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光よ、満ちろ  作者: 織 航(しき わたる)


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第36話 人だったころ

 人の都に最も近い場所には、深い森があった。

 昼でも薄暗く、木々の根元には黒い霧が溜まり、鳥の声よりも先に何かが這う音のする森だった。

 人間たちは、その森を避けた。

 森の向こうに魔王がいるからだった。

 けれど、その森を避けていたのは、人間だけではない。

 北の岩山を支配していた魔王が、かつて配下を森へ入れたことがある。

 人の都へ向かう街道を、自分のものにするためだった。

 戻ったものはいなかった。

 数日後、森の境界に並ぶ枯れ木へ、砕かれた核の欠片だけが吊るされていた。

 南の湿地を治めていた魔王も、使いを寄越した。

 人間圏に近い土地の一部を明け渡せと伝えさせた。

 使いは戻らなかった。

 それ以降、湿地の魔物は、人の都へ向かう近道を避けるようになった。

 人間のそばにある土地を、他の魔王が欲しがらなかったわけではない。

 そこに、彼女がいたからだった。

 森には、数え切れないほどの魔物がいた。

 土の下に潜り、足音を感じると石のような顎を開く甲殻の虫。

 白い骨のような角を生やし、音もなく木々の間を走る獣。

 倒れた人間の声を真似し、助けを求めるふりをする細長い魔物。

 枝の上から獲物の目を狙う、黒羽の鳥の群れ。

 森の奥には、岩のような皮膚を持つ蜥蜴や、吐息だけで精霊の流れを濁らせる上位の個体もいた。

 それらは、勝手に人を襲っているのではなかった。

 侵入した者を見つける。

 退路を塞ぐ。

 術士を先に潰す。

 傷ついた者を切り離す。

 そして、残った者を森の外へ追い返すか、その場で消す。

 森全体が、一つの生き物のように動いていた。

 その中心に、彼女はいた。

 黒い石でできた古い城の奥。

 割れた天井から枝が入り込み、床を黒い霧が這う広間。

 そこに、女の姿をした魔王が座っていた。

 白い肌。

 長い髪。

 細い指。

 人の形は残っていた。

 けれど、頬から首へ、首から腕へ走る赤黒い線は、人のものではなかった。

 彼女自身、自分がかつて何だったのかを知らなかった。

 名前もない。

 生まれた場所もない。

 人の声が何を意味していたのかも、もう覚えていない。

 誰かに呼ばれた記憶も、誰かの手に触れた記憶もなかった。

 闇の精霊は、肉体だけでなく、彼女の内側まで塗りつぶしていた。

 残っていたのは、飢えと、怒りと、憎しみと理由のない退屈だけだった。

 ただ、闇の精霊が集まり、魔物が伏し、他の魔王が境界を避けた。

 それで十分だった。

 人の悲鳴が森の端から届いても、何も感じなかった。

 村が一つ消えたと報せがあっても、顔を上げなかった。

 踏み込むなら殺す。

 近づくなら壊す。

 彼女にとって、人間も魔王も、その違いでしかなかった。

 最初に三人の人間が森へ入ったときも、彼女は姿を見せなかった。

 黒羽の鳥が持ち帰る視界の中に、三つの人影が映っていた。

 一人は剣を持った女だった。

 短い髪を揺らし、前へ出るたびに魔物の首を狙う。

 速い。

 けれど、森の数に追いつけるほどではなかった。

 一人は杖を持った女だった。

 土を起こし、風を集め、次々と押し寄せる魔物を止めようとしている。

 術式は精密だった。

 けれど、黒い霧を浴びるたびに光が濁った。

 そして、二人の間には、剣を握った青年がいた。

 まだ若い。

 身体も大きくない。

