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光よ、満ちろ  作者: 織 航(しき わたる)


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第33話 三方の警鐘

「北方、煙が上がっています!」


 歓声の中では、最初その声に気づく者は少なかった。

 別の兵士が壁の上を走る。


「見張り台から合図! 北の外縁で魔物反応!」


 アニエスが顔を上げた。

 まだ、何も言わない。

 門の下では、一部の者が不安そうに城壁を見始めていた。それでも、多くの人はまだ勝利の余韻の中にいる。

 鎧猪は倒れた。

 勇者は立っている。

 だから大丈夫だと、思いたいのだろう。

 しばらくして、西の方角から低い鐘が鳴った。

 一度。

 二度。

 短く、途切れるような音だった。

 歓声が少しずつ止んでいく。


「……あれは?」


「警鐘じゃないのか」


「西で?」


 人々の声が揺れる。

 兵士が階段を駆け下りてきた。鎧の留め具が鳴り、石段の欠片を蹴散らしてアニエスの前へ滑り込む。


「アニエス様、西に魔物の群れ! 荷車の避難を始めていますが、護衛が不足しています!」


「数は――?」


「確認できただけで二十以上! まだ森の奥に気配があります!」


 アニエスは机上の図面でも見るように静かに訊いた。


「北は」


「狼型が複数。外縁を抜け、農地側へ流れています!」


「鎧猪に集中している隙を狙われたか」


「……あるいはそう見せたいのかもしれない」


 イリアが舌打ちすると、アニエスが言った。


「見せたい?」


 僕は聞き返した。

 けれど、彼女は答えなかった。

 そのとき、南からも鐘が鳴った。

 今度は、門下の人々にもはっきり聞こえた。

 三方向。

 北。

 西。

 南。

 さっきまで白い石畳に満ちていた歓声は、完全に消えた。

 泣き出す子どもの声が聞こえる。

 誰かが「光の院は」と言った。

 別の誰かが「避難場所へ戻れ」と叫ぶ。

 兵士たちが動き始めたが、どこへ向かうべきか判断がついていないようだった。

 東門は、さっき鎧猪に破壊されかけた。

 亀裂の入った壁。

 折れた支え棒。

 崩れた石床。

 ここから兵を動かせば、東の守りが薄くなる。

 けれど、三方から魔物が来ているなら、兵を残している余裕もない。

 兵士の一人がアニエスへ向かって叫んだ。


「指示を! 東門の兵を割きますか!」


 アニエスは、すぐには答えなかった。

 それまでの彼女なら、迷いなく言葉を返していた。

 ガルヴァンの後始末へ僕を送ったときも。

 鎧猪を前に僕の身体を刃として使ったときも。

 必要なことを、必要な順番で、迷いなく口にしていた。

 けれど今は、答えなかった。

 視線だけが、壊れかけの東門の向こうへ向いている。

 森。

 聖都から東へ続く道。

 薄暗い木々の重なり。

 そこには、まだ何も見えない。

 少なくとも僕には、何も。


「アニエス様?」


 兵士がもう一度呼んだ。


「……アニエス様」


 サリアが、小さく息を呑んだ。

 彼女の声は、兵士へではなく、アニエスへ向けられていた。


「感じます」


 サリアの言葉にアニエスは答えない。


「東の森の奥です。反応が……沈みすぎています」


「沈む?」


 イリアが訊いた。


「魔物の群れではありません。もっと大きい。核の反応が、森全体の下に広がっているような……」


 サリアの声が、途中で細くなった。

 その言葉を聞いた兵士が、東門の向こうへ目を凝らす。


「東にも、魔物が?」


「分かりません」


 サリアはすぐに答えた。


「まだ、姿は見えていません」


 それは嘘ではないのだろう。

 けれど、サリアの顔は青ざめていた。

 イリアの手は、大剣の柄へ伸びている。

 アニエスだけが、東の森から目を逸らさない。

 三人には分かっている。

 僕にも、遅れて分かった。

 グレモルトだ。

 北も、西も、南も、ただの襲撃ではない。

 ここへ来るために、人を散らすために、アニエスに選ばせるために起きている。

 けれど、それを口にすることはできない。

 ここでグレモルトの名を出せば、なぜ分かるのかを問われる。

 なぜ人々の前ではなく、勇者たちだけが残る形を選ぶのかと疑われる。

 なぜ、アニエスがそれを恐れているのかまで見られるかもしれない。

 アニエスはまだ黙っていた。

 遠くで、南の警鐘がもう一度鳴る。

