表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
光よ、満ちろ  作者: 織 航(しき わたる)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

28/49

第27話 壁の上

 サリアとともに光の院を出ると、聖都の空気はもう変わっていた。

 城壁の方角から低い音が響いている。

 石を叩く音。

 兵士の叫び。

 遠くで魔物が吼える声。

 聖都の路を、水桶を抱えた人々が走っていく。

 布を抱えた女が光の院の方角へ駆けていく。

 震える手で矢束を運ぶ少年もいた。

 誰も、怖くないわけではない。

 それでも、動いている。

 僕は右手を見た。

 フィルの冷たさが、まだ掌に残っていた。

 けれど、光はない。

 訓練をしても。

 水盤へ手をかざしても。

 救えない子どもの手を握っても。

 何も灯らなかった。

 通りの先に、アニエスが立っていた。

 その後ろには、イリアがいる。

 イリアはすでに剣を抜いていた。

 アニエスは僕の手を見た。

 光がないことを確かめたのだと思った。

 けれど、何も言わなかった。


「行くよ」


 アニエスが言った。


「……僕は、まだ何もできません」


「知っている」


「光も出ません」


「それも知っている」


「それでも……行くんですか」


 アニエスは、ほんの短い間だけ黙った。

 遠くでまた魔物の咆哮が響く。

 壁の上から兵士の声が上がった。


「それでも――行くしかない」


 勝てるとは言わなかった。

 光が灯るとも言わなかった。

 ただ、アニエスは僕の前へ歩み寄った。


「進め」


 怖くても。

 何も持っていなくても。

 足を前へ出せと、そう言われている気がした。

 僕は、何も灯らない右手を握った。

 掌の中にはフィルの指の冷たさだけが残っている。

 そして、戦場へ向かって足を出した。


 東門へ向かう道には、もう祈る人の姿はなかった。

 広場ではあれほど人がこちらを見ていた。

 勇者様、と呼ぶ声があった。

 けれど、今は誰も足を止めない。

 水桶を載せた荷車が石畳を鳴らして走っていく。

 布を抱えた女が光の院の方角へ急ぐ。

 矢束を両腕で抱えた少年が、転びそうになりながら門へ向かっている。

 通りの脇では、店の板戸が外されていた。

 何をしているのかと思った。

 少し先で、外された板が積み重ねられ、低い防壁に変わっている。

 白い聖都が、戦うための形に変わっていた。

 僕は、アニエスの後ろを歩いていた。

 イリアは僕の右側にいる。

 サリアは少し前を歩き、杖に巻かれた細い布を何度も指で確かめていた。

 誰も喋らない。

 僕の右手には、まだフィルの指の冷たさが残っている気がした。

 ――僕だけじゃ、ないんですね。

 あの声を思い出すたび、胸の奥が苦しくなる。

 僕は何もしていない。

 光も出せなかった。

 治すこともできなかった。

 ただ怖いと答えただけだ。

 そのまま、戦場へ向かっている。

 東門が見えた。

 高い白壁の上に、兵士が並んでいる。

 弓を構える者。

 槍を壁際へ揃える者。

 二人がかりで大きな石を運ぶ者。

 その後ろには、兵士とは違う服装の者たちがいた。

 袖の短い長衣を腰紐でまとめ、杖を抱えた女。

 石板を床へ置き、膝をついて文様をなぞる男。

 数人の若い者へ、短く指示を出している年老いた男。


「……あの人たちは」


「術士隊です」


 サリアが答えた。


「城壁の補強と、侵入した魔物への牽制を担当します」


「魔法を使える人は、サリアさんだけじゃないんですね」


 サリアは、ほんの少しだけ視線を下げた。


「私一人で聖都を守れるなら防衛戦など必要ありません」


 責めるような声ではなかった。

 ただ、当たり前のことを言っただけだった。

 それでも、胸に刺さった。

 僕はどこかで、勇者と、その周りにいる強い三人が戦うのだと思っていた。

 聖都の人たちは祈って、助けられる側なのだと。

 違った。

 あの人たちも、魔物が来れば戦う。

 守られるのを待つだけではなく、自分の手で石を運び、矢を運び、壁へ立つ。

 

