第38話 光が灯らない日
変化は、森の外にも現れ始めた。
人の街道へ出ていた魔物が、境界の内側へ戻った。
村の近くまで来ていた黒羽の鳥は、空を旋回するだけで降りなくなった。
骨角の獣も、人の匂いを追わなくなった。
代わりに、他の魔王の配下が森へ近づくと、アニエスの魔物たちは迷わず襲いかかった。
人を襲う森ではなくなっていく。
けれど、人を守る森とも、まだ誰も言えなかった。
季節がいくつも過ぎた。
森の色が変わった。
枝に新芽がつき、濃い葉が茂り、やがて落ちた。
黒い霧の匂いも、以前より薄くなっていた。
リュシアンは、変わらず森へ来た。
けれど、本当は少しずつ変わっていた。
立ち上がるまでの間が長くなった。
剣を握る指に、力を込め直す回数が増えた。
息を整える時、ほんのわずかに胸を押さえるようになった。
アニエスは、それを傷のせいだと思っていた。
彼はいつも傷を負っていた。
それでも次には立っていた。
だから、その日も同じだと思った。
その日も、リュシアンは森へ来た。
アニエスは、僅かに目を伏せた。
今日こそ、伝えようと思っていた。
もう、人の都を襲うつもりはない。
自分の魔物は、これからも人の側へ向けない。
他の魔王が人間圏へ入ろうとするなら、この森で止める。
もし、それでも自分を魔王として討つ必要があるなら、そのときは受ける。
けれど、もし許されるなら。
自分が人として残れるか、彼のそばで確かめさせてほしい。
言葉は、まだ形にならなかった。
「リュシアン」
「何だい」
「この戦いが終わったら――」
そこで、アニエスは言葉を止めた。
今、口にすれば、逃げているように聞こえる気がした。
まずはいつも通り、彼の光へ触れればいい。
闇を受け止められることを確かめてから、話せばいい。
アニエスは、片手を上げた。
黒い霧が集まる。
けれど、そこに殺意はなかった。
以前なら、森の巨木をまとめて裂いたほどの力。
今は、その何分の一も込めていない。
リュシアンなら、簡単に光で散らせる。
いつものように、白い剣で受け、少し困った顔をして、それでも立っている。
そう思った。
黒い靄が、細く伸びた。
リュシアンは剣を上げた。
刃に、光が灯らなかった。
「……え」
黒い靄は、そのまま彼の胸を貫いた。
音は小さかった。
リュシアンの身体が、わずかに揺れる。
剣が手から落ちた。
アニエスは、動けなかった。
何が起きたのか、理解できなかった。
リュシアンが、膝をつく。
胸から血が落ちる。
「リュシアン!」
サリアの叫び声で、ようやく身体が動いた。
アニエスは、倒れかけた彼の身体を受け止めた。
腕の中に落ちてきた身体は、ひどく軽かった。
「なぜ……」
声が出た。
「なぜ、弾かなかった」
リュシアンは答えない。
唇が僅かに動いたが、音にはならなかった。
近くで見た顔に、アニエスは息を止めた。
頬は痩せていた。
目元には、深い皺がある。
髪には、白いものが混じるどころではなかった。
黒よりも白の方が目立つほどに増えている。
いつから。
いつから、こんな顔をしていた。
何度も向かい合っていた。
何度も声を聞いた。
けれど、光に触れるたび、自分のことばかり見ていた。
「リュシアン」
呼ぶ。
「光を……」
胸の傷へ手を当てた。
「光を出せ。お前なら、戻るだろう。いつもそうだった」
何も灯らない。
彼の血が、アニエスの指を濡らす。
「リュシアン!」
イリアが剣を抜いて駆けてきた。
その顔は、怒りと恐怖で歪んでいる。
「貴様――!」
「待って!」
サリアが、イリアの腕を掴んだ。
「離せ、サリア! こいつがリュシアンを!」
「見てください!」
サリアの声が震えていた。
「アニエスは……」
続きが出なかった。
アニエスは、二人を見ていなかった。
腕の中のリュシアンだけを見ている。
涙が、頬を落ちた。
それが何なのか、最初は分からなかった。
熱くない。
焼ける痛みでもない。
ただ、胸の内側に空いた穴から、身体の中のものが零れていくようだった。
「なぜ……」
もう一度、声が出た。
「私は……殺すつもりでは……」
「そんなもの……」
イリアの声が震えた。
「そんなもので、不滅の勇者が死ぬはずがない……」
アニエスが、ゆっくりと顔を上げた。
「不滅……?」
サリアは、唇を噛んでいた。
「聖都では、そう呼ばれています」
「何を……」
「何度魔王に傷つけられても、何度死地へ向かっても、必ず戻ってこられた。人々は、リュシアン様を不滅の勇者と……」
アニエスは、腕の中の男を見た。
不滅。
そんなはずがない。
身体は冷え始めている。
胸の傷は閉じない。
光は灯らない。
「違う」
声が震えた。
「こいつは、光を持っている。私を焼いた光を……」
かつて、盃へ受けた血。
それを飲んだ瞬間、身体の奥を焼いた白い光。
失った名を戻し、人だった自分を引きずり出した光。
まだ、あるはずだった。
彼の身体のどこかに。
アニエスは、リュシアンの右腕を掴んだ。
「何をする!」
イリアが叫ぶ。
次の瞬間、アニエスはその腕へ噛みついていた。
肉を噛み切る。
血が口へ入る。
「やめろ!」
イリアが剣を振り上げる。
サリアが、その前へ腕を出した。
「待って!」
「何を待つ! リュシアンを喰っているんだぞ!」
「分かっています! でも……今の彼女は……」
サリアの言葉は続かなかった。
アニエスは、血を飲み込んだ。
待った。
白い光が、身体の中で弾けるのを。
彼の光がまだ残っていると、自分へ知らせてくれるのを。
何も起こらなかった。
核は焼けない。
人の記憶が揺れることもない。
ただ、冷えた血の味だけが喉へ残った。
「……なぜ」
アニエスは、リュシアンの腕を抱いた。
「なぜ、光がない」
もう一度、傷口へ顔を近づけようとした。
今度はイリアが、アニエスの肩へ剣を当てた。
「それ以上、触るな」
低い声だった。
アニエスは抵抗しなかった。
唇に血を残したまま、リュシアンの身体へ額を落とす。
「死んだから……?」
誰に訊くでもなく呟いた。
「死んだから、光がなくなったのか」
サリアは答えられなかった。
イリアの剣先も、僅かに震えていた。
「私が……」
アニエスの声が崩れた。
「私が、消したのか」




