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光よ、満ちろ  作者: 織 航(しき わたる)


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第26話 ナイトメア症

 聖都の中央広場には、すでに大勢の人が集まっていた。

 兵士たちが道を空けようとしている。

 けれど、人の流れはまとまらない。


「何が起きた!」


「あの鐘は何だ!」


「勇者様はいるんだろう!」


「門を開けろ! 外へ出る!」


「外に出てどこへ行くんだ!」


 怒鳴り声が、石壁に反響していた。

 広場の端では、商人らしい男が店の戸を閉めようとしている。

 その前へ人が集まり、パンを売れ、水を出せと叫んでいた。

 小さな子どもを抱いた女が、流れに押されて転びかける。

 兵士が腕を伸ばして支える。

 別の場所では、荷車を引き出そうとした男と、それを止める兵士が揉み合っている。

 暴れているというより誰もが自分の逃げる場所を探していた。

 けれど、その場所はどこにもない。

 僕は広場へ続く階段の脇に立っていた。

 白い服を着ている。

 胸には勇者の紋章がある。

 それでも、誰も僕を見なかった。

 数日前には、同じ人たちが僕へ祈るように頭を下げた。

 勇者様、と呼び、僕が手を上げただけで安心したように笑った。

 今は、僕の姿など目に入っていない。

 当たり前だと思った。

 僕には何もできない。

 光も出せない。

 剣を握っても、誰も守れない。

 祈られるだけでは足りないのだ。

 今、この人たちが欲しいのは僕ではなかった。

 ざわめきが、さらに大きくなる。


「アニエス様はどこだ!」


 誰かが叫んだ。


「賢者様は何をしている!」


「防衛圏があるんじゃなかったのか!」


 その時だった。

 広場の正面にある白い階段の上へ、アニエスが姿を現した。

 大きな動きはなかった。

 白い長衣をまとい、ただ階段の中央へ立っただけだった。

 それでも、最初に気づいた誰かが息を呑んだ。


「……アニエス様」


 その名が、広場の中へ広がっていく。

 叫び声はすぐには消えなかった。

 泣いている子どももいる。

 店の戸を叩いていた男も、まだ肩で息をしていた。

 けれど、人々の顔がひとつずつ、階段の上へ向いた。

 僕の白い服を通り過ぎて。

 胸の紋章を通り過ぎて。

 皆が、アニエスを見た。

 アニエスは、ゆっくりと片手を上げた。

 その動きだけで、広場の騒めきが少しずつ低くなっていく。


「聞きなさい」


 大声ではなかった。

 けれど、不思議なほどよく通った。

 広場の端で泣いていた子どもまで、顔を上げたように見えた。


「大蛇の魔王グレモルトが来る」


 広場が再び揺れた。

 呻くような声。

 誰かの悲鳴。

 祈りの言葉。

 アニエスは止めなかった。


「外縁はすでに破られた。魔物の群れが聖都へ向かっている。今日、この聖都は戦場になる」


「そんな……」


「勇者様は!」


 誰かが叫んだ。


「勇者様が戻られたばかりじゃないか!」


 その声に、人々の視線が初めて僕へ向いた。

 一斉に見られる。

 胸が詰まった。

 僕は、何も答えられなかった。

 アニエスが口を開く。


「勇者は戦う」


 短い言葉だった。


「――だが、この聖都を守るのは勇者一人ではない」


 人々の視線が、再び彼女へ戻る。


「逃げたい者を責めはしない。だが、門の外に安全な場所はない。魔物はすでに聖都への道へ流れている。子どもを連れて外へ出れば、命を自ら捨てることになる」


 門を開けろと叫んでいた声が、止まった。


「この聖都は――魔王の前に初めて立つわけではない」


 アニエスは、広場を見渡した。


「あなたたちの父も、母も、その前の者たちも、聖都の壁の内側で生き残ってきた。兵士だけではない。壁を保つために、石を運んだ者がいた。火を消した者がいた。傷ついた者を運んだ者がいた。剣を持たずとも、この聖都を守った者がいた」


