第42話 光よ
熱さはなかった。
冷たかった。
光と呼ぶには暗すぎるものが、空気ごと押し潰してくる。
カテリーナの息を呑む音が聞こえた。
フィルが何かを叫んだ気がした。
イリアの剣が石畳を掻く音。
サリアの杖が倒れる音。
崩れた壁の下で、アニエスが身じろぎする音。
全部が、遠くなる。
僕の身体は、カテリーナの前へ出ていた。
間に合ったのかは分からない。
ただ、彼女の背中ではなく、彼女の前に黒い光が見えた。
それだけで、胸の奥が少しだけ軋んだ。
逃げなかった。
いや、違う。
逃げたかった。
今も逃げたい。
足は震えている。
右腕はない。
身体のどこも、勇者らしくなんてない。
怖い。
痛い。
死にたくない。
その全部が、身体の中にあった。
それでも、足は前に出ていた。
黒い光が、目の前まで迫る。
僕は、右腕を上げようとした。
なかった。
肩から先には、まだ腕と呼べるものがない。
さっき切られて、まだ戻りきっていない。
白い霞のような輪郭だけが、傷口の先で震えている。
それでも、僕は右腕を上げようとした。
剣を握るためではない。
喰わせるためでもない。
誰かに切り取らせるためでもない。
ただ、カテリーナとフィルの前に、自分の手を出そうとした。
その瞬間、胸の奥で何かが鳴った。
音ではなかった。
声でもなかった。
けれど、身体の中心に刻まれていたものが、初めてこちらを向いた。
ずっと閉じていた扉が、内側から開くような感覚だった。
勇者リュシアン。
その名を否定することはできない。
器に刻まれた術式は、その名を守るために僕の言葉を塞いだ。
けれど、その奥にあったものは、名前ではなかった。
形でもなかった。
誰かを喰わせるための毒でもない。
切り取って剣へ流すための光でもない。
魔王の核へ押し込むためだけの回路でもない。
もっと奥にあるもの。
誰かが、怖いまま伸ばした手。
震えたまま、それでも誰かの前に立とうとした願い。
それが、器の中心に残っていた。
白い霞が、右肩の先で跳ねた。
痛みが走る。
骨が組まれるような痛みではなかった。
肉が戻る感覚でもなかった。
光が、腕の形を思い出していく。
肘。
手首。
指。
失われていたはずの右腕が、一息に形を取った。
白い光でできた腕だった。
けれど、それは借り物のようには感じなかった。
僕の震えに合わせて指が震える。
僕の恐怖に合わせて、手のひらが強張る。
それでも、その手は前へ出ていた。
黒い光に向かって。
僕は理解した。
教えられたわけではない。
思い出したわけでもない。
ただ、分かった。
この身体の使い方を。
この光が、どこから満ちるものなのかを。
そして同時に、別のものが見えた。
それは記憶ではなかった。
僕のものではない。
けれど、器の奥に刻まれた術式が、何度も何度もなぞり続けた原型だった。
黒い森。
泥に膝をつく男。
手にした剣は重く、腕は震えている。
目の前には魔王がいる。
逃げれば、生き延びられるかもしれない。
退けば、仲間だけでも連れて帰れるかもしれない。
それでも、男は立ち上がる。
怖くなかったわけではない。
傷が痛くなかったわけでもない。
イリアの声に、背を押される日もあった。
サリアの術式がなければ、一歩も進めない日もあった。
森の入口で足が止まり、剣の柄を握ったまま息を整えていた朝もあった。
それでも、彼は戻った。
何度も。
何度も。
誰かを守るためだけではなかった。
魔王を倒すためだけでもなかった。
怖さで足が止まる自分を知りながら、それでも次の一歩を選び続けた。
それが、リュシアンだった。
アニエスが見ていたのは、その後ろ姿だった。
倒されても戻ってくる姿。
白い光を強くしていく姿。
何度でも魔王の前に立つ姿。
だから、彼女は誤った。
リュシアンは恐怖を越えたのだと。
震えない強者だったのだと。
けれど、術式の中心に残っていたのは違った。
恐怖を消した魂ではない。
怖いまま、痛いまま、迷ったまま、それでも手を伸ばした魂。
その震えごと光に変えるために、術式はあった。
光は、外から入れられるものではなかった。
誰かに切られて使われるものでもなかった。
怖いまま伸ばした手の先へ、満ちていくものだった。
黒い光が、右手に触れた。
指が裂ける。
手のひらが軋む。
痛みが頭の中を白く焼いた。
それでも、手を引かなかった。
引けなかったのではない。
引かなかった。
喉の奥から、息が漏れる。
言葉が、勝手に形を取った。
それは、僕が知っていた言葉ではなかった。
けれど、僕の言葉だった。
「光よ」




