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光よ、満ちろ  作者: 織 航(しき わたる)


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第34話 大蛇の魔王

 地面が揺れた。

 足の裏へ、鈍い震えが届いた。

 僕は剣を握ったまま、東の森を見ていた。

 遠くで警鐘が鳴っている。

 北。

 西。

 南。

 けれど、東門の周囲からは、もう人の声がほとんど消えていた。

 門の内側へ続く白い道には、逃げていく人々の姿も、走り出す兵士の姿も見えない。

 残っているのは、崩れた石壁と、鎧猪だったものの黒い灰だけだった。

 風が吹いた。

 灰が、石畳の上を薄く流れていく。

 さっきまで、その向こうには大勢の人がいた。

 僕を見ていた。

 勇者リュシアンがここへ残ると聞いて、別の場所へ向かっていった。

 僕は、何もできないのに。

 右手に力が入った。

 白い剣の柄が掌へ食い込む。

 腕は戻っている。

 指も動く。

 傷跡もない。

 けれど、切り取られた瞬間の痛みだけは、肩の奥に残っていた。

 また地面が揺れた。

 今度は、崩れた石のひとつが音を立てて転がった。

 サリアの杖が、石畳へ触れる。

 門の内側へ引かれていた白い術式が、淡く明滅した。

 何重にも重なった光の線が、地面を覆うように広がっている。


「……近いです」


 サリアが言った。

 声が、少しだけ硬かった。

 イリアは答えなかった。

 大剣を抜いたまま、門の端に立っている。

 アニエスも動かない。

 風に揺れる白い長衣。

 白い横顔。

 頬から顎へ伸びた赤い線。

 鎧猪を止めるために力を使ったとき、そこへ現れたものだった。

 血のようにも見える。

 けれど、傷口から流れているようには見えなかった。


「アニエスさん」


 僕は呼んだ。

 彼女は東の森を見たまま、返事をしなかった。


「……本当に、グレモルトなんですか」


「他に考えられない」


 ようやく返ってきた声は、いつもと同じだった。

 冷たく、迷いのない声。

 けれど、それだけではなかった。

 昨日から何度も聞いてきた、すべてを決め終えた人の声とは違う。

 答えているのに、次の手までは口にしなかった。

 僕は森を見た。

 夕暮れの中で、木々はほとんど黒い塊になっていた。

 その上から、鳥の群れが一斉に飛び立つ。

 小さな黒い点が空へ散る。

 その直後、森の一部が沈んだ。

 何本もの木が、同じ方向へ傾いていく。

 風ではない。

 中を進んでいる何かに触れ、耐えきれずに倒れている。

 身体が冷えた。


「僕は……」


 喉が狭くなる。


「僕は、どうすればいいんですか」


 アニエスは答えない。


「光を出せません。何度やっても、ほんの少し灯って、それで消えました。さっきだって、僕が魔王を倒したわけじゃない」


 右肩が痛んだ気がした。


「僕の腕を切って、剣に使っただけです」


 声が震える。


「グレモルトは、それを見た。僕を喰わないって言った。触れさせもしないって……」


「分かっている」


 アニエスが言った。


「君が光を使えないことも、剣を扱えないことも、あれが器への接触を避けるつもりでいることも」


「だったら、僕は何のためにここにいるんですか」


「必要だからだ」


 返事は早かった。

 その声に、僕への迷いはなかった。


「君がここに立っていれば、聖都の人間は東門に勇者が残っていると信じられる。兵士は他の場所へ向かえる。避難する者も足を止めない」


「それだけですか」


「それだけではない」


 アニエスの視線が、一度だけ僕の右腕へ落ちた。


「器はまだ使える」


 息が詰まった。


「その事実は変わらない」


「そんなの……」


「他に何がある?」


 アニエスの声は変わらなかった。


「イリアの剣。サリアの術式。君の器。私の力。使えるものはすべて使う」


 僕は何も言えなかった。

 この人にとって、僕はまだ同じなのだ。

 腕を切っても戻る身体。

 魔王の核を焼くための毒。

 人々へ見せるための勇者。

 そこに僕が何を思っているかは、関係ない。


「……僕は、死にたくない」


 声が漏れた。

 アニエスは僕を見た。

 少しも表情を変えない。


「知っている」


「だったら――」


「君が死にたくないかどうかで、今の状況は変わらない」


 言葉が止まった。


「ここを抜かれれば、聖都の人間が死ぬ。君も死ぬ。私たちも死ぬ。なら、止めるために使えるものはすべて使う」


 即答だった。

 右手が震えた。剣先が小さく揺れる。

 