「アニエス様!」


 門へ続く階段から、兜を被った兵士が駆け下りてきた。

 額に汗が浮いている。


「聖都の東側に群れを確認しました。狼型が中心です。数は百を越えています。森からまだ増えています」


「防衛圏の迎撃は?」


「突破されました。ただ、傷を負った個体が多く見えます。鳥型の魔物も何体か群れの中へ食い込んでいます」


 アニエスは一度だけ目を伏せた。


「……そう」


 それだけだった。


「第一陣は壁で受ける。弓は近づくまで放たない。術士隊は土壁を優先。火は使わせないで」


「はっ」


 兵士が駆けていく。

 アニエスは、門の上へ続く階段へ足をかけた。


「行くよ」


 僕も続こうとして、足が止まった。


「僕も、上へ行くんですか」


「行く」


「でも……僕は」


 光も出せない。

 戦えない。

 もう何度も言った言葉だった。

 アニエスも知っている。


「壁の上なら人々から見える」


 アニエスは言った。

 何のために、とは訊かなくても分かった。


「……見せるために立つんですか」


「今はね」


 喉の奥が冷えた。

 イリアが僕の横を通り過ぎる。


「嫌なら下がれ」


「下がったら、どうなるんですか」


「勇者が逃げたように見える」


 返す言葉がなかった。

 僕は、階段へ足をかけた。


 城壁の上へ出た瞬間、強い風が吹いた。

 白い服の裾が鳴る。

 冷たい空気が頬を叩いた。

 壁の外には、広い道路が延びている。

 白い石を敷いた道は、途中から土に汚れ、その先で森へ呑まれていた。

 その森の手前に、黒いものが動いている。

 最初は影に見えた。

 けれど、影はひとつではなかった。

 木々の間から。

 道の端から。

 倒れた木の向こうから。

 獣の形をしたものが、次々に姿を現す。

 低い背中。

 四本の脚。

 開いた口から覗く牙。

 狼だった。

 森で見た狼の魔物と同じ形をしている。

 けれど、近づいてくる群れはひどく傷ついていた。

 片耳を裂かれたもの。

 脇腹を深く抉られ黒い血を垂らしながら走るもの。

 後ろ脚を引きずり身体を傾けながらも足を止めないもの。

 一匹の肩には、黒い羽根が突き刺さったまま残っていた。

 息を呑んだ。

 森で見た。

 アニエスが「集え」と言った時、空から降りてきた鳥型の魔物。

 狼たちへ爪を立て、嘴を突き立てていた黒い翼。


「外で……もう戦っていたんですか」


 声が掠れた。


「防衛圏の外縁ではね」


 アニエスは群れを見たまま答えた。


「私の側に残っているものが、迎撃に出ている」


「それでも、ここまで――」


「数が足りない。支配も薄くなっている。届かない場所が増えた」


 傷ついた狼たちがこちらへ進んでくる。

 外縁で何があったのかは見ていない。

 けれど、身体に残る傷だけで分かった。

 アニエスの魔物たちは戦った。

 止めようとした。

 それでも抜けてきたものが、今、聖都へ向かっている。

 一匹が、頭を低くした。

 次の瞬間、走り出す。

 それに続いて群れ全体が前へ出た。

 地面が震えた。


「弓、構え!」


 兵士の声が上がる。

 城壁の上で一斉に弓が持ち上がった。

 弦を引く音が、いくつも重なる。

 僕は壁の縁へ手を置いた。

 石は冷たい。

 なのに、掌には汗が滲んでいた。

 怖い。

 森では数匹に囲まれただけで動けなかった。

 今は、それよりずっと多い。

 傷ついているのに、止まらない。

 血を流しているのに、こちらへ来る。


「勇者様だ!」


 下の方から、声が上がった。

 門の内側で矢を運んでいた人たちが、こちらを見上げている。


「勇者様がいるぞ!」


「リュシアン様だ!」


 その声に、兵士の何人かもこちらを見た。

 強張っていた顔に、ほんの少しだけ力が戻る。

 僕は何もしていない。

 ただ、白い服を着て、壁の上に立っているだけだ。

 逃げたいと思った。

 僕を見ないでほしいと思った。

