第35話 ただの中身
「こちらへ来なさい」
「嫌です」
声が掠れた。
分かってしまった。
鱗が割れた。
内側へ届く場所ができた。
そこへ、僕の光を通すつもりなのだ。
「また、腕を使うんですか」
「そうだ」
アニエスは否定しなかった。
「嫌だ……」
「時間がない」
「嫌です。やめてください」
「君の承諾を待っている間に、拘束が破られる」
アニエスの声は、冷たかった。
「イリア」
イリアがこちらを見た。
大剣を持ったまま、僕へ向かって一歩踏み出す。
右手が勝手に腕を庇った。
「待って……」
足が後ろへ下がる。
「待ってください。僕は、もう――」
「動くな」
イリアの声が低くなった。
「嫌だ!」
背を向けようとした。
その瞬間、足元に淡い光が絡みついた。
サリアの術式だった。
両足が石畳へ縫いつけられたように動かなくなる。
「サリアさん……?」
彼女は僕を見なかった。
グレモルトを押さえるための杖を構えたまま、唇を噛んでいる。
「ごめんなさい」
小さく、そう聞こえた。
イリアが目の前まで来た。
「やめて……」
大剣が上がる。
「やめてください!」
刃が落ちた。
右肩から、熱が消えた。
一瞬遅れて、痛みが弾けた。
「ああああああっ!」
身体が折れた。
右腕が石畳へ落ちる。
白い指が、まだ剣を握ろうとする形のまま転がった。
切り口から、白い光が零れ始める。
血よりも先に、光が溢れる。
サリアが杖を振る。
落ちた右腕が、白い粒子へ崩れた。
自分の腕が、形を失っていく。
指が消える。
手首がほどける。
腕だったものが、細い光の流れとなってイリアの大剣へ集まっていく。
刃が、白く染まった。
「定着しました!」
サリアが叫ぶ。
「長くは保ちません!」
イリアは答えなかった。
大剣を構え、すぐにグレモルトへ走る。
僕の腕を宿した剣を持って。
「アニエス様!」
「通しなさい!」
アニエスが両手を前へ向けた。
それまでとは違う圧が、門の前へ落ちた。
グレモルトの首が、強く地面へ沈む。
黒い鱗が軋み、割れた箇所がさらに開いた。
イリアが跳ぶ。
白い大剣が、鱗の隙間へ突き込まれた。
光が、黒い身体の中へ走った。
グレモルトの巨体が、大きく震えた。
地面が跳ねる。
門壁の残骸が砕ける。
大蛇の喉から、低い苦鳴が漏れた。
「入った!」
サリアの声が上がる。
胸の奥で、何かが動いた。
届いたのか。
僕の腕が。
僕を切り取って作った光が。
イリアは大剣をさらに押し込む。
「このまま核まで――」
白い光が止まった。
グレモルトの体躯の奥で、光が押さえ込まれている。
進まない。
喉元までは白く焼けている。
鱗の隙間から煙が上がる。
けれど、その先へ届かない。
「何で……」
サリアの声が揺れた。
グレモルトの目が開いた。
「浅い」
低い声が響いた。
大蛇の首が持ち上がる。
アニエスの両手が震えた。
押さえ込もうと力を重ねる。
けれど、黒い巨体は止まらない。
「これが、貴様の二百五十年か」
グレモルトが笑った。
「私を殺すには、あまりに浅い」
黒い靄が噴き出した。
イリアの大剣に宿っていた白い光が、内側から弾かれる。
イリアの身体が剣ごと吹き飛んだ。
「イリア!」
サリアが声を上げる。
イリアは空中で身を捻ろうとした。
その身体へ、グレモルトの尾が叩きつけられた。
鈍い音がした。
イリアの身体が、崩れた門壁へ落ちる。
大剣が石畳の上を滑った。
白かった刃から、僕の光が散って消えていく。
「イリア!」
サリアが駆け出そうとする。
その足元で、術式が黒く染まった。
地面へ広がっていた白い線が、一つ、消える。