 革の鎧には新しい傷が多く、握っている剣も華美なものではなかった。

 森へ入ったばかりの場所で、白骨の角を持つ獣が彼へ飛びかかった。

 青年の顔が強張った。

 足が、半歩下がる。


「リュシアン!」


 剣士の女が叫んだ。

 青年は、逃げなかった。

 剣を前へ出す。

 刃に、弱い白の光が灯った。

 角と剣がぶつかる。

 白い光が散った。

 獣の片角が焼け落ちる。

 けれど、青年の身体も地面へ叩きつけられた。


「退きます!」


 杖を持つ女が叫んだ。


「まだ――」


「死にたいのですか!」


 地面から岩壁が立ち上がる。

 剣士が青年の腕を掴む。

 三人は、魔物に追われながら森の外へ戻っていった。

 黒い鳥の目を通して、その光景を見た魔王は、指を一度だけ動かした。

 弱い。

 少し変わった光を持つだけの人間。

 次に来れば死ぬ。

 その程度にしか思わなかった。

 けれど、青年はまた来た。

 次は、甲殻の虫が潜んでいた地面を避けた。

 骨角の獣が飛び出す前に、杖の女が土壁を立てた。

 剣士が魔物の群れを引き受け、その間を青年が進んだ。

 白い光は、前より少しだけ長く刃へ残っていた。

 それでも、森の中層を守る岩肌の蜥蜴には届かなかった。

 蜥蜴の尾が岩壁を砕く。

 剣士が吹き飛ぶ。

 術士の光が、黒い霧に飲まれる。

 青年は、二人の前へ出た。

 震える手で剣を握り、光を灯した。

 けれど、弱い。

 蜥蜴の皮膚を焦がしただけで、核までは届かなかった。

 三人はまた退いた。

 魔王は、それを追わせなかった。

 理由は単純だった。

 また来るかもしれないと思ったからだ。

 森へ入り、配下を倒し、それでも最後には逃げていく。

 久しぶりに、少しだけ退屈を紛らわせるものが現れた。

 殺すのは、もう少し見てからでも遅くなかった。

 青年は、何度も来た。

 一度目より二度目。

 二度目より三度目。

 来るたびに、白い光は少しずつ強くなった。

 岩肌の蜥蜴が倒れた。

 闇の霧を吐く鳥の群れが焼かれた。

 人の声を真似る獣が、青年の剣で核を裂かれた。

 魔王は、次々と森の奥の個体を目覚めさせた。

 最初は、彼らがどこまで来られるのかを見るためだった。

 次第に、来てもらわなければ退屈が戻る、と感じるようになった。

 青年は、何度も傷を負った。

 肩を裂かれた。

 脚を引きずった。

 剣を持てなくなり、剣士の女に背負われて帰った日もあった。

 けれど、次に黒い鳥が見つけたときには、また立っていた。

 光を纏い、以前より奥へ進んできた。

 魔王には、その震えは見えなかった。

 いや、見えていたとしても、意味を持たなかった。

 傷を負いながら戻ってくる者が、恐れているはずはない。

 恐怖など、とうに越えた人間なのだろう。

 彼女は、そう思った。

 森の最奥を守っていたのは、四本の白い角を持つ巨大な獣だった。

 身体は小さな家ほどもあり、角の根元には濁った闇の精霊が絡みついている。

 他の魔王が境界へ差し向けた軍勢を、一夜で壊した個体だった。

 その獣の核が割れたとき、魔王は初めて玉座から立った。

 黒い霧が広間を満たす。

 霧は枝の間を抜け、森の奥へ流れた。

 倒れた獣の前には、三人の人間がいた。

 剣士は片膝をついている。

 術士は杖を支えにして立っている。

 青年は、右肩から血を流しながら、白い光を残した剣を握っていた。

 魔王は、彼らの前へ姿を現したーー。


 黒い霧の中から現れたのは、獣でも、巨人でも、腐った肉の塊でもなかった。

 女だった。

 白い肌。

 長い髪。

 細い指。

 遠目には、人に見えた。

 けれど、頬から首へ、首から腕へ走る赤黒い線が、その形を裏切っていた。