 僕を理由に、立ち上がらないでほしいと思った。

 この人たちが信じているものを僕は持っていない。


「前を見ろ」


 イリアが言った。

 短い声だった。

 僕は歯を食いしばり、壁の外へ視線を戻した。

 狼の群れが、さらに近づいてくる。


「まだだ!」


 兵士が叫ぶ。

 誰も矢を放たない。

 群れの足音が大きくなる。

 傷ついた脚で走る音。

 濡れた喉から漏れる唸り声。

 土を抉る爪の音。

 近い。

 そう思った瞬間、


「――放て!」


 弦が鳴った。

 矢が、一斉に空へ上がる。

 黒い影のように弧を描き、狼の群れへ降り注いだ。

 先頭を走っていた一匹が転がる。

 首に矢を受けた狼が、地面へ倒れる。

 肩を貫かれたものが体勢を崩し、その後ろから来た個体に踏みつけられる。

 何匹も倒れた。

 けれど、群れは止まらなかった。

 倒れた仲間を避けもしない。

 黒い身体を踏み越え、踏み潰し、そのまま前へ来る。


「二射目、準備!」


「術士隊、前へ!」


 兵士たちの後ろで、杖を持った者たちが一斉に動いた。

 石板へ手を置いていた男が、低い声で何かを唱える。

 その両脇にいた二人が、杖の先を壁の外へ向けた。


「土よ、起これ!」


 地面が盛り上がった。

 高い壁ではない。

 狼の胸へ当たる程度の、低く厚い段差だった。

 先頭の数匹が足を取られ、前のめりに転ぶ。


「風を合わせろ!」


 別の女が杖を振る。

 横から風が叩きつけた。

 転倒した狼の身体が土壁へぶつかり、後続の群れの足をわずかに止める。

 城壁の上で、声が上がった。


「止まったぞ!」


「矢を持ってこい!」


「押し返せる!」


 僕は息を呑んだ。

 戦えている。

 兵士も。

 術士も。

 この聖都の人たちも。

 けれど、サリアだけは表情を変えなかった。


「まだ、浅いです」


 サリアが杖を前へ出す。


「土の精霊よ、深く起こし、硬く締め、下より穿ちなさい。土の槍、螺旋」


 地面が割れた。

 低い土壁の向こうから、岩が突き上がる。

 ただ尖っているだけではない。

 表面を螺旋状に捻じりながら、細く硬く、先端へ力を集めるように伸びていく。

 走っていた狼の腹を、下から貫いた。

 一匹。

 二匹。

 三匹。

 黒い身体が宙へ持ち上げられた。

 後ろから走ってきた狼が、死体へ衝突して転がる。


「サリア様だ!」


「いけるぞ!」


 歓声に近い声が壁の上へ広がった。

 一瞬だけ、僕もそう思った。

 このまま、止められるのではないか。

 僕が何もできなくても、この人たちなら。

 けれど、森の端が揺れた。

 次の群れが現れた。

 道からだけではない。

 左右の木々の隙間から、黒い身体が何匹も飛び出してくる。

 土壁のないところへ。

 岩の槍が届かなかったところへ。

 こちらの攻撃を見て、空いた場所を選んでいるようだった。


「右壁へ来るぞ!」


 兵士の声が裏返る。

 数匹の狼が城壁の下へ駆け寄った。

 黒い爪が、白い石壁へ食い込む。

 普通の獣なら登れるはずのない高さを、狼たちは跳ねるように駆け上がってくる。


「槍!」


 兵士が身を乗り出して槍を突き出した。

 一匹の肩へ刺さる。

 狼の身体が揺れる。

 けれど、落ちない。

 狼は刺さった槍へ噛みついた。

 兵士の身体が、壁の外へ引かれる。


「うわあっ!」


 助けないと。

 そう思った。

 僕の右手が伸びる。

 けれど、遠い。

 間に合わない。

 銀色の線が、視界を横切った。

 壁へ取りついていた狼の首が落ちる。

 イリアだった。

 彼女は兵士の腕を掴み、壁の内側へ引き戻した。

 倒れ込んだ男が、息を吸う間もなく、もう一匹が縁へ前脚をかける。

 イリアはそれを見た。

 そのまま、城壁の縁へ足を乗せた。


「イリアさん……?」


 呼ぶより早く、彼女は飛び降りた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