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光よ、満ちろ  作者: 織 航(しき わたる)


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第28話 賢者の力

 下には、狼の群れがいる。

 高さもある。

 それでも、イリアに躊躇いはなかった。

 剣を抜いたまま黒い群れの中へ落ちる。

 最初の狼が声を上げる間もなく裂けた。

 イリアはその身体を一度踏み、地面へ着地する。

 着地の瞬間、左右から二匹が飛びかかった。

 イリアは一匹目の牙を身体ひとつ分だけ外す。

 剣が下から跳ね上がり、狼の顎を裂いた。

 もう一匹には振り向かなかった。

 身体を半歩ずらし、背後へ剣を返す。

 黒い血が散った。

 速い。

 訓練場で木剣を向けられた時ですら僕にはほとんど何もできなかった。

 けれど、今のイリアはあの時よりさらに速かった。

 狼を置き去りにし、彼女だけが動いているように見える。


「門前を空けろ!」


 イリアが叫んだ。


「石を落とせ! 矢は左右へ流せ! 中央へ撃つな!」


 兵士たちが我に返ったように動く。


「イリア様が下にいる!」


「中央を避けろ!」


「石を落とせ!」


 大きな石が壁の上から落とされる。

 狼の背中へ当たり、身体が潰れる。

 矢が左右へ降る。

 術士たちの風が、イリアの背後へ回ろうとする狼の足をずらす。

 サリアの岩槍が、群れの外側を貫いた。

 門前の狼たちが、崩れていく。

 壁の上で声が上がった。

 押し返している。

 聖都が、本当に押し返している。

 そう思った。

 その時、左側の壁で悲鳴が上がった。


「登られた!」


 振り向く。

 三匹の狼が、壁の縁へ身体を乗せていた。

 一人の兵士が押し倒される。

 別の兵士が槍を向けるが、脚が震えている。

 サリアが杖を向ける。

 けれど、距離がある。

 イリアは門の下だ。

 アニエスがそちらを見た。

 杖はない。

 詠唱もない。

 ただ、細い指をわずかに下へ向けた。

 狼の身体が、石壁へ叩きつけられた。

 鈍い音が三つ、続けて鳴った。

 前脚が折れる。

 背中が沈む。

 剥き出しになった牙の奥から、声にならない息が漏れる。

 子どもが粘土を握り潰すように。

 見えない手が、狼の身体を無理やり歪めていた。

 胸が冷えた。

 森で見たものと同じだった。

 サリアの魔法とは違う。

 土も、風も、水も使っていない。

 ただ、そこにある身体が、アニエスの指先ひとつで形を変えられる。

 三匹の狼はそのまま壁の外へ投げ落とされた。

 一瞬、誰も声を出さなかった。

 けれど、すぐに誰かが叫んだ。


「アニエス様だ!」


「賢者様がついておられる!」


「まだ抜かれていない! 壁を守れ!」


 兵士たちが槍を拾う。

 術士たちが杖を構え直す。

 市民が、息を切らしながら矢束を渡していく。

 アニエスはそれ以上は力を使わなかった。

 目の前の群れではなく、その向こうを見ている。


「……戦わないんですか」


 僕は訊いた。


「戦っているよ」


 アニエスは答えた。


「でも、ここで全てを使うわけにはいかない」


「グレモルトのために?」


「そうだ」


 アニエスの声は低かった。


「あれは、まだ自分の牙すら見せていない」


 門の下では、イリアが狼を斬り続けている。

 兵士も、術士も、市民も戦っている。

 外では、アニエスの魔物たちも戦った。

 これだけ戦っている。

 それなのに、森から現れる黒い群れは途切れなかった。


「矢が足りない!」


 壁の下から声が上がる。


「西の倉庫から運べ!」


「もう運んでいる! 間に合わない!」


 術士の一人が、杖を地面へ突いたまま膝をついた。