続いて、もう一つ。
「っ……!」
サリアの脚へ、黒い靄が絡みついた。
「離して!」
杖を振る。
淡い光が弾けた。
けれど、靄はほどけない。
グレモルトの頭が、ゆっくりとサリアへ向いた。
「支えるものが崩れれば、お前の術式は脆いな」
黒い尾が動いた。
サリアが杖を掲げる。
「風の精霊よ、壁となって――!」
薄い光の障壁が立ち上がった。
尾が触れた。
障壁が砕けた。
サリアの身体が、その向こうへ吹き飛ぶ。
白い外套が石畳を滑り、杖が手から離れた。
「サリアさん!」
声を上げた。
僕は立ち上がれなかった。
足元の術式はもう消えている。
身体を縛るものはない。
それでも、動けなかった。
右肩では、切り口に光が集まり始めている。
少しずつ、腕の形を取り戻そうとしている。
痛い。
立たなければと思う。
けれど、イリアは動かない。
サリアも起き上がらない。
僕の腕を使った光ですら、グレモルトの核へ届かなかった。
アニエスだけが、立っていた。
グレモルトの前に。
僕たちの前に。
白い長衣の裾が、黒い靄に揺れている。
頬から顎へ走っていた赤い線は、首元まで伸びていた。
けれど、それ以上は広がっていない。
アニエスはまだ、白い姿のままだった。
「もう終わりか」
グレモルトが言った。
「貴様が作った勇者も、名を継いだ従者も、私には届かなかった」
アニエスは返事をしない。
右手を上げる。
杖はない。
詠唱もない。
彼女の指先が閉じた。
空気が沈んだ。
見えない何かが、グレモルトの首へ食い込む。
黒い鱗が内側へ歪んだ。
一枚。
二枚。
割れた鱗の周囲が、潰れるように軋む。
グレモルトの頭部が、わずかに沈んだ。
アニエスの頬の赤い線から、細く血が落ちた。
それでも、彼女は手を下ろさない。
「通さない」
静かな声だった。
「この先へは、一歩も通さない」
「その力でか」
グレモルトの声には、まだ余裕があった。
黒い靄が、大蛇の首元から溢れ始める。
アニエスの見えない力と、靄がぶつかる。
石畳が震えた。
鎧猪の灰が、二人の間で渦を巻く。
アニエスがもう一歩進む。
頬の赤い線が濃くなる。
首元にも、薄い赤が浮かび上がった。
「アニエスさん……」
人の傷ではない。
皮膚が裂けたのではない。
身体の内側から、何かが押し出されている。
アニエスの指が、さらに閉じた。
グレモルトの首が、大きく沈んだ。
地面に亀裂が走る。
一瞬だけ、勝てるのかと思った。
けれど、グレモルトは笑った。
「弱くなったな、アニエス」
アニエスの目が細くなる。
「かつての貴様なら、今ので私の首を砕いていた」
黒い靄が膨れた。
アニエスの身体が、わずかに後ろへ滑る。
靴の下で石が削れる。
「人間どもの盾を演じるうちに、随分と力を捨てたものだ」
「黙れ」
「勇者の光に触れ続け、人の都に縋り、人の姿を守るために削り続けた。その結果がこれか」
グレモルトの口が開いた。
牙の奥に、黒い光が集まる。
アニエスは両手を前へ出した。
空気がもう一度歪む。
黒い光が放たれた。
音が消えた。
次の瞬間、アニエスの身体が吹き飛んだ。
白い長衣が、石畳の上を滑っていく。
背中が崩れた石へぶつかる。
それでも彼女はすぐに手をつき、身体を起こそうとした。
右腕が震える。
肘が崩れた。
立てなかった。
「アニエスさん!」
僕は声を上げた。
彼女は僕を見なかった。
石畳へ片膝をついたまま、グレモルトを睨んでいる。
頬から落ちた赤い滴が、白い石へ触れた。
その滴は、血のように広がらなかった。
石の上で黒く煙を上げ、すぐに消えた。
