第41話 カテリーナの背中
光の院の尖塔が見えた。
空は、いつの間にか夜へ傾いていた。
白い建物の輪郭は灰色に沈み、窓の奥の明かりだけが細く揺れている。
東門で戦っていた時間が、思っていたより長かったのだと、その時になって初めて分かった。
その前に、人が集まっていた。
負傷者。
子ども。
老人。
逃げ遅れた者たち。
院の中の者たちが、布や水を運んでいる。
「こっちへ!」
「その人を奥へ!」
「まだ入れます、扉を閉めないで!」
誰も、魔王と戦えるようには見えなかった。
剣を持つ者はいない。
杖を持つ者も、灯る光は小さい。
祈りの言葉さえ、震えて途切れている。
それでも、皆が動いていた。
泣きながら。
震えながら。
誰かを支えながら。
僕は、その中へ転がり込むように入った。
「勇者様……?」
誰かが言った。
その声に、周囲の視線が集まる。
やめてくれ。
見ないでくれ。
僕は勇者じゃない。
そう叫びたかった。
けれど、また喉が閉じる。
違う。
違うのに、言えない。
この身体が許さない。
僕は顔を伏せた。
右肩から白い光が落ちている。
戻りかけの腕を、左手で隠す。
それでも、隠しきれなかった。
人々の顔が凍る。
そのとき、地面が揺れた。
光の院の前にいた人々が、一斉に道の向こうを見た。
黒い巨体が、白い道を這ってくる。
グレモルトだった。
喉元には、僕の腕が焼いた白い跡が残っている。
けれど、その目は笑っていた。
悲鳴が上がった。
人々は、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
「中へ!」
「奥へ行け!」
「扉を閉めろ!」
誰かが叫ぶ。
誰かが転ぶ。
誰かが誰かを引きずっていく。
さっきまで人で埋まっていた白い広場からあっという間に人がいなくなった。
僕だけが、逃げ遅れたように石畳の上にいた。
いや、違う。
逃げてきたのだ。
ここまで逃げて、それでもまだ逃げ場を探している。
グレモルトの尾が動いた。
その前に、イリアが飛び込んだ。
サリアも、杖を突きながら広場へ出る。
「まだだ!」
イリアの剣が白く光った。
サリアの術式が石畳を走り、グレモルトの足元に岩の杭を突き出す。
けれど、黒い尾が横から叩きつけられた。
イリアの身体が飛ぶ。
サリアの術式が砕ける。
二人はまとめて、光の院の石段へ転がった。
それでも、イリアは剣を離さなかった。
サリアも、杖を手放さなかった。
その時、黒い霧がグレモルトの横から走った。
アニエスだった。
白い長衣は裂け、頬から首へ赤黒い線が広がっている。
足元もおぼつかない。
それでも、彼女は片手を伸ばしていた。
黒い霧が、グレモルトの喉元へ食い込む。
焼けた鱗が、いくつか砕けた。
「まだ立つか、アニエス」
グレモルトが笑った。
次の瞬間、黒い巨体が捻れた。
アニエスの身体が弾かれる。
白い長衣が空中で翻った。
彼女は光の院の壁へ叩きつけられた。
鈍い音が響く。
壁が割れた。
石が崩れる。
白い粉塵が舞う。
その衝撃で、光の院の脇にある階段室の壁が崩れた。
地下避難区画へ続く入口だった。
白い石の壁が裂け、内側の暗がりがむき出しになる。
崩れた壁の向こうに、狭い階段と、避難用の灯りが見えた。
地下へ向かう人の流れは、もう奥へ消えていた。
その流れから取り残されたように、フィルがいた。
避難用の台に半ば身を預けたまま、動けずにいる。
毛布がずり落ち、細い肩が見えていた。
その前に、カテリーナが立っていた。
地下へ降りきれなかった弟を隠すように、両腕を広げている。
彼女は、崩れた壁の向こうからこちらを見た。
まず、僕を見た。
傷だらけで、右腕を失いかけ、石畳に座り込んでいる僕を。
白い衣装を着ているのに。
勇者の姿をしているのに。
何もできずにいる僕を。
その顔に、疑問が浮かんだ。
「勇者様……?」
小さな声だった。
カテリーナの視線が、僕の右肩へ落ちる。
再生しかけている腕。
白い光。
血の色。
そのすべてを見てしまったのだと思った。
次に、彼女はグレモルトを見た。
黒い巨体。
砕けた東門の向こうから聖都へ入り込んだ、大蛇の魔王。
その姿を認めた瞬間、カテリーナの顔から血の気が引いた。
それでも、彼女は下がらなかった。
フィルの前に立ったまま、震える手で毛布の端を握った。
逃げ込むはずだった場所は、すぐ後ろにあった。
地下へ続く階段。
暗い避難区画。
けれど、フィルは動けない。
台も、崩れた石に引っかかっている。
カテリーナは一歩も進めなかった。
だから、そこに立つしかなかった。
弟の前に。
崩れた壁の前に。
魔王の視線が届く場所に。
グレモルトの黒い瞳が、ゆっくりとそちらへ向いた。
カテリーナの肩が震える。
