱かった。
勇者リュシアン。
その名前は、僕を縛るものだった。
今も、完全に自由になったわけではない。
けれど、さっき光が満ちたとき、その奥にあったものを見た。
名前ではないもの。
強さでもないもの。
怖いまま、誰かの前に出ること。
それなら。
ほんの少しだけなら。
僕にも、届くのかもしれない。