グレモルトが、ゆっくりと頭を持ち上げる。
「まだ、人の形で立つか」
アニエスは答えない。
「その姿で守りたかったのか。この都を。人間どもを。勇者の名を被せた造り物を」
アニエスの指が、石畳を掴んだ。
「……黙れ」
掠れた声だった。
「何度言われようと、事実は変わらぬ」
グレモルトの声が低く響く。
「貴様は魔王だ。人の姿に潜み、人の味方を装い、勇者の名を継がせた抜け殻を造り続けた魔王だ」
アニエスの身体が、わずかに揺れた。
勇者の名を継がせた抜け殻。
その言葉が、胸へ刺さった。
「抜け殻……?」
僕の声は、ほとんど音にならなかった。
アニエスは答えない。
ただ、ゆっくりと立ち上がろうとした。
片膝を上げる。
崩れた腕へ力を入れる。
けれど立てない。
彼女は、もう立てなかった。
それでも、グレモルトは止まらない。
「さあ、どうする」
愉しむような声だった。
「人の守り手として、このまま死ぬか。それとも――」
黒い瞳が細くなる。
「戻るか?」
アニエスの肩が、わずかに下がった。
諦めたように見えた。
彼女の視線が、僕へ向いた。
右肩からは、まだ白い光が零れている。
切り落とされた腕を戻すためだけに集まり、形になろうとしては揺れている光。
その目に、僕を助けようとする色はなかった。
僕の身体を見ている。
さっきまで剣に変えられていた腕を。
グレモルトの核へ届かず、途中で弾かれた光を。
「……結局」
アニエスの唇が動いた。
グレモルトの黒い瞳が、彼女へ向く。
「結局、私はリュシアンを再現できなかった」
胸の奥が冷えた。
僕を見ているはずなのに、その言葉の中に僕はいなかった。
「今さら気づいたか」
グレモルトが、低く笑った。
「形を整え、勇者と呼ばせ、光をまとわせたところで、それは人形にすぎぬ」
アニエスは答えなかった。
頬から落ちた赤い滴が、白い石の上へ落ちる。
血のように広がることはなく、細い煙を上げて消えた。
その赤を見た瞬間、彼女の瞳が、ほんのわずかに揺れた。遠い過去を見るように焦点が虚ろになっているようだった。
――その石の床は冷たかった。
けれど、少女の身体は熱に焼かれていた。
手首には布が巻かれている。
寝台の左右へ縛りつけるための布だった。
何度も取り替えられたのだろう。新しい白い布の下には、擦れて破れた皮膚が見えていた。
「アニエス、聞こえる?」
誰かが呼んでいた。
声は近い。
けれど、遠い水の底から聞こえてくるようでもあった。
「もう少しだけ我慢して。薬を――」
少女は首を振ろうとした。
身体が動かない。
熱い。
皮膚の下を、何かが這っている。
左腕に、細い赤黒い線が浮かんでいた。
肘の内側から手首へ。
手首から、指先へ。
血管ではない。
線は、脈を打ちながら伸びている。
「嫌……」
そう言ったつもりだった。
けれど、喉から出たのは、獣が唸るような低い音だった。
寝台のそばにいた女が、息を呑んだ。
その目に浮かんだものが見えた。
恐怖。
それを見た瞬間、少女の胸の奥で何かが膨らんだ。
どうして、そんな目で見るのか。
助けてほしいだけなのに。
痛いと伝えたいだけなのに。
声が耳へ届くたび、意味が崩れていく。
心配する声が、責める声に聞こえた。
名前を呼ぶ声が、化け物と罵る声に変わった。
頭の中で、黒いものが笑っていた。
「押さえて!」
誰かが叫ぶ。
槍を持った男が、扉の前へ立った。
その刃先が自分へ向いた。
怖い。
殺される。
死にたくない。
少女は手を伸ばした。
助けを求めるためだった。
けれど、手首を縛っていた布が、黒い霧に触れて裂けた。