 兵士たちが静かに姿勢を正した。

 広場の端で、年老いた男が杖を握り直す。

 その隣で、店の戸を閉めかけていた商人が、手を止めた。


「戦える者は壁へ向かいなさい。弓を扱える者は西の倉庫で受け取りなさい。水を運べる者は井戸へ。布を持つ者は光の院へ。子どもと病人は地下避難区へ移す」


 アニエスの声は揺れなかった。


「恐怖を恥じる必要はない。けれど、恐怖のまま潰し合う必要もない」


 広場は静かだった。

 誰も安心した顔などしていない。

 けれど、人々は少しずつ動き始めた。

 怖さが消えたわけではない。

 誰もが青ざめた顔をしている。

 子どもを抱えた女は泣いていたし、門の方を何度も振り返る男もいた。

 それでも、さっきまで広場を満たしていた声は、もう逃げ場所を探すための叫びではなかった。 


「水桶はこちらへ運べ!」


「子どもと病人は南の地下区画へ!」


「布のある家は光の院へ持ってこい!」


 兵士たちの声に、市民が応じていく。

 井戸の方へ走る者。

 店の戸を開け、保存食を運び出す者。

 荷車から積み荷を下ろし、負傷者を運べるように整える者。

 聖都が、戦う体制へと変わっていく。

 僕は階段の脇に立ったまま、その光景を見ていた。

 数日前には、同じ人たちが僕を見て歓声を上げた。

 勇者様、と呼び、僕が手を上げただけで泣いて喜んだ。

 けれど、今、人々を動かしたのは僕ではない。

 アニエスだった。


「見ている暇はない」


 隣でイリアが言った。


「……みんな、慣れているんですね」


「慣れているわけではない」


 イリアは広場へ目を向けたまま答えた。


「怖くても、何をすればいいかは知っているだけだ」


「前にも……こんな戦いが?」


「魔物が外縁を越えたことはある。小さな群れなら、兵が止め、市民が支えてきた」


「アニエスが全部倒していたわけじゃないんですか」


 イリアは少しだけ黙った。


「あの人だけがすべてを背負っているわけではない。守られるだけでは、守る者が倒れた日に終わる」


 イリアはそれだけ言った。

 階段の上ではアニエスが兵士たちへ短く指示を飛ばしている。

 地図が開かれ、何人かの兵が頷いて散っていく。

 あの小さな身体で。

 あの静かな声で。

 勇者ではなく。

 僕ではなく。

 彼女のもとで。

 この聖都は、ずっと立ってきたのだ。


「リュシアン様」


 サリアが近づいてきた。


「出撃の前に、光の院へ向かいます」


「光の院へ?」


「決まりです。勇者は、大きな戦いの前には必ず院を訪れます」


 胸が重くなった。

 フィル。

 カテリーナ。

 あの子たちの前へ、また勇者として立つのか。


「今から行く必要があるんですか」


「あります」


 サリアの答えは静かだった。


「地下へ移される子どもたちの中には、勇者様を見ることで落ち着ける者もいます。戦える者だけが、この聖都の民ではありません」


 救えない相手の前で、救う者の顔をする。

 そのことに、身体が拒むように重くなる。

 けれど、断る言葉もなかった。


「……分かりました」



 光の院は、前に訪れた時とはまるで違っていた。

 静かだった廊下を人が行き交っている。

 白い寝台が次々に運ばれ、毛布や薬草の束が積まれていた。

 白い服を着た女たちが、短い声を交わしながら子どもたちを起こしている。

 地下避難区へ移す準備なのだと、すぐに分かった。

 僕が入ると、近くにいた子どもが顔を上げた。


「勇者様……」


 その声に、いくつかの視線がこちらへ向く。

 泣いていた子が泣き止んだ。

 寝台に座っていた少女が胸元で手を組む。

 僕は何もしていない。

 立っているだけだった。

 それでも、この姿には意味があるらしい。


「勇者様」


 聞き覚えのある声がした。

 廊下の奥に、カテリーナが立っていた。

 前よりも顔色が悪い。

 両手で、寝台の端を握っている。

 その寝台に、フィルが横たわっていた。

 小さかった身体が、さらに小さく見えた。

