第40話 逃げた勇者
僕は、その目を見てしまった。
違う。
そう言われた気がした。
声にはされていない。
けれど、分かった。
僕は、リュシアンではない。
五百年かけて作られた器。
何度も魂を入れ替えられ、魔王へ喰わせるために運用されてきた身体。
その果てに入れられた僕を見て、アニエスはもう光を待っていなかった。
右肩から先が、白く揺れている。
グレモルトに喰われた腕は、また戻ろうとしていた。
けれど、戻りきらない。
肘の形だけが曖昧に浮かび、指先はまだ霞のままだった。
痛みだけは、はっきり残っている。
牙が食い込んだ感触。
噛み砕かれた音。
光になったはずの腕を、もう一度失った感覚。
胃の奥が縮む。
「終わりか」
グレモルトが言った。
喉元には、僕の腕が焼いた白い跡が残っている。
黒い鱗の一部は崩れ、口の端からもまだ白い煙が細く上がっていた。
それでも、倒れていない。
僕の腕を喰っても。
アニエスの力を受けても。
イリアとサリアが何度も挑んでも。
グレモルトは、まだそこにいた。
「魔王アニエスが五百年かけた器も、この程度か」
低い声が、壊れた東門の石を震わせる。
僕は息を吸った。
喉が鳴る。
言葉は出ない。
左手で石畳を押す。
足が震えた。
立とうとして、膝が滑る。
それでも、身体は後ろへ下がった。
一歩。
もう一歩。
グレモルトから離れる。
アニエスの目から離れる。
勇者リュシアンという名前から離れる。
「逃げるのか」
グレモルトの声が追ってくる。
「勇者が」
違う。
胸の中で、何かが小さく返した。
僕は勇者じゃない。
そう思った。
そう言いたかった。
けれど、喉の奥が硬く閉じた。
その言葉だけが、外へ出ない。
勇者リュシアン。
そう呼ばれるために作られた器。
そう在ることを前提に刻まれた術式。
僕がどれほど否定しても、その名だけは口の外で壊せない。
だから、僕は別の言葉を探した。
僕は、ただの中身だ。
切られて。
喰われて。
それでも足りなかったものだ。
だから逃げる。
逃げるしかない。
僕は背を向けた。
「待て!」
イリアの声がした。
振り返らなかった。
足元に転がる白い石を踏み越える。
崩れた門の影を抜ける。
東門から聖都の奥へ続く道へ出る。
警鐘が鳴っていた。
北。
西。
南。
どこかで人が叫んでいる。
どこかで建物が崩れている。
けれど、もうそれを考える余裕はなかった。
白い道を走る。
走っているつもりだった。
右腕は戻りきらず、身体の均衡がおかしい。
肩の痛みで息が切れる。
足が何度ももつれる。
それでも、前へ進んだ。
背後で石が砕ける音がした。
グレモルトが動いたのだと分かった。
大きなものが、聖都の道を這ってくる。
白い建物の壁が軋み、窓硝子が震える。
もう終わりだ。
そう思ったとき、横から影が飛び込んだ。
イリアだった。
剣を構え、僕とグレモルトの間へ入る。
鎧は砕けていた。
額から血が流れている。
片足も、まともには動いていない。
それでも、彼女は立っていた。
「サリア!」
「分かっています!」
サリアの声が、別の路地から聞こえた。
杖を突きながら走ってくる。
顔は青白く、唇には血が滲んでいる。
それでも、杖の先には淡い光が灯っていた。
「リュシアン様、止まってください!」
「嫌だ!」
声が勝手に出た。
「もう嫌だ! 僕じゃ無理です!」
「無理でも使います!」
サリアの声が返る。
足元に白い線が走った。
僕の足が止まる。
術式だった。
「やめて……」
身体が震える。
「やめてください」
イリアが近づいてくる。
その目に迷いはなかった。
いや、あったのかもしれない。
でも、剣は止まらない。
「まだ光は残っている」
「嫌だ!」
「嫌でもだ」
グレモルトの巨体が迫る。
路地の向こうで、白い壁が押し潰された。
石が砕け、粉塵が舞う。
イリアが、僕の戻りかけた右腕を見た。
肘から先はまだ光の輪郭で、完全な肉にはなっていない。
「サリア、定着を」
「はい」
サリアの杖が震える。
その震えが、疲労なのか、恐怖なのかは分からなかった。
「やめて」
もう一度言った。
イリアの剣が上がる。
「やめてください!」
刃が落ちた。
右腕が、また切り離された。
声が出なかった。
痛みが大きすぎて、喉が詰まった。
白い腕が、形を失いながら宙へ散る。
サリアの術式がそれを拾い、イリアの剣へ流し込む。
剣が白く染まった。
イリアは振り返らない。
そのままグレモルトへ向かって走った。
「そこだ!」
白い剣が、グレモルトの喉元に残った焼け跡へ向かう。
サリアの術式が足元から岩を突き上げ、黒い巨体の動きを一瞬止めた。
イリアの剣が届く。
白い光が、焼けた鱗の隙間へ入った。
グレモルトの喉が低く鳴る。
光が弾ける。
今度こそ。
そう思う前に、黒い靄が噴き出した。
白い光が押し返される。
イリアの身体が剣ごと吹き飛んだ。
壁に叩きつけられ、石が崩れる。
「イリア!」
サリアが叫ぶ。
その声に反応するように、グレモルトの尾が動いた。
サリアは障壁を張る。
薄い光の壁が立った。
尾が触れた。
壁ごと、サリアの身体が道の端へ飛ばされた。
杖が転がる。
サリアは倒れた。
それでも、指が杖を探していた。
どうして。
倒れているのに。
血を流しているのに。
もう無理なはずなのに。
それでも立とうとしている。
イリアも、崩れた壁の下で動いた。
剣を拾おうとしている。
腕が震えている。
膝が笑っている。
それでも、立とうとしている。
二人は、戦い方を知っている。
痛みの置き場所を知っている。
倒れたあとに、次に何をすればいいかを知っている。
それは――強さだ。
強いから彼女たちは戦える。
僕には、それがなかった。
切られた感覚だけで身体と心が固まってしまう。
喰われた熱だけで足がすくむ。
器としても役に立たない。
勇者としての強さもない。
だから立てない。
そう決めつけた方が、まだ楽だった。
足元の術式が薄れていく。
サリアが吹き飛ばされたせいで、拘束が弱まったのだ。
僕は左手で地面を押した。
右肩からは、また光が漏れている。
腕が戻ろうとしている。
でも、戻ったとて、もう一度使われるのが嫌だった。
イリアがグレモルトへ向かう。
サリアが杖を掴む。
その間に、僕は逃げた。
また逃げた。
路地を曲がり、崩れた柱の影を抜ける。
後ろで、もう一度衝突音がした。
イリアの剣が弾かれた音か。
サリアの術式が砕かれた音か。
分からない。
分かりたくなかった。
僕は走った。
聖都の奥へ。
白い建物が並ぶ方へ。