伸ばした指が、そばにいた女の腕へ触れる。
悲鳴が上がった。
女の身体が床へ倒れる。
白い布が赤く濡れ、触れた腕の周囲から黒いものが広がっていった。
「違う……」
少女は言った。
そう言ったはずだった。
けれど、部屋に響いたのは、人の声ではなかった。
槍が突き出される。
黒い霧が弾けた。
壁が砕けた。
寝台が折れた。
誰かの声が途切れた。
霧が薄れたとき、立っていたのは少女だけだった。
足元に、水が広がっている。
割れた椀。
折れた槍。
白い布。
動かない手。
その手は、ついさっきまで自分へ水を飲ませようとしていた女のものだった。
少女は、震える指を見た。
赤黒い線は、もう両腕へ広がっている。
怖い。
助けてほしい。
そう思っている。
なのに、扉の向こうから聞こえる人の声が憎かった。
走ってくる足音が憎い。
泣き叫ぶ声が憎い。
自分を恐れるすべてが、壊したくなるほど憎い。
その憎しみが、自分のものなのか、身体の奥へ入り込んだ何かのものなのか、もう分からなかった。
崩れた壁の向こうに、都が見えた。
家々の屋根。
夕暮れの道。
灯りのつき始めた窓。
あそこへ行けば、もっと多くの人が死ぬ。
そのことだけは、まだ分かった。
少女は、崩れた壁の向こうへ歩いた。
誰かが止まれと叫んだ。
振り返らなかった。
助けてほしかった。
名前を呼んでほしかった。
けれど、もう自分が人のそばへ戻れば、誰かを壊す。
都を出たとき、空は暗くなっていた。
腕を走る赤黒い線だけが、夜の中で熱を持っていた。
――同じ熱が、今、アニエスの身体の内側で脈を打っている。
彼女が人の姿で押さえ込んできたもの。
長いあいだ、二度と表へ出さないようにしてきたもの。
勇者の器は、グレモルトへ届かなかった。
イリアも、サリアも倒れた。
人の姿のままでは、もう立つことすらできない。
残っているのは、かつて自分を人の都から追い出し、その後、魔王へ変えた力だけだった。
頬から顎へ伸びた線が、首元へ広がる。
グレモルトが笑う。
「どうした。思い出したか」
アニエスは、ゆっくりと顔を上げた。
その目は、僕が知っている薄い色ではなかった。
瞳の奥に、赤黒い光が灯っている。
「私は……」
声が低くなる。
喉の奥に、別の声が重なったように聞こえた。
「もう、戻る場所など持っていない」
頬の赤い線が、一気に広がった。
首へ。
鎖骨へ。
白い長衣の下へ。
赤黒い光が、身体の内側から脈打つ。
風が止まった。
警鐘の音が、一瞬だけ遠ざかったように感じた。
アニエスの周囲へ、黒い霧が滲み出す。
グレモルトが漏らしていた靄とは違う。
もっと濃く、もっと重い。
足元の白い石が、霧に触れた場所から細くひび割れていく。
アニエスは立ち上がった。
さっきまで崩れていた右腕が、何事もなかったように身体を支えている。
白い長衣の裂けた袖の下で、細い腕に赤黒い線が走っていた。
人の姿は残っている。
顔も。
身体も。
声も。
けれど、もう誰も彼女を賢者だとは思わない。
人と呼ぶにはあまりに禍々しい姿だった。
「ようやくか」
グレモルトが笑った。
「ようやく、私の知るアニエスになった」
アニエスは答えなかった。
右手を前へ出す。
その手が、ただ閉じた。
グレモルトの頭部が、横へ弾けた。
轟音が響いた。
巨体が門の残骸へ叩きつけられ、白い石が爆ぜる。
僕は目を見開いた。
さっきまでの力とは違う。
押さえつけるのではない。
潰しきれないものを、少しずつ歪ませるのでもない。
触れていないのに、グレモルトの巨体そのものが殴り飛ばされた。