 肌の下に血ではないものが流れている。

 足元から滲む黒い霧が、森の土を静かに濡らしている。

 剣士の顔が固まった。


「……人の形をしているのか」


 術士も息を呑んだ。

 杖の先に集まりかけていた光が、わずかに揺れる。

 青年だけは、剣を下ろさなかった。


「お前が、この森の魔王か」


 剣士が言った。

 黒い霧の中の女が、ゆっくりと視線を向けた。


「そう呼ぶ者もいる」


 返ってきたのは、人の言葉だった。

 だが、人が話しているようには聞こえなかった。

 意味は分かる。

 声も澄んでいる。

 それなのに、そこには息づかいも、迷いも、相手へ届かせようとする温かさもなかった。

 まるで、人の言葉という形だけを覚えた何かが、森の奥から音を返しているようだった。

 剣士の剣先が、ほんの少し上がる。


「喋るのか」


「人間も魔王も、喉を震わせれば音くらい出す」


 女は言った。

 その言い方には、会話をしているという意識すらないようだった。


「ここまで来た人間は久しい。褒美に、私が相手をしてやろう」


「褒美とはずいぶんだな」


 剣士が吐き捨てる。

 青年が、一歩だけ前へ出た。


「リュシアン、待て」


「下がっていて、イリア」


「その傷で何を――」


「僕が来たんだ」


 青年は、白い剣を構えた。


「僕が、戦う」


 魔王は、その言葉を聞いた。

 リュシアン。

 それが青年の名らしい。

 覚える意味はなかった。

 人間の名前を覚えたところで、殺せば終わる。


「来い」


 魔王が指を動かした。

 黒い霧が、刃のように青年へ走る。

 青年は白い剣で受けた。

 光が弾けた。

 霧の一部が焼ける。

 青年の身体が、地面を滑る。

 それでも倒れず、踏み込んできた。

 白い光が、魔王の頬のすぐ横を抜ける。

 ほんのわずかに、熱があった。

 魔王の目が細くなる。


「面白い」


 次の霧が、青年の脇腹を打った。

 身体が宙へ浮き、木の幹へ叩きつけられる。


「リュシアン!」


 術士が走る。

 剣士が魔王の前へ割って入った。


「逃げるのか」


 魔王が言った。

 剣士は答えなかった。

 青年を庇う位置で、剣を構える。

 その横で、術士が必死に治癒の光を重ねている。

 魔王は、指を向けた。

 殺せる。

 今、霧を放てば三人とも消える。

 けれど、放たなかった。


「今日は帰れ」


 剣士の眉が動いた。


「何?」


「次に来るなら、もう少し私を楽しませろ」


 剣士の顔が怒りに歪む。

 青年だけが、治癒の光の中で顔を上げた。

 血を吐きながら、それでも剣を手放していない。


「……次は」


 掠れた声だった。


「次は、届く」


 魔王は笑った。


「なら、来ればいい」


 黒い霧が森へ戻る。

 三人は、倒れた獣の核を置いたまま、森の外へ退いていった。

 それから、リュシアンは何度も彼女の前へ来た。

 イリアとサリアを伴って。

 白い光を少しずつ強くして。

 魔王は、そのたびに彼を退けた。

 森の入口まで追い払うこともあった。

 膝をつかせ、剣を落とさせ、それでも命だけは残すこともあった。

 殺さなかったのは、情ではない。

 次はどこまで光が届くのか。

 次はどれほど自分を傷つけられるのか。

 長いあいだ、誰にも届かれずにいた魔王にとって、それは珍しい遊びだった。


「また来たのか」


 ある日、彼女は言った。

 リュシアンは、血の滲む包帯を肩へ巻いていた。


「来た」


「前の傷も塞がっていないだろう」


「見て分かるなら、加減してくれればいい」


「なぜ私がお前に合わせる」