 光の院の方角から、人が走ってくるのが見えた。白い腕章をつけた男だった。息を切らし、東門の群衆をかき分けて叫ぶ。


「避難区画への移送を始めます! 歩けない者が多い、護衛を――!」


 その声を聞いた瞬間、門下の空気が崩れた。


「光の院が?」


「子どもたちは!」


「勇者様、どうか――」


 いくつもの視線が僕へ集まる。

 僕は息を止めた。

 やめてほしかった。

 僕を見ないでほしかった。

 僕には何もできない。

 さっきも、自分で光を灯したわけではない。

 また身体を使われただけだ。

 それでも、人々は僕を見た。

 ここに勇者がいるから、何とかしてくれると信じる目で。

 アニエスが、ようやく口を開いた。


「北と西へ兵を回しなさい」


 兵士が顔を上げる。


「南へは術士を。避難区画への道を最優先で確保する」


「ですが、東門は――!」


「ここにも残す」


「誰を残しますか」


 アニエスは答える前に、東の森を見た。

 ほんの短い沈黙だった。

 けれど、その沈黙の中に、今までとは違う重さがあった。


「私と、イリア、サリア。そして勇者リュシアンが残る」


 兵士の表情が固まった。


「四名で、ですか」


「東側の反応は、群れではない」


 アニエスは言った。


「数で受ける相手ではない可能性がある。ならば、中途半端に兵を置くより、北、西、南の被害を減らす方がいい」


「しかし、門はすでに損傷しています。もし東からも魔物が押し寄せれば――」


「そのために、勇者がいる」


 アニエスの声は静かだった。

 兵士の目がこちらへ向いた。

 白と金の衣装。

 腰の剣。

 傷ひとつ残っていない右腕。

 この姿を見て、彼は何を思ったのだろう。

 さっき鎧猪を倒した勇者がいる。

 エルフの賢者アニエスがいる。

 剣士イリアと魔法使いサリアがいる。

 なら、東門は最も安全だと。

 そう思ったのかもしれない。

 けれど、まだ兵士は動かなかった。

 納得できないのだ。

 当然だった。

 鎧猪に壊されかけた門を、たった四人に任せる。

 しかも、森の奥に得体の知れない反応がある。

 疑う方が自然だった。


「……本当に、東は」


 兵士が言いかけたときだった。

 城壁の上にいた見張りが、声を上げた。


「森の奥に動きがあります!」


 全員が東を見た。

 僕も目を向ける。

 最初は、風で木々が揺れているように見えた。

 けれど違う。

 森の一部だけが、ゆっくりと沈んでいる。

 木が倒れているのではない。

 もっと奥にある大きな何かが動き、その輪郭の前で森が押し下げられている。

 黒い影。

 木々の向こうに、影だけが見えた。

 形は分からない。

 頭なのか、胴なのか、それすら分からない。

 ただ、大きい。

 鎧猪よりも、はるかに。

 兵士の顔色が変わった。


「……あれは」


 声が震えていた。

 アニエスは、その影を見たまま言った。


「見た通りだよ」


「魔王、なのでしょうか」


「確認はこれからする」


 アニエスは答えた。


「だが、あなたたちが残って確かめる必要はない」


 兵士は唇を噛んだ。


「北、西、南の人々を守りなさい。東門には勇者リュシアンが残ると伝えて。避難する者たちを動揺させないように」


 勇者リュシアンが残る。

 その言葉だけが、胸の中で冷たく反響した。


「……承知しました」


 兵士は、ようやく頭を下げた。

 疑いが消えたわけではない。

 怖くなくなったわけでもない。

 ただ、東の森にある大きな影を見て、ここは自分たちが数で受ける場所ではないと理解したのだ。


「北へ槍兵を回せ! 西街道へ弓兵を! 南の避難路には術士を送る!」


 兵士が振り返る。声が走る。


「東門は勇者リュシアン様と、アニエス様方が引き受けられる! 動ける者は三方の救援へ向かえ!」


 その言葉が、人々の間を渡っていく。

 不安に揺れていた顔が、少しだけ変わる。

 安心したわけではない。

 けれど、勇者が残ると聞いて、逃げるための足を動かせる者が出てくる。

 子どもを抱いた女が、何度もこちらへ頭を下げながら兵士に導かれていった。

 杖をついた老人が、隣の者に肩を貸されて歩き出す。

 光の院の腕章をつけた男が、別の兵士とともに来た道を戻っていく。

 僕は、何も言えなかった。

 腕を切られたときとは違う。

 今度は、身体を切り取られていない。

 痛みもない。

 それでも、僕の姿が使われている。

 僕がここに立っているだけで、人々が逃げる。