アニエスの足元で石畳が砕けた。
次の瞬間、彼女の姿が消えた。
白と黒の影が、グレモルトの首元に現れる。
細い腕が、割れた鱗の上へ触れた。
触れただけに見えた。
けれど、鱗がまとめて内側へ潰れた。
紫色の光が噴き出す。
グレモルトの喉から、今度こそ苦しげな音が漏れた。
「そうだ」
それでも、大蛇は笑っていた。
「その力だ」
アニエスの周囲で、黒い霧が膨らむ。
霧は刃にも炎にもならなかった。
ただ、グレモルトの体躯へまとわりつき、触れた鱗を一枚ずつ歪ませ、砕いていく。
グレモルトの首が持ち上がる。
牙がアニエスへ向いた。
黒い光が放たれる。
アニエスは片手を払った。
光が横へ逸れた。
背後の城壁へ当たり、白い石の壁が音もなく崩れ落ちる。
もう一方の手が、グレモルトへ向く。
大蛇の顎が閉じた。
牙が噛み合い、口元から黒い霧が漏れた。
アニエスは、さらに指を閉じる。
グレモルトの首の鱗が、次々と砕けていった。
勝てる。
今度こそ、そう思った。
グレモルトの巨体が苦しむように揺れている。
割れた鱗の奥から、濁った光が漏れ続けている。
さっきまで何をしても届かなかった相手が、確かに傷ついている。
けれど、アニエスの身体も変わっていた。
赤黒い線が、さらに増えている。
頬だけではない。
首も、腕も、指先も。
黒い霧が濃くなるたび、彼女の白い肌の上から、人の色が薄れていくように見えた。
グレモルトが、閉じられた顎の奥で笑った。
音にならないはずの笑い声が、胸の奥へ響いた。
次の瞬間、グレモルトの身体から黒い靄が噴き上がった。
これまでとは比べものにならない量だった。
アニエスの霧と、グレモルトの靄がぶつかる。
空気が裂ける。
僕の身体が、石畳の上を転がった。
右肩に集まり始めていた光が散る。
腕の再生が途中で止まった。
「っ……!」
顔を上げる。
黒い霧の中で、アニエスが片手を伸ばしていた。
その手の先に、グレモルトの頭部がある。
けれど、もう押し返せていない。
グレモルトの首が、少しずつ前へ進んでいた。
「貴様は薄くなった」
大蛇の声が、霧の中から響いた。
「どれほど姿を戻そうと、核まで戻るわけではない」
アニエスの歯が、わずかに食いしばられた。
「人の光に触れすぎた。人の暮らしに居すぎた。守るなどという真似をしすぎた」
グレモルトの巨体が、もう一度前へ出る。
アニエスの足元の石が砕ける。
「貴様はもう、かつての魔王ではない」
牙の奥で、黒い光が膨れた。
アニエスが両手を向ける。
赤黒い線が、一斉に光った。
黒い光が放たれた。
アニエスの霧が、それを受け止める。
一瞬だけ、二つの黒が拮抗した。
けれど、アニエスの霧に細い亀裂が走った。
崩れる。
黒い光が、彼女の身体を呑み込んだ。
アニエスが吹き飛ばされた。
石畳へ落ちる。
一度跳ね、二度転がり、僕の少し前で止まった。
赤黒い線は、まだ身体に残っている。
黒い霧も、消えきってはいない。
けれど、アニエスは起き上がらなかった。
「アニエスさん……」
声が出た。
返事はない。
イリアも倒れている。
サリアも動かない。
最後に立っていたアニエスまで、倒れた。
グレモルトが、ゆっくりとこちらへ向き直る。
黒い鱗のいくつかは割れ、首元から濁った光が漏れている。
アニエスの力は届いていた。
それでも、倒せなかった。
「さて」
グレモルトの声が、静かに落ちた。
「運用する者は、もういない」
僕は立とうとした。
右腕はまだ戻りきっていない。
肩から先が、白い光の輪郭のまま揺れている。
左手で、落ちていた剣の柄を掴んだ。
