第30話 嫌です
「……嫌です」
声が出た。
アニエスが、ゆっくりと僕を見る。
「嫌です」
もう一度言った。
門の向こうで鎧猪が地面を削っている。
黒い牙の先が門へ向いた。
「僕は、もう嫌です」
右腕を左手で掴んだ。
「ガルヴァンの時も、何も知らないまま腕を切られた。森では噛まれた。戻るからって、痛くないわけじゃない。怖くないわけじゃない」
アニエスは何も言わない。
「生きて動けって言ったじゃないですか。喰われるためじゃなくて。使われるためじゃなくて。僕自身が光を使えるようにするって」
「言った」
アニエスの声は小さかった。
「だったら……」
「それでも、今は君の器が必要だ」
門が、低く軋んだ。
鎧猪が走る前の音だった。
脚が土を蹴る。
重い身体が、こちらへ向かって加速を始める。
「支えろ!」
兵士が叫ぶ。
僕は門を見た。
亀裂の入った支え棒。
倒れたまま運ばれていく男。
血の付いた石床。
この門の向こうには、聖都がある。
広場で水を運んでいた人たちがいる。
光の院から地下へ移された子どもたちもいる。
その中に、冷たい手をした小さな子どもの顔が、一瞬だけ浮かんだ。
それでも、嫌だった。
僕の身体だ。
勝手に切られていいものではない。
戻るから差し出せと言われて、すぐ頷けるものではない。
「……嫌に、決まってるじゃないですか」
声が震えた。
アニエスの表情が、初めて崩れた。
苦しそうに見えた。
「そうだね」
彼女は言った。
「嫌でいい」
鎧猪の巨体が、門へ迫る。
「アニエス様!」
「サリア、門の前を沈めて!」
アニエスの声が飛ぶ。
サリアが反射的に杖を構えた。
「土の精霊よ、深く呑み、重く縛れ!」
門の直前で、地面が沈んだ。
鎧猪の前脚が穴へ落ちる。
巨体が傾き、牙が門の片側へ逸れた。
それでも衝撃は凄まじかった。
門の端が砕ける。
木片が内側へ飛び、兵士の頬を裂いた。
支え棒が一本、完全に折れた。
その間にイリアが縄を伝って壁の上に戻ってきた。
「次は……ないぞ」
戻ってくるなりイリアが言った。
短い声だった。
けれど、剣を持つ手が白くなるほど握り締められている。
アニエスは、僕を見た。
「君の腕を――刃へ移す」
聞きたくなかった言葉が、はっきり耳朶を打った。
「切り離した器の光を、イリアの剣に留める。長くは持たない。核へ届かなければ消える」
「……それで、倒せるんですか」
「分からない」
また、その言葉だった。
「小さな核なら届く可能性はある。けれど、確実ではない」
「失敗したら?」
「門が破られる」
「成功したら?」
アニエスは、少しだけ目を伏せた。
「君は、また傷つく」
鎧猪が穴から脚を抜こうとしている。
黒い殻が軋み、土が崩れていく。
まだ時間はある。
ほんの少しだけ。
逃げようと思えば、逃げられるのかもしれない。
階段を下りて、白い服を脱いで、どこかへ走れば。
でも、その後ろには聖都がある。
僕が勇者だから守らなければならないのではない。
フィルがいるから。
カテリーナがいるから。
僕を見て立ち上がった人たちがいるから。
それでも怖い。
腕を差し出す手が、動かなかった。
「……僕は」
声が出なかった。
鎧猪が、穴から前脚を引き抜いた。
地面を踏む。
その時、下で誰かが叫んだ。
「勇者様がいる! まだ諦めるな!」
別の声が続く。
「門を支えろ!」
「リュシアン様が見ておられる!」
胸が苦しくなった。
見ているだけだ。
僕はまだ、何もしていない。
その声に応えるためではない。
勇者だと思われたいわけでもない。
それでも。
僕は、右腕を差し出した。
「……止めてください」
アニエスが、僕を見る。
「あれを――聖都の中へ入れないでください」
一瞬だけ、アニエスの瞳が揺れた。
「分かった」