「そう言うと思った」


 リュシアンは剣を抜いた。

 白い光が灯る。

 笑っているように見えた。

 魔王には、それが理解できなかった。

 殺されるかもしれない場所へ、なぜ何度も来るのか。

 なぜ、傷だらけの身体で、また剣を構えられるのか。

 それでも、問いはしなかった。

 答えに興味があったわけではない。

 ただ、退屈ではなかった。

 その日のリュシアンは、以前より深く踏み込んできた。

 イリアが黒い霧を斬り開く。

 サリアの術式が、地面へ光の道を作る。

 その間を、リュシアンが走った。

 白い刃が、初めて魔王の腕へ届いた。

 赤黒い線の走る皮膚が、光に焼かれる。


「――っ」


 小さな痛みだった。

 けれど、確かに痛かった。

 魔王は腕を引き、初めてリュシアンを正面から見た。

 青年は息を乱していた。

 身体は傷だらけだった。

 それでも、光の残る剣を下ろさない。


「届いた……」


 リュシアンが呟く。

 その顔に、僅かな喜びが浮かんだ。

 魔王の中で、苛立ちが膨れた。


「その程度で、私へ届いたつもりか」


 黒い霧が集まる。

 今までよりも細く、鋭く。

 一本の槍となって、リュシアンの脇腹を貫いた。

 血が噴き出した。

 白い光が揺れる。

 リュシアンの身体が、その場へ崩れ落ちた。


「リュシアン!」


 イリアが叫ぶ。

 サリアが駆け寄ろうとする。

 魔王は、二人の前へ霧の壁を立てた。

 倒れたリュシアンのそばへ歩く。

 血が地面へ落ちていた。

 鮮やかな赤。

 これまで、いくらでも見てきたものだった。

 人の血も飲んだ。

 獣の血も。

 自分の領域へ踏み込んできた魔物の肉も、他の魔王が寄越した上位個体の核も、興味があれば口にした。

 けれど、この白い光を持つ人間の血は、まだ知らない。

 魔王は、指先へ霧を集めた。

 黒い霧が形を取り、小さな盃になった。

 その縁へ、リュシアンの傷から溢れる血が落ちる。

 イリアの顔が怒りに歪んだ。


「貴様……!」


「下がれ」


 魔王が視線を向ける。

 霧の壁が膨らみ、イリアとサリアを押し戻した。

 サリアは叫んだ。


「何をするつもりですか!」


 魔王は、盃の中の血を見た。


「何度潰しても戻ってくる光だ」


 血の表面が、小さく揺れる。


「どんな味がするのかと思っただけだ」


 リュシアンの目が、僅かに開いた。

 止める声も出せない。

 魔王は、盃を口へ運んだ。

 血を飲んだ。

 温かかった。

 次の瞬間、喉の奥で白い光が弾けた。


「――っ、あ……!」


 盃が落ちた。

 黒い霧が大きく乱れる。

 身体の内側を、白い火で焼かれるようだった。

 喉から胸へ。

 胸から、核の奥へ。

 これまで何者にも触れられなかった場所へ、白い光が入り込んでくる。

 魔王は膝をついた。

 赤黒い線が、一斉に熱を持つ。

 焼かれる。

 消される。

 そう思った。

 けれど、消えたのは闇ではなかった。

 身体の奥で、何かが裂けた。

 白い寝台。

 手首を縛る布。

 水の入った椀。

 名前を呼ぶ女の声。

 伸ばした手。

 倒れた身体。

 都の灯り。

 自分が、これ以上人を壊さないために、ひとりで都を出た夜。

 忘れていたものが、痛みとともに戻ってきた。

 魔王は、喉を押さえた。

 何かが声になろうとしている。


「……あ……に……」


 息が詰まる。

 意味のない音ではない。

 ずっと失っていたもの。


「アニエス……」


 自分の口から、その名が落ちた。

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