刃は折れていない。
けれど、そこに光はもう残っていなかった。
握っても、何も起きない。
立ち上がろうとして、膝が崩れた。
「……来るな」
グレモルトは止まらない。
割れた門の石が、巨体の下で砕けていく。
「来るな……」
声が細くなる。
光は出ない。
逃げることもできない。
グレモルトの目が、僕を見下ろした。
「二百五十年」
低い声だった。
「我らは、勇者を喰えば力を得られると信じてきた」
「……やめろ」
掠れた声だった。倒れているアニエスの指が、わずかに動いた。
グレモルトの口元が、歪んだ。
「貴様が、それを言うのか」
巨大な頭部が、僕の前まで下りてくる。
黒い瞳の中に、石畳へ座り込む僕の姿が映っていた。
白い衣装を着て。
剣を持って。
勇者の形だけをして。
何もできずにいる僕。
「喰わないんじゃ……」
息を吸うたび、喉が震える。
「僕を喰えば、あなたも……」
「死ぬか?」
グレモルトが笑った。
「すべてを喰らい、核の奥へ光を届かせれば、あるいはな」
その視線が、再生しかけている右腕へ落ちた。
白い光が、まだ腕の形を作り切れずに揺れている。
「だが、腕一本で私が死ぬと思うか」
息が止まった。
右肩を左手で庇った。
身体を引こうとする。
動かなかった。
グレモルトの牙が、ゆっくりと降りてきた。
牙が、右腕へ食い込んだ。
まだ、腕は戻りきっていなかった。
骨も、肉も、皮膚もない。
白い光が、腕の形になろうとして揺れていただけだった。
それなのに、痛みだけは本物だった。
「――あ、あああああっ!」
肩から先を、もう一度引き千切られる。
形になりきらない腕が、牙の間で潰された。
白い光が散る。
身体の奥から、何かを無理やり引き抜かれていく感覚がした。
左手で石畳を掻いた。
逃げたい。
腕を引き戻したい。
けれど、グレモルトの牙に挟まれた光は、僕の身体から伸びたまま動かなかった。
「やめ……」
声が息に潰れた。
「やめて……」
グレモルトが、ゆっくりと首を引いた。
右肩から、白い腕が離れた。
腕だったものが、牙の間で揺れている。
手の形がまだ残っていた。
指先だけが、何かを掴もうとするように一度動いた。
「返して……」
自分でも、なぜそんな言葉が出たのか分からなかった。
戻る身体だ。
壊されても、また形になる。
さっきだって、そうだった。
それでも、あれは僕の腕だった。
僕の身体から千切られたものだった。
グレモルトは、僕を見たまま顎を閉じた。
白い腕が、噛み砕かれた。
その瞬間、光が弾けた。
大蛇の口の中から、白い光が噴き出す。
「――ぐっ……!」
初めて、グレモルトの声が歪んだ。
巨大な頭部が持ち上がる。
牙の隙間から、焼けたような白い煙が上がった。
黒い鱗の間へ、細い白の線が走る。
口元から。
喉へ。
さらに、その下へ。
光が、グレモルトの内側を焼いている。
「……届いた」
声が漏れた。
今度こそ。
僕の光が。
喰われた腕が。
アニエスが、石畳の上で身体を起こそうとした。
赤黒い線の残る指が、白い石を掴む。
黒い霧が、弱く揺れた。
「そのまま……焼け……」
掠れた声だった。
イリアも、倒れたまま指を動かした。
サリアの杖の先にも、ほんのわずかに光が灯った。
けれど、白い線はグレモルトの胸まで届かなかった。
喉元で止まった。
濁った紫色の光が、黒い鱗の奥で脈打つ。
白い光を押し返すように、ゆっくりと広がっていく。
煙は上がっている。
口の端は焼けている。
喉の鱗も、いくつか崩れ落ちた。
それでも、グレモルトは倒れなかった。
大蛇は、一度だけ大きく喉を鳴らした。
