第39話 勇者の器の始まり
森には、誰の声も返らなかった。
それから数日、アニエスは動かなかった。
黒い森の境界に近い、石造りの小さな塔の中にいた。
リュシアンの身体は、白い布に包まれていた。
イリアが傍を離れずに座っている。
剣は、ずっと膝の上に置かれていた。
サリアは何度も塔を出入りした。
聖都から届く報せを受け、森の外縁を調べ、魔物の動きを確かめていた。
アニエスの配下は、主が命じない限り人間を襲わなかった。
けれど、他の魔王は違う。
黒い森の支配が揺らいだことを感じ取ったのか、外側の境界に魔物の影が増えていた。
「聖都では、リュシアン様の帰還を待っています」
三日目の夜、サリアが言った。
アニエスは、白い布から目を上げなかった。
「帰らない」
イリアが答えた。
声は掠れていた。
「帰れるわけがない」
イリアの視線が、アニエスへ突き刺さる。
アニエスは、まだ何も言えなかった。
リュシアンを殺した。
人として存在してもよいのかもしれないと思わせた男を。
そばにいれば、自分は人でいられるかもしれないと、初めて願った相手を。
殺すつもりのなかった一撃で、殺した。
「私を殺せばいい」
声が出た。
イリアが顔を上げる。
「私を殺せ。森の魔物も、支配を失えば散る。あとは――」
「外から来た魔王に聖都を喰われるだけです」
サリアが言った。
アニエスは、彼女を見た。
サリアの目は赤かった。
泣いた跡が残っている。
それでも、声を崩さずに続ける。
「あなたの領域が、他の魔王を止めていた。あなたがいなくなれば、人の都に最も近いこの場所を、他の魔王が奪いに来る」
「私が生きれば、何が変わる」
「変えてください」
サリアは、白い布へ視線を落とした。
「リュシアン様が、変えようとしていたものに」
イリアが立ち上がった。
「サリア!」
「分かっています!」
サリアも声を上げた。
「この人がリュシアン様を殺したことも。許せないことも。私だって……私だって、何度この人を焼けば気が済むかと思っています」
声が震えた。
「でも、リュシアン様が何度もこの森へ来たのは、この人を殺すだけのためではなかった」
イリアは答えなかった。
剣を握る指だけが白くなる。
アニエスは、布に包まれたリュシアンを見た。
戦いが終わったら、伝えるつもりだった。
人を襲わせない。
他の魔王を通さない。
もし許されるなら、自分が人でいられるかを、そばで確かめさせてほしい。
もう、伝える相手はいない。
「私の領域は、私が命じれば人を襲わない」
アニエスは言った。
二人が彼女を見る。
「他の魔王も、魔物も、この森を越えさせない。聖都へ向かうものは、すべて私の配下に殺させる」
イリアの顔が歪む。
「魔王の守りの中で、人間に暮らせと言うのか」
「人間には伝えるな」
「何?」
「この森を守るのは、私ではない」
アニエスは、白い布の上へ手を置いた。
「リュシアンだ」
サリアが息を止める。
「彼は、私と戦い、相討ちになったことにする」
「お前が生きているのにか」
「私は人の前へ出ない。魔王は、勇者リュシアンに討たれて死んだ」
名前を口にしたとき、胸が痛んだ。
けれど、続けた。
「死の間際、勇者は聖都の周囲へ光の守りを残した。その光は、森の魔物をも人間の守り手へ変えた」
イリアが、拳を握った。
「嘘で、リュシアンを飾るのか」
「違う」
アニエスは首を振った。
「彼が私へしようとしていたことを、私は知らなかった。今もすべては分からない」
白い布の下には、もう動かない身体がある。
「それでも、彼が人を守ろうとしていたことだけは分かる。なら、この領域は、彼の名で人を守る」
サリアが、ゆっくりと目を閉じた。
「防衛圏……」
小さく呟いた。
「勇者リュシアンが残した、光の防衛圏」
「そう伝えればいい」
イリアは、しばらく何も言わなかった。
やがて、剣を床へ置いた。
許したわけではない。
従ったわけでもない。
ただ、選ばなければならなかった。
仲間を殺した魔王と手を組むことを。
リュシアンの死を、真実のままには伝えないことを。
彼の名を、人を守る嘘へ変えることを。
聖都へ戻ったイリアとサリアは、人々へ告げた。
勇者リュシアンは、黒い森の魔王と相討ちになった。
その最期に、聖都を守る光の領域を残した。
森にいた魔物たちは勇者の光に導かれ、今後は外から来る魔王や魔物を退ける守り手になる。
人々は泣いた。
聖都の鐘は、夜が明けるまで鳴り続けた。
勇者の死を悼み、その名を称え、残された光へ祈った。
誰も知らなかった。
森の奥に、アニエスが生きていることを。