フィルが、彼女の服を握った。
僕は、それを見た。
「下がって」
声は震えていた。
誰に向けた言葉なのか、一瞬分からなかった。
グレモルトに言ったのか。
フィルに言ったのか。
自分自身に言ったのか。
それでも、彼女は立っていた。
勝てるはずがない。
触れられただけで死ぬ。
彼女自身も、それを分かっている。
膝が震えている。
顔は青い。
唇は何度も開いて、うまく息を吸えていない。
それでも、下がらなかった。
フィルが、彼女の背中を見上げている。
「おねえちゃん……」
「大丈夫」
カテリーナは言った。
声は震えていた。
「大丈夫だから」
何も大丈夫ではなかった。
誰が見ても分かる。
彼女にグレモルトは止められない。
それでも、彼女は言った。
大丈夫、と。
フィルの前に立ったまま。
「……無理だ」
僕の口から、声が漏れた。
カテリーナが、少しだけこちらを見る。
「勇者様……?」
「違う」
反射的に言った。
その先を、続けようとした。
僕は、勇者じゃない。
そう言おうとした。
けれど、喉が詰まった。
言葉が出ない。
胸の奥で、何かが硬く閉じる。
舌が動かない。
息だけが、浅く漏れた。
言えなかった。
この身体は、その言葉を許さない。
「……違うんです」
ようやく、別の言葉を探した。
「そんなふうに呼ばれるような人間じゃない」
右肩が痛む。
喰われた腕の感触が、まだ残っている。
「僕は、ただの駄目な人間なんです」
カテリーナは何も言わなかった。
フィルも、黙って僕を見ている。
「前にも、逃げたことがある」
言葉が、勝手に零れていく。
「助けなきゃいけないって、分かってた。声を出せばよかった。立てばよかった。間に入ればよかった。分かってたのに、何もしなかった」
息が苦しい。
「見ないふりをした。誰かが何とかすると思った。自分じゃなくてもいいって思った。怖くて、間違ってたらどうしようって、そればかり考えて」
石畳を握る左手に力が入る。
「それで、逃げた」
その言葉と同時に、短い音が胸の奥で鳴った。
閉まる扉の音。
揺れる車内。
湿った空気。
目を逸らした横顔。
助けなければならないと分かっていた。
けれど、無理だった。
誰かが何とかすると思った。
自分ではなくてもいいと思った。
そのまま、逃げた。
けれど、あの音だけはいつまでも消えなかった。
扉が閉まったとき、僕には関係ないと思えた。
助かったと思った一瞬。
そのすぐ後に、自分の中で何かが終わった感じがした。
「僕はそういう人間なんです」
声が震える。
「肝心なところで逃げる。誰かが怖がっていると分かっていても、自分が傷つくのが怖くて、動けない」
グレモルトの喉の奥で、黒い光が膨らんでいく。
カテリーナの肩が震えた。
それでも、彼女はフィルの前から動かなかった。
「だから……」
声が掠れる。
「だから、僕には無理です」
カテリーナは、僕を見ていた。
恐怖で青ざめた顔のまま。
それでも、彼女は首を振らなかった。
否定もしなかった。
慰めもしなかった。
ただ、震える声で言った。
「私も……無理です」
僕は顔を上げた。
「怖いです。逃げたいです。足も、ずっと震えています」
カテリーナの手は、まだ広げられている。
指先が小さく震えている。
「でも、フィルが後ろにいます」
彼女は、少しだけ息を吸った。
「だから、ここにいられるんです」
それだけだった。
大丈夫だとも言わなかった。
できるとも言わなかった。
ただ、怖いまま、そこにいると言った。
その言葉が、胸の奥に落ちた。
強いから立っているのではない。
怖くないから、前にいるのでもない。
無理だと思いながら、それでも誰かの前にいる。
僕は、カテリーナの背中を見た。
その後ろで、フィルが彼女の服を握っている。
また、見ているだけなのか。
また、誰かが立つのを見ながら、自分は逃げるのか。
喉の奥が震えた。
「……嫌だ」
声が出た。
小さな声だった。
「もう、嫌だ」
左手で石畳を押す。
腕が震えた。
足も震えた。
身体は、立ち上がることを拒んでいる。
それでも、僕は前へ力を入れた。
怖い。
痛い。
逃げたい。
それでも、見ているだけで終わるのは、もう嫌だった。
グレモルトの口から、黒い光が零れた。
イリアが叫んだ。
サリアが杖を伸ばした。
間に合わない。
アニエスが崩れた壁の下で、わずかに顔を上げる。
カテリーナの肩が跳ねる。
それでも、彼女はフィルの前から動かない。
僕は、足を出した。
逃げるためではない。
誰かに切られるためでもない。
喰わせるためでもない。
カテリーナの背中の、その前へ行くために。
一歩。
身体が前へ倒れそうになる。
それでも、もう一歩。
黒い光が、視界を埋めた。




