第32話 魔王を斬る刃
門を開ける。
アニエスの言葉に、近くにいた兵士が顔色を変えた。
「開ける……? あれを中へ入れるのですか」
「壊されれば群れごと入る。鎧猪だけを引き込む。通った瞬間に閉じなさい」
「しかし――」
「勇者の光で討つ」
その言葉が、周囲へ届いた。
空気が変わった。
「勇者様の……」
「光が……」
兵士たちの目が、僕へ向く。
違う。
僕は何もしていない。
光を出したわけではない。
ただ、腕を切られて、材料にされた。
それなのに、誰も知らない。
太い綱が引かれる。
亀裂の入った門がゆっくりと内側へ開いていく。
外の土埃が、隙間から吹き込んだ。
鎧猪の黒い顔が見えた。
胸の奥で、核が脈打っている。
「開いたぞ!」
兵士が叫ぶ。
鎧猪が吼え、門の隙間へ巨体をねじ込んだ。
地面が揺れる。
「閉じろ!」
人々が綱へ体重をかけた。
門が戻る。
鎧猪の後ろで、太い扉が激しくぶつかり合う。
外に残った狼たちが、門へ爪を立てた。
内側には、鎧猪の魔王だけが入った。
人々が後ずさる。
鎧猪の前には、光の剣を持ったイリアが立っていた。
白い刃が、薄暗い門内を照らしている。
「勇者様の光だ……」
誰かが呟いた。
その声が、胸へ突き刺さった。
鎧猪が頭を下げる。
イリアも剣を構えた。
巨体が地面を蹴る。
同時に、イリアが走った。
正面からぶつかるように見えた。
けれど、牙が届く直前、イリアの身体が低く沈む。
黒い牙が髪の上を通り過ぎた。
イリアは踏み込みを止めない。
白い刃が、鎧猪の首元から胸へ走った。
黒い殻が裂けた。
さっきまで矢も岩槍も弾いていた殻が、光の前で薄い皮のように開いていく。
鎧猪が悲鳴を上げる。
身体を振る。
巨大な牙がイリアの脇腹を掠めた。
イリアの身体が傾く。
「届かせろ!」
アニエスの声が響いた。
イリアが、さらに一歩踏み込む。
白い刃が胸の奥へ入った。
一瞬だけ、黒い核が見えた。
次の瞬間。
鎧猪の身体の内側から白い光が溢れた。
黒い殻の隙間が一斉に明るくなる。
巨大な身体が震え、足が折れ、重い音を立てて石畳へ崩れ落ちた。
光が、胸の核を焼いていく。
鎧猪は何度か身体を痙攣させた。
けれど、もう立ち上がらなかった。
沈黙が落ちる。
それから、門の内側で声が上がった。
「討った……」
「魔王を討ったぞ!」
「勇者様だ!」
「リュシアン様の光だ!」
歓声が、一気に広がった。
城壁の上からも、街路からも、同じ声が聞こえる。
「勇者様!」
「光よ、満ちろ!」
「光よ、満ちろ!」
僕は、その場から動けなかった。
右腕は戻っている。
指も動く。
傷はどこにもない。
それでも、切られた場所が焼けるように痛かった。
あの魔王を倒したのは僕ではない。
イリアが斬った。
サリアが光を留めた。
アニエスが決めた。
僕は、腕を切られただけだった。
けれど、人々は僕を見ていた。
僕の名前を呼んでいた。
勇者の勝利として。
「……まだ終わっていない」
アニエスの声が聞こえた。
歓声の中で、その声だけが冷たかった。
鎧猪の身体から白い光が消えていく。
黒い殻が崩れ、煤のようなものが石畳へ落ちる。
その崩れた身体の陰から細いものが這い出した。
黒い蛇だった。
小さな蛇。
けれど、その目を見た瞬間、肩口が熱くなる。
森で見た目だ。
蛇は、崩れた鎧猪の灰の上へ身体を持ち上げた。
「――なるほど」
小さな喉から、低い声が響いた。
歓声はまだ止まらない。
離れた場所にいる人々には、聞こえていないのかもしれない。
イリアが即座に剣を構えた。
サリアの顔色が変わる。
アニエスだけが、蛇を見ていた。
「喰わせられぬなら、切り取って刃にするか」
蛇が笑った。
僕の右腕が、また痛んだ。
「よく考えたものだ。小さな核なら、それでも焼けるらしい」
アニエスは答えない。
「だが」
蛇の目が、僕へ向いた。
「その程度の光で、私へ届くと思うなよ」
門の外で、狼たちが一斉に吼えた。
歓声に混じり、黒い声が聖都の壁を震わせる。
グレモルトは、まだ姿を見せていない。
それでも、もうここまで来ている。
僕は、戻った右手を握りしめた。
掌には光などない。
あるのは、切られた痛みと、フィルの冷たさだけだった。
アニエスの指がわずかに動くと、黒い蛇の身体が石畳の上で歪んだ。
細い骨が折れたのか、内側から潰れたのかは分からない。蛇は短く身を跳ね、そのまま黒い煤のように崩れた。
けれど、あの目に見られた感覚は残った。
歓声も、まだ消えていなかった。
鎧猪の魔王はもう動かない。
砕けた門の前に黒い巨体を沈め、胸の奥にあった核も、白い光に焼かれて消えている。
人々はそれを見ていた。
勇者リュシアンの光が、また魔王を討ったのだと信じていた。
「勇者様!」
「リュシアン様!」
「光の勇者様がまた守ってくださった!」
声が上がるたび、胸の奥が冷えていく。
僕の右腕はすでに形を戻していた。
指も動く。
皮膚の下を走っていた白い光も、今はほとんど見えない。
けれど、痛みだけは残っていた。
鎧猪の核へ届かせるため、切り取られ、刃の芯にされた右腕。
それを掲げて、人々は光だと喜んでいる。
誰も知らない。
さっきまで黒い灰のそばにいた蛇が何を見たのか。
グレモルトが何を知ったのか。
アニエスは歓声の中で動かなかった。
白い長衣の裾が風に揺れている。
頬には細い赤い線が走っていた。傷なのか、血なのか、遠目には分からない。ただ、鎧猪を止める前にはなかったものだった。
サリアがそれを見ていた。
イリアも、一瞬だけ視線を向けた。
けれど、二人とも何も言わない。
僕だけが、何を見ればいいのか分からなかった。
倒れた魔王か。
喜ぶ人々か。
戻った右腕か。
それとも、もう姿のない蛇が残した言葉か。
――不滅の勇者リュシアンは、次に私が殺す。
喉が乾いた。
そのとき、城壁の上で兵士が声を上げた。