「……それで、止められるんですか。あなたたちの力でも、止められなかったら――」


 アニエスは答えなかった。

 今度こそ、返事がなかった。

 サリアが杖を握ったまま、わずかに顔を上げる。

 イリアも、森へ向けていた大剣を少しだけ下げた。

 彼女たちの沈黙が、森の奥にいるものより肝を冷やした。

 ここから離れたいと思った。

 けれど、背後にはまだ人がいる。

 勇者が残っていると信じて、走り出した者たちがいる。

 僕が逃げれば、今度はその足を止める。

 逃げる場所がないのではない。

 逃げた先にも、誰かがいる。 

 地面が揺れた。

 大きかった。

 足元の石畳が震え、門壁から白い石がいくつも落ちる。

 サリアの術式が揺らいだ。


「――来る」


 イリアが言った。

 東の森で、何本もの木がまとめて傾いた。

 黒いものが見えた。

 最初は、森の中に岩壁が現れたように思った。

 夕暮れの暗がりの中を、黒い壁がゆっくりと横切っている。

 けれど、その表面が動いた。

 鱗だった。

 大きな黒い鱗が、木々の隙間を滑っていく。

 一本の木がその表面へ触れた。

 幹が折れる音が、少し遅れて届いた。

 僕は息を止めた。

 見えているのは体躯の一部だけだった。

 それなのに、鎧猪よりも大きいことが分かった。

 鎧猪は、門を壊すために何度も突進した。

 身体をぶつけ、地面を割り、ようやく支え棒を折った。

 けれど、森の中にいるものは違った。

 急いでいない。

 森を壊そうとしているようにも見えない。

 ただ進んでいるだけで、その通り道にある木々が倒れていく。

 黒い巨躯が、また大きくうねった。

 森の木々が左右へ沈む。

 その奥から、巨大な頭部がゆっくりと持ち上がった。

 大蛇だった。

 蛇の使い魔とは比べものにならない。

 頭部だけで、東門の幅に届くほど大きい。

 黒い鱗の隙間には、濁った紫色の光が走っている。

 長い牙の先から、黒い靄が細く漏れていた。

 けれど、僕が目を離せなかったのは、その目だった。

 狼魔王の前で、蛇を通して僕を見ていた目。

 鎧猪を倒したあと、僕の腕を見て笑った目。

 あの小さな蛇の奥にいたものが、森の中にいる。

 まだ、門との間には距離があった。

 けれど、黒い巨躯がうねるたび、その距離は目に見えて縮まっていく。

 一度、地面が揺れた。

 森の端の木々が倒れる。

 もう一度、地面が揺れた。

 巨躯が街道へ滑り出した。

 鎧猪が砕いた門の残骸が、その進路に残っている。

 グレモルトは止まらなかった。

 黒い身体の一部が、崩れかけた白い壁へ触れる。

 石壁が崩れた。

 攻撃したわけではない。

 身体をぶつけたわけでもない。

 ただ触れただけで、鎧猪が何度も突進して壊そうとした門の残りが、砂の山のように崩れていく。

 白い石の粉が舞った。

 鎧猪の黒い灰が、その中へ巻き上げられる。

 僕は剣を握ったまま、動けなかった。

 グレモルトの頭が、崩れた東門の向こうで止まる。その視線は、最初にアニエスへ向いた。

 次に、イリア。

 サリア。

 最後に、僕へ止まった。

 喉の奥が固まる。

 グレモルトは僕を見ても、口を開こうとはしなかった。

 喰うつもりはない。

 近づいて、僕の身体へ触れて、内側から焼かれるつもりはない。

 それが、目を見ただけで分かった。

 警鐘だけが、遠くで鳴っていた。

 グレモルトの口が、ゆっくりと開く。


「ようやく静かになったな」


 低い声が、白い石の残骸を震わせた。


「これで、人の目を気にせず話ができる」


 アニエスの頬に残った赤い線が、夕暮れの中で濃く見えた。

 グレモルトの目が細くなる。


「久しいな。――アニエス」


 その声には、蛇を通していたときとは違う重さがあった。

 アニエスは答えなかった。

 風が、彼女の白い長衣を揺らしている。

 その横顔は、さっきまでと変わらないように見えた。

 けれど、頬から顎へ伸びた赤い線だけが、グレモルトの声に反応するように濃くなっていた。


「随分と長く、人の姿に馴染んだものだ。かつては、人の都を滅ぼす側にいたというのにな」


 頭の中で、言葉が止まった。

 人の都を滅ぼす。

 アニエスが……?