 隣にいた女が肩を支える。


「休め!」


「まだ……壁が」


「倒れたら術式ごと消える!」


 別の場所では、槍を持った兵士が腕を押さえてうずくまっていた。

 赤い血が、白い石の上へ落ちている。

 押し返しているように見えた。

 けれど、こちらも削られている。

 その時、一匹の鳥型魔物が空から落ちてきた。

 黒い翼。

 片方が大きく裂けている。

 胸元には、牙で抉られたような穴が開いていた。

 城壁のすぐ外へ落ち、土の上で一度だけ翼を動かす。

 アニエスの視線がその魔物へ向いた。

 表情は変わらない。

 ただ、指先がわずかに曲がった。


「戻りなさい」


 小さな声だった。

 鳥型の魔物は、もう一度だけ翼を動かした。

 けれど、飛び上がることはできなかった。

 そのまま動かなくなる。

 アニエスはしばらく目を逸らさなかった。

 防衛圏の迎撃も、終わり始めている。

 そう思った時だった。

 狼たちの動きが変わった。

 ばらばらに壁へ取りついていた群れが一斉に止まる。

 低い唸り声だけを漏らし、同じ方向へ頭を向けた。

 門の正面へ。

 散っていた黒い身体がひとつの流れになる。

 門前で戦っていたイリアが、剣を構え直した。


「サリア!」


「はい!」


 サリアが杖を向ける。


「風の精霊よ、右を閉じ、左に大きく開け。前方の牙を逸らしなさい!」


 風が鳴った。

 イリアへ飛びかかろうとしていた狼の軌道が横へずれる。

 その隙に、イリアが後ろへ跳ぶ。

 壁の上から縄が落とされた。

 イリアは片手で掴み、白い石壁を蹴って上へ戻る。

 直後、狼の群れが門へ殺到した。

 轟音が響く。

 木の扉が震えた。

 門の内側で、支え棒を押さえていた男たちが呻く。


「押せ! 離すな!」


 二度目の衝撃。

 足元まで振動が伝わってくる。

 三度目。

 太い木が軋んだ。


「アニエス様!」


 階段を駆け上がってきた兵士が叫ぶ。


「北壁にも群れが現れました! 東へ兵を集めた隙を突かれています!」


「南は?」


「防衛圏の鳥型が残っていましたが、突破された個体が出ています!」


 アニエスは、わずかにも迷わなかった。


「東の術士一隊を北へ。予備兵を南へ回す。門前の弓は半数を残して」


「ですが、こちらが薄くなります!」


「そうしなければ聖都の中へ入られる」


 兵士は歯を食いしばり、頭を下げた。

 走り去る背中を見送りながら、アニエスは小さく息を吐いた。


「こちらの手を……一本ずつ外している」


「グレモルトが?」


「私がどこへ力を割くのかを見ている。聖都がどこから崩れるのかもね」


 門が、また揺れた。

 その瞬間、狼たちが左右へ退いた。

 不自然なほど、一斉に。

 道の中央に、黒く濡れた土が現れる。

 その奥から、別のものが歩いてきた。

 狼ではなかった。

 低く、巨大な身体。

 背中から頭にかけて、黒い殻のような皮膚が幾重にも重なっている。

 四本の脚は太く、地面を踏むたび土が沈んだ。

 口の両端から濁った牙が湾曲して伸びている。

 一本一本が人の胴ほども太い。

 猪に似ていた。

 けれど、森で獲物になる獣ではない。

 門を壊すために身体を作り変えられたような巨大な塊だった。

 胸の奥で、黒い光が脈打っている。


「核持ち……」


 サリアの声が震えた。


「魔王――ですか」


 僕は訊いた。


「小型のものだ」


 アニエスが答えた。


「小型……?」


 目の前のものは、城門の半分近い高さがある。

 兵士たちも、術士たちも、声を失っていた。


「門を破るために連れてきたか」


 アニエスの声が初めて僅かに硬くなった。

 鎧猪の魔王が頭を低くした。

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