勇者の光ではなく、魔王の支配によって魔物が境界を守っていることを。
その嘘を、勇者の随伴者だった二人が抱えたことを。
アニエスは、白い布に包まれたリュシアンの身体の前で、一人座っていた。
人に戻れると思った。
彼がいれば。
彼の光に触れていれば。
いつか、自分も人として立てるかもしれないと思った。
けれど、その彼を殺した。
老いに気づかなかった。
光が弱くなっていることにも気づかなかった。
彼は、何度傷ついても戻ってきた。
だから、次も戻ると思っていた。
不滅の勇者。
人々が彼をそう呼んだ理由を、今になって理解した。
同時に、アニエスは思った。
リュシアンの光が消えたのは、彼の身体が老いたからだ。
人の肉体が弱り、あれほど強かった魂を支えきれなくなったからだ。
そう考えた。
「なら……」
彼女は、リュシアンの冷えた手に触れた。
「老いなければいい」
返事はない。
「壊れても戻る身体なら。光を失わない器なら」
喉が震えた。
「もう一度、お前は戻るのか」
その問いに答える者はいなかった。
研究は、そこから始まった。
初代サリアが、光の精霊の流れを組み上げた。
肉体が崩れても、光で形を戻すための術式。
魔王の核へ、内側から光を届かせるための回路。
魂を器へ留め、失われないように結びつけるための構造。
そして、勇者リュシアンが光を発動していたときに使っていた術式を中心に定着させた。
初代イリアは、剣を握る身体の作りを伝えた。
足の運び。
腕の長さ。
斬撃に耐える骨の形。
かつて隣で戦ったリュシアンの身体を、思い出せる限り言葉へ変えた。
アニエスは、そのすべてを受け取った。
足りない部分は、自分の記憶で埋めた。
光に照らされた横顔。
何度倒しても立ち上がった姿。
老いさえなければ失わなかったはずの、勇者リュシアン。
最初の器は、形にもならなかった。
光を集めても、肉体として留まらず、白い霧となって崩れた。
次の器は、身体だけは形になった。
けれど、魂を入れた瞬間に光が乱れ、中に入れられた者は声を上げることもなく消えた。
次は、目を開いた。
その者は、リュシアンと同じ顔で、知らない名前を叫んだ。
帰りたいと。
ここはどこだと。
助けてくれと。
アニエスは、その声を聞いた。
けれど、目の前の者はリュシアンではなかった。
怯えていた。
剣を渡しても握れなかった。
光を灯すこともできなかった。
器は解かれた。
また別の魂が探された。
祈る者がいた。
怒鳴る者がいた。
泣く者がいた。
魔王を前にして足を止める者がいた。
わずかな光を宿しても、核へ届く前に崩れる者がいた。
それでも、アニエスは諦めなかった。
リュシアンなら、恐れない。
リュシアンなら、迷わず立つ。
リュシアンなら、光を失わない。
そう信じて、器へ魂を入れ続けた。
勇者リュシアンが悲しまないように、死の淵に立たされて、あちらの世界では死に行く魂を。
長い年月が過ぎた。
初代イリアは老い、剣を次の者へ渡した。
初代サリアもまた、術式と秘密を名とともに残した。
イリアという名は、勇者の隣で剣を振るう者へ継がれた。
サリアという名は、勇者の器を維持し、光を通す者へ継がれた。
アニエスだけが、変わらない姿で残った。
人の都の外側では、彼女の魔物が防衛圏を守った。
人々は、それを勇者の光だと信じた。
勇者リュシアンは死してなお聖都を守っていると、語り継いだ。
やがて、器は安定した。
同じ顔。
同じ白い衣装。
同じ勇者の名。
魔王へ喰わせれば、内側から核を焼く身体。
それが聖都へ帰還したとき、人々は叫んだ。
勇者リュシアンが戻った。
不滅の勇者は、本当に死ななかったのだと。
アニエスは、その姿を見た。
違うと分かっていた。
同じ顔でも。
同じ身体でも。
同じ光を持っていても。
あの日、自分を人として見つけたリュシアンではない。
それでも、いつか。
どこかの魂が、この器の中で本物の光を灯すかもしれない。
そのときこそ、リュシアンが戻るのかもしれない。
そう信じ続けた。
何百年も。
そして今。
石畳の上で、白い衣装を着た少年が震えている。
腕を喰われても立てない。
光を灯せない。
グレモルトの前で、ただ痛みに身体を縮めている。
アニエスは、その姿を見ていた。
五百年かけて作り続けた器。
何度も魂を入れ替え、何度も魔王へ喰わせ、いつか本物へ届くと信じてきた勇者。
けれど、違った。
リュシアンは、そんなふうには震えなかった。
少なくとも、彼女の記憶の中では。
アニエスは、閉じていた目を開いた。
そこにはもう、光を待つ色は残っていなかった。