苦しそうに見えた。
けれど、次に聞こえたのは笑い声だった。
「……なるほど」
口元から白い煙を漏らしながら、グレモルトが頭を下ろす。
「確かに、毒だ」
僕は右肩を押さえた。
そこには、もう腕がない。
白い光も、一度は散りきっていた。
けれど、傷口の奥で、また小さな光が集まり始めている。
身体が、次の腕を作ろうとしている。
痛みが消える前に。
喰われた感触も消えないまま。
「二百五十年」
グレモルトの視線が、アニエスへ向く。
「貴様は、これを我らへ喰わせてきたのか」
アニエスは答えなかった。
立ち上がろうとしている。
けれど、身体はもう言うことを聞かない。
腕に力を込めるたび、赤黒い線が弱く光り、そのたびに指が石畳へ崩れた。
「欲に目の眩んだ魔王へ、勇者を差し出す。喰らえば力を得られると信じ込ませ、その腹の中で光を弾けさせる」
グレモルトの口元が歪む。
「よくできた罠だ。核の小さな者なら、喉を焼かれた時点で終わるだろう」
焼けた鱗の一枚が、石畳へ落ちた。
黒い鱗は、白い煙を上げながら崩れていく。
「だが、私には浅い」
その言葉が、胸の奥へ落ちた。
僕の腕を使っても届かなかった。
イリアが斬っても。
サリアが光を通しても。
アニエスが魔王の力まで使っても。
駄目だった。
「不滅の勇者とは、たいそうな名を付けたものだな」
グレモルトが言った。
「壊れても戻る。切り取っても、喰わせても、また使える」
視線が、僕の右肩へ戻る。
集まった光が、ゆっくりと肘のあたりまで形を作り始めていた。
その光を見て、グレモルトはまた笑った。
「確かに、餌としては申し分ない」
胃の奥がひっくり返るようだった。
「違う……」
自分でも聞き取れないほど小さな声が出た。
「僕は……餌じゃ……」
言葉の続きが出なかった。
腕はまた作られている。
僕が望んでいるからではない。
僕が生きたいからでもない。
もう一度、切るために。
もう一度、喰わせるために。
もう一度、誰かが使えるように。
身体が勝手に戻っていく。
「違わぬ」
グレモルトが言った。
「貴様自身が、もう知っているはずだ」
黒い瞳に、震えている僕の姿が映っていた。
「剣を持たされても、振るえぬ。光を入れられても、自ら灯せぬ。貴様は勇者ではない」
息が止まった。
「その身体に入れられた、ただの中身だ」
右肩の光が揺れた。
痛みで震えたのか。
僕の身体が震えたからなのか、分からなかった。
「やめろ……」
アニエスの声がした。
さっきよりも弱い。
それでも、彼女はグレモルトを見ていた。
「それ以上、口を開くな」
「なぜだ」
グレモルトが、ゆっくりと彼女へ向き直る。
「貴様が造ったものの正体を、本人へ教えてやっているだけだ」
「黙れ」
アニエスの動きが止まった。
僕は、肩を押さえたまま彼女を見た。
彼女は僕を見ている。
今度は、はっきりと。
戻りかけた腕を。
石畳の上から立ち上がることもできない身体を。
歯を食いしばっても止まらない震えを。
その目の奥にあったものは、同情ではなかった。
痛みでもなかった。
何度も見てきた答えを、また一つ確認したような、冷たい静けさだった。
「……私が造りたかったものは本物のリュシアンだ」
アニエスの唇が動いた。彼女は、僕から目を逸らさなかった。
「リュシアンは……そんなふうには震えなかった」
アニエスの目が、ゆっくりと閉じられた。
警鐘の音が遠くなる。
石畳に散った白い光も。
グレモルトの黒い巨体も。
再生していく僕の痛みも。
彼女の中から、少しずつ遠ざかっていくように見えた――。




