第37話 名を持つ魔王
その声は、さっきまでとは違っていた。
森の奥から返ってくる冷たい音ではなかった。
掠れて、震えて、意味を選び損ねている。
人の喉から出た声だった。
その瞬間、目の前の森が違って見えた。
足元に伏している魔物。
自分が壊してきた村。
黒い霧の向こうに広がる、人の都。
そして、血を流して倒れている青年。
自分が傷つけた。
死んでもおかしくない傷を、遊びの続きのように与えた。
「……何を」
声が震えた。
「私は……何を……」
霧の壁が崩れた。
イリアが飛び込んでくる。
剣が、アニエスの首へ向いた。
けれど、その前にサリアがリュシアンの身体へ膝をついた。
「まだ生きています!」
彼女が叫ぶ。
「イリア、こちらを! 早く!」
イリアの剣が止まった。
殺意のこもった目が、アニエスへ向いている。
「次に動けば、斬る」
アニエスは答えられなかった。
リュシアンの傷口に、サリアの光が集まる。
イリアが布を押し当てる。
二人の手が、血で濡れていく。
その間、アニエスはただ膝をついていた。
人の声が聞こえる。
怒鳴る声。
焦る息遣い。
傷を塞ごうとするサリアの震えた詠唱。
それらはもう、雑音ではなかった。
誰かを生かそうとしている音だった。
アニエスは、その場から動けなかった。
――アニエス。
その名を、サリアは忘れなかった。
森から退いた後、サリアは調べた。そして辿り着いた。光の院に残る古い記録に。
ナイトメア症の記録。
侵食後の症例。
失踪者の名簿。
生存例として残された、たった一つの記述。
そこに、その名はあった。
――ナイトメア症。
――侵食後、生存例。
――対象名、アニエス。
――生存後、失踪。
――以降の記録なし。
サリアは、その記録をリュシアンとイリアにだけ見せた。
アニエスには告げなかった。
告げれば、彼女は戦えなくなるかもしれない。
あるいは、魔王として保っていた何かが崩れるかもしれない。
ただ、人だったと伝えるだけで済む話ではなかった。
彼女は人だった。
そして、魔王として人を殺した。
どちらか一方だけを差し出せば、何かが壊れる。
サリアはそう判断した。
イリアは、古い記録を読んでも剣を下ろさなかった。
「だから何だ」
低い声だった。
「人だったなら、殺された人間が戻るのか」
リュシアンは、すぐには答えなかった。
記録に残された名を見つめていた。
アニエス。
あの魔王が、自分の喉で確かめるように零した名。
その名が、確かに人の記録の中にあった。
その事実だけが、三人の間に置かれた。
許しではなかった。
救いでもなかった。
けれど、もう彼女をただの魔王としてだけ見ることはできなかった。
次にリュシアンが森へ来たとき、アニエスは配下を出さなかった。
森の入口から、彼らは何にも襲われず奥まで進んだ。
イリアは、それを罠だと言った。
サリアも杖を下ろさなかった。
リュシアンは、脇腹にまだ布を巻いたまま、黒い城の前に立った。
その傷が塞がりきっていないことを見て、アニエスの胸の奥が僅かに軋んだ。
以前なら、何も思わなかった。
傷を負ったなら、次はそこを狙えばいい。
ただ、それだけだった。
「なぜ、魔物を出さなかった」
イリアが言った。
「出す必要がないと思った」
アニエスは答えた。
声が、人のものに近づいていることを、自分でも感じていた。
「舐めているのか」
「そうではない」
「なら何だ」
答えられなかった。
自分でも分からない。
ただ、あの血を口にした夜から、人の悲鳴を聞くと、身体の奥が痛んだ。
村へ魔物を送ろうとすれば、白い寝台と割れた椀が浮かんだ。
だから、命じなかった。
それだけだった。
リュシアンが、一歩前へ出た。
「あなたは……変わったのか」
アニエスは彼を見た。
白い光はまだ剣に灯っていない。
戦うために来たはずなのに、彼はすぐには構えなかった。
「私は――」
言葉が止まる。
何と答えればいいのか分からない。
魔王であることは変わらない。
この森を支配している。
数え切れない人間を殺した。
他の魔王を壊し、その血肉を喰らい、領域を広げてきた。
けれど、今はそれが分かる。
自分がしたことだと分かってしまう。
その先を、アニエスは言わなかった。
リュシアンも聞かなかった。
彼はもう知っていた。
サリアの記録によって、目の前の魔王がかつて人の名を持っていたことを。
だが、アニエスには告げなかった。
アニエスもまた、口にしなかった。
自分が人だったことを。
戻りたいのかもしれないということを。
リュシアンの光に触れている間だけ、自分が自分でいられるような気がすることを。
誰も、答えに触れなかった。
触れれば、戦えなくなる。
戦えなくなれば、人間側は魔王を討てない。
アニエスもまた、自分がしてきたことを抱えたまま立っていられない。
だから、四人は黙った。
同じ答えの周りに立ちながら、誰もその名を口にしなかった。
それからも、リュシアンたちは森へ来た。
アニエスも、彼らを迎えた。
戦いはなくならなかった。
彼女はまだ魔王だった。
森には配下がいて、他の魔王は領域を狙っていた。
人間側も、森の奥に魔王がいる限り、剣を下ろすことはできない。
イリアは、いつでも本気で斬り込んできた。
サリアも、拘束の術式に迷いを入れなかった。
リュシアンの光も、アニエスの闇へ届いた。
けれど、どちらも以前とは違っていた。
アニエスは、リュシアンの首を狙わなくなった。
リュシアンも、彼女の核があるはずの場所へ剣を押し込まなくなった。
殺すための戦いではなくなっていた。
だからといって、味方になったわけでもない。
イリアの剣は、いつでもアニエスを斬れる位置にあった。
サリアの術式も、彼女の足元を逃がさない形で敷かれていた。
リュシアンだけが、ときどき迷うようになった。
剣を振り下ろす直前に。
白い光を強める直前に。
彼は一瞬だけ、アニエスを見る。
その一瞬が、アニエスには分かった。
分かるようになってしまった。
以前なら、その迷いごと斬り捨てていた。
弱くなったと笑っていた。
今は、その迷いに触れるたび、胸の奥に痛みが走った。
自分が人だったと知ったからなのか。
リュシアンの血に残っていた光が、まだ身体の奥に残っているからなのか。
それとも、彼が自分を魔王だけとして見なくなっているからなのか。
分からなかった。
ただ、戦いのあと、彼らを追わなくなった。
倒れたリュシアンへとどめを刺さなくなった。
イリアが傷つけば、森の魔物を一歩だけ退かせることもあった。
サリアが詠唱を失敗した時には、黒い霧を引いた。
誰も、それを礼とは呼ばなかった。
誰も、それを慈悲とは言わなかった。
言えば、何かが壊れる気がした。
魔王アニエス。
勇者リュシアン。
剣士イリア。
術士サリア。
敵なのか、味方なのか。
誰にも決められなかった。
けれど、四人とも、心の底では同じ場所を見ていた。
分かり合えるかもしれない。
その言葉を、誰も口にしなかった。