「……何を」


 声が出た。


「何を言ってるんですか」


 アニエスは僕を見なかった。


「聞く必要はない」


「でも――」


「今は、必要がない」


 それだけ言って、彼女はグレモルトへ向き直った。

 けれど、グレモルトは低く笑った。


「隠す必要もあるまい。ここには、貴様を賢者と信じる人間どもはもういない」


 黒い瞳が、僕へ向く。


「もっとも、その器に入れられた魂は別か」


 胸の奥が縮んだ。


「器……」


「自分が何であるかは、もう知っているのだろう?」


 グレモルトの視線が、僕の右腕へ落ちる。


「魔王の腹へ入れ、核を内から焼くための毒。勇者などと飾り立てられてはいるが、中身はそれだけだ」


 右腕が震えた。

 分かっている。

 狼魔王に肩を喰われたときも。

 鎧猪の核へ届かせるため、腕を切られたときも。

 僕の身体が何のためにあるのかは、もう嫌になるほど分かっている。


「それを作り、魔王どもへ喰わせ続けてきたのが、そこにいる女だ」


 グレモルトの口元が歪む。


「かつては自らも魔王として立ち、人間を殺していた女がな」


 僕はアニエスを見た。

 白い建物にいた人。

 光の院で、人々から頭を下げられていた人。

 聖都を守るために、僕の身体を迷いなく使った人。

 それが、魔王だった。


「……嘘、ですよね」


 誰に訊いたのか、自分でも分からなかった。

 アニエスは、やはり僕を見ない。


「サリア」


 ただ、名前を呼んだ。


「はい」


「術式を閉じなさい。イリアは左から入る。目ではなく、首の鱗を狙いなさい」


「承知しました」


「分かった」


 二人は、驚かなかった。

 サリアは杖を握り直し、イリアは大剣を構えた。

 それだけだった。

 何も訊かない。

 何も否定しない。

 僕の喉が詰まった。

 二人とも、知っていた。

 アニエスが何者なのか。


「待ってください」


 声が震えた。


「二人も知っていたんですか。アニエスさんが魔王って……」


「リュシアン」


 イリアが言った。

 こちらは見なかった。


「今は下がっていろ」


「でも」


「生きていたいなら、邪魔をするな」


 大剣の切っ先が、グレモルトへ向く。

 僕は何も言えなくなった。

 サリアの杖が、石畳を叩いた。


「土の精霊よ。深く潜り、重なり、その身を縫い留めなさい」


 門の内側へ広がっていた術式が、一斉に光った。

 石畳が割れる。

 幾本もの太い岩が、地面から突き上がった。

 鎧猪へ向けた杭とは違う。

 鋭く貫くためではなく、曲がりながらグレモルトの下顎と首へ絡みつき、巨体を地面へ縛りつけようとしている。

 グレモルトの頭部が、わずかに持ち上がった。

 その下へ、岩が食い込む。


「風の精霊よ。囲い、重なり、流れを奪って」


 サリアの声が続く。

 空気が鳴った。

 グレモルトの周囲で、夕暮れの光が歪んだ。

 見えない壁が幾重にも重なり、黒い靄を押し戻す。

 大蛇の動きが、止まった。


「イリア!」


 サリアが叫ぶ。

 イリアはすでに走っていた。

 崩れた門壁へ足をかける。

 突き出した岩を蹴り、グレモルトの左側へ跳び上がる。

 大剣が振り下ろされた。

 狙ったのは、目のすぐ下に並ぶ鱗だった。

 硬い音が響く。

 黒い鱗に、細い亀裂が入った。


「もう一度!」


 アニエスの声が飛ぶ。

 イリアは着地しなかった。

 岩に片足をかけたまま、身体を捻り、同じ箇所へ二撃目を叩き込む。

 鱗が割れた。

 その隙間から、濁った紫色の光が漏れる。

 グレモルトの頭部が、初めてわずかに揺れた。


「届く!」


 イリアが叫んだ。


「ここなら中へ通る!」


 グレモルトの喉が鳴る。

 笑っていた。


「よく躾けられている」


 黒い巨体が、少しだけ動いた。

 サリアの岩が軋む。

 風の壁が震える。


「まだです!」


 サリアが杖を両手で押し込むように構えた。


「止めます! 今のうちに!」


 アニエスの視線が、僕へ向いた。

 嫌な予感がした。

 身体が、先に後ろへ下がった。


「リュシアン」


「……嫌です」

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