 僕を信じて、別の場所へ向かう。

 それは昨日までのような嘘より、もっと重かった。

 嘘だと言い切れないからだ。

 僕がいなければ、人々は動けない。

 僕が勇者の姿でここに立つことで、救われる時間がある。

 そう分かってしまう。


「リュシアン」


 イリアが呼んだ。

 僕は東の森から目を離せなかった。

 黒い影は、まだ遠い。

 姿は見えない。

 けれど、さっきより少しだけ輪郭が大きくなっている。


「剣を抜け」


 イリアが言った。


「……使えません」


「知っている」


「じゃあ、どうして」


「兵がまだ見ている」


 息が止まった。

 イリアは僕を見なかった。


「抜くだけでいい。今はな」


 指が、剣の柄へ触れる。

 重い。

 一度も役に立たなかった剣。

 僕自身と同じように、勇者の形を作るためだけの剣。

 それでも、僕は鞘から引き抜いた。

 白い刀身が、曇った空の下で光を返す。

 遠ざかり始めた人々の中から、小さなどよめきが聞こえた。


「勇者様が……」


「東に残ってくださる」


「大丈夫だ。きっと……」


 大丈夫ではない。

 掌には光がない。

 剣は使えない。

 目の前の影が何なのかも、まだ知らない。

 それでも、白い剣を握って立つ僕を見て、人々は逃げていく。

 アニエスが、静かに息を吐いた。

 その息が初めて、少しだけ重く聞こえた。


「サリア。東門の術式を組み直しなさい。門を守るためではなく、ここから先へ通さないために」


「はい」


「イリア。私が合図するまでは動かないこと」


「分かった」


 そして、アニエスは僕を見た。

 何を言われるのか分からず、身体が強張る。


「君は――」


 彼女は一度だけ言葉を止めた。

 いつもなら、止めなかった。

 必要なことだけを、躊躇なく言う人だった。

 けれど今は、ほんの短い間、僕を見ていた。


「そこに立っていなさい」


 結局、言われたのはそれだけだった。

 戦えとも。

 光を出せとも。

 腕を差し出せとも言わなかった。

 ただ、立っていろと言った。

 それが、かえって怖かった。

 東の森で、また木々が沈んだ。

 今度は、黒い影の輪郭が少しだけ見えた。

 長い。

 森の奥を横切るように、太く、黒いものが動いている。

 兵士の一人が振り返り、その影を見た。

 足が止まりかける。

 けれど、すぐに歯を食いしばり、北へ向かって走り出した。

 勇者が残る。

 その言葉だけを信じるように。

 僕は剣を握ったまま動けなかった。

 右手の掌にはまだ何も灯っていなかった。


 ――白い建物の最上階。

 その東端にある部屋には、誰もいなかった。

 書斎のさらに奥。

 普段は閉じられている、小さな居室だった。

 広くはない。

 一人分の寝台。

 窓際の机。

 背の低い本棚。

 壁に掛けられた白の羽織。

 机の端には、細身の櫛と、小さな銀の留め具が並べられている。

 どれも華美とは程遠い。賢者と呼ばれる者の部屋にしては、あまりに物が少ない。けれど、使われていない部屋ではなかった。

 寝台の布は整えられているが、枕元だけがわずかに沈んでいる。

 机の上には読みかけの本が伏せられ、その隣に一人分の茶器が置かれていた。

 茶はすでに冷えている。

 杯の縁には、ほんの薄く唇の触れた跡が残っていた。

 窓辺には、小さな花瓶があった。

 白い花が一本だけ挿されている。

 花弁の先は少し下を向き始めていたが、水はまだ澄んでいる。

 今朝、誰かが替えたのだろう。

 夜になれば、またここへ戻ってくるつもりだったのだろう。

 けれど、部屋の主は戻らない。

 窓の外には、聖都ルミナの屋根が広がっていた。

 朝には白く輝いていた石造りの聖都は、もう同じ色ではなかった。

 陽は西へ傾き、屋根と屋根のあいだに長い影が落ちている。

 空はまだ明るい。

 けれど青さは薄れ、厚い雲の底にだけ、夕暮れの赤が滲み始めていた。

 一日が終わりへ向かっている。

 それなのに、聖都には眠りの前の静寂はなかった。

 遠くで警鐘が鳴っている。

 北から。

 西から。

 南から。

 窓を閉めた部屋の中では、その音さえ弱かった。

 けれど、完全には消えない。

 鐘の合間に、人の声が混じって届く。

 命令する声。

 子どもを呼ぶ声。

 荷車の軋む音。

 どれも遠く、何を言っているのかまでは分からない。

 窓から見下ろす聖都は、白く静かなままに見える。

 だが、その白い道の上を、小さな人影がいくつも動いていた。

 北へ向かう列。

 西へ急ぐ兵士。

 南側の道を、何かを運びながら進む者たち。

 東門の周囲だけが、少しずつ空いていく。

 つい先ほどまで人々が集まり、勇者の名を呼んでいた場所だった。

 今は、崩れた門の白い輪郭と、その前に残るわずかな影だけが見える。

 そこからさらに遠く、聖都の外には森があった。

 窓からでは、一本一本の木までは見えない。

 東の地平に沿って、濃い色の帯が横たわっているだけだった。

 その森の上から、鳥の群れが浮かび上がった。

 最初は、黒い砂が空へ舞ったように見えた。

 ひとまとまりだった影が急に散り、夕暮れの空へ細かくほどけていく。

 少し遅れて、窓硝子が小さく鳴った。

 机の上の杯に、薄い波紋が広がる。

 一度だけだった。

 しばらくすると、また鳥が上がった。

 今度は先ほどよりも多い。

 東の森の一部から、逃げるように空へ噴き出していく。遠すぎて、森の中で何が起きているのかは見えない。ただ、木々の連なりの一箇所だけが、不自然に揺れた。

 風で揺れたのではない。

 森の輪郭そのものが、一度だけ沈んだように見えた。

 そのあと、また地響きが届いた。

 先ほどよりも少し深い。

 床に置かれた花瓶の水が揺れる。

 白い花が、かすかに震えた。

 机の上の伏せられた本が、ほんの少しずれた。

 この部屋で、長い時間を過ごしてきた者がいる。

 同じ窓から、聖都の朝を見た日もあったのだろう。

 雪の降る夜を見た日も。

 魔王が現れず、警鐘も鳴らず、ただ花の水を替えて茶を飲み、何事もなく日が暮れるのを待った日もあったのかもしれない。

 その日々の終わりに、部屋の主はここへ戻ってきた。

 一人で。

 何年も。

 何十年も。

 人の一生がいくつ終わっても、同じ窓の前へ。

 窓際の椅子には、薄い羽織が掛けられたままだった。

 もう少し冷えれば肩にかけるつもりだったのかもしれない。

 茶器のそばには、乾きかけた小さな染みが一つ残っている。

 急いで部屋を出たというより、また戻ることを疑っていなかった部屋だった。

 地面が、もう一度鳴った。

 今度は、警鐘の音と重なっても分かるほどだった。

 本棚の上で、何冊かの背表紙がわずかに揺れる。

 東の森は、まだ遠い。

 そこを進んでいるものの姿は、窓からは見えない。

 ただ、先ほどまで滑らかだった森の上端に、わずかな乱れが生まれている。

 その乱れが、一度止まる。

 また進む。

 森の端で、鳥の影がさらに散る。

 窓硝子が鳴った。

 杯の茶が揺れた。

 白い花の茎が、花瓶の縁へ小さく触れた。

 その振動が、背の低い本棚へ伝わる。

 棚の奥に、他の本よりも深く差し込まれていた一冊があった。

 薄い灰色の革表紙。

 背には文字がない。

 周囲の本に隠れるように置かれていたそれが、ほんの少しだけ前へ滑った。

 止まる。

 部屋は、また静かになった。

 けれど、外から届く気配は消えていない。

 遠い森の輪郭が、もう一度沈んだ。

 今度の地響きは、部屋の静けさを保てるほど弱くなかった。

 窓枠が震えた。

 机の上の銀の留め具が、小さく転がった。

 花瓶の水が大きく揺れ、白い花が窓の方へ傾く。

 本棚の奥にあった一冊が、床へ落ちた。

 乾いた音がした。

 革表紙が開く。

 古びた頁が数枚めくれ、床の上で止まった。

 傾いた陽の光が、開かれた紙面へ細く差し込む。

 そこには、古い文字が記されていた。

 ――ナイトメア症 生存例記録。

 ――対象名 アニエス。

 ――侵食後、生存を確認。

 ――生存後、失踪。以降の記録なし。

 長いあいだ棚の奥に隠されていた記録は、誰に読まれることもなく、床の上で開かれていた。

 地響きが、少しずつ近づいていた。

 陽はもう、聖都の屋根の向こうへ落ちかけている。

 朝には白く輝いていた街並みも、今は長い影の中へ沈み始めていた。

 東の森は、夕暮れとともに黒く沈み、何が木々で、何がその奥を進んでいるのか、遠く離れたこの窓からは見分けられなかった。

 外の光が薄れるにつれて、窓硝子には部屋の内側が淡く映り始めた。

 空いた椅子。

 花瓶に残る白い影。

 床に落ちたままの記録。

 その映り込みの向こうに、崩れかけの東門と、そこに残る四つの影が見える。

 もう一度、地面が揺れた。

 硝子に映った花の影が、かすかに震える。

 遠い森に沈んだ暗がりが、またひとつ、聖都へ近づいていた――。

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