 布団の上に出ている手は細く、指先にほとんど色がない。


「フィルは……」


 大丈夫なのか、と続けることはできなかった。

 大丈夫に見えるはずがない。

 カテリーナは、頭を下げようとした。

 僕は慌てて手を上げる。


「――いい。今は、そんなことしなくていい」


 右手が視界に入った。

 ガルヴァンの口へ投げ込まれた手。

 狼の魔王に噛まれ、また戻った手。

 人々には祝福の手に見えるらしい手。

 フィルの傍にいた白い服の女が、静かに言った。


「これから地下へ移します。揺らしたくはありませんが、地上に残すことはできません」


「病気は……」


 声が掠れた。


「何の病気なんですか?」


 白い服の女は、一度だけカテリーナを見た。

 カテリーナは俯いたままだった。


「ナイトメア症です」


「ナイトメア……」


「闇の精霊が、人の身体の内側へ入り込む病です。初めは熱や悪夢として現れ、やがて身体が冷え、動けなくなり、生きる力そのものを奪っていきます」


 闇の精霊。

 その言葉が、胸の中で重く沈んだ。


「……治せないんですか?」


 カテリーナは黙ったままだった。

 答えないことが、答えだった。


「勇者の光でも?」


 自分の右手を見ながら聞いた。


「光が届けば闇だけが消える、というものではありません」


 白い服の女は静かに言った。


「この子の身体の深いところまで闇が入り込んでいます。無理に消そうとすれば、フィルの命そのものが先に失われます」


 何も言えなかった。

 僕が光を使えないから救えないのではない。

 光が使えたとしても、救えない。


「……生き残った人は、いないんですか」


 カテリーナが、顔を伏せたまま小さく息を呑んだ。

 白い服の女はしばらく黙っていた。


「一人だけ生き残った者がいたと伝わっています」


「……一人だけ」


「古い口伝です。名も、どうして生き残ったのかも残っていません。治療法として受け継がれたものではありません」


「じゃあ、フィルは――」


 声が続かなかった。

 白い服の女は、ゆっくりと首を横へ振った。


「私たちにはこの子を治す方法がありません」


 カテリーナの手が、寝台の端を強く握った。

 それでも彼女は泣かなかった。

 泣かないようにしているのだと分かった。


「知っていたんですか?」


 僕は訊いた。


「治らないって」


「……はい」


「それなのに、僕に会わせたんですか」


 責めるつもりはなかった。

 けれど、声が思ったより硬くなった。

 カテリーナは、しばらく答えなかった。


「治してもらえるとは……思っていませんでした」


 ようやく出た声は、小さかった。


「でも、フィルはずっと怖がっていたんです。眠るのも、身体が冷たくなるのも、次に目が覚めないかもしれないことも」


 カテリーナは、フィルの手へ自分の手を重ねた。


「勇者様がいるなら……この子が死ぬまでの間だけでも、この世界には怖いものしかないわけじゃないって、思えるかもしれないって」


 喉の奥で、息が詰まった。

 治してほしかったわけではない。

 助からないことを覆してほしかったわけでもない。

 ただ、死んでいく弟に、最後まで絶望だけを見せたくなかった。

 そのために、僕を呼んだ。

 勇者を。

 僕は、フィルの顔を見た。

 閉じていた瞼が、わずかに動いた。


「……勇者、様」


 細い声が漏れた。


「フィル」


 カテリーナが身を屈める。

 僕も寝台の横へ膝をついた。


「――聞こえる?」


 カテリーナの声にフィルは返事をしなかった。

 ただ、ゆっくりと僕の方へ顔を向けた。


「……行くん、ですか」


「うん」


「魔王の……ところへ」


「うん」


 フィルは浅く息を吸った。


「……怖く、ないですか?」


 問われて息が止まった。

 グレモルトの名を思い出しただけで、右肩の奥が疼いた。

 牙。

 切られること。

 光が出ないまま戦場へ立たされること。

 また何もできない自分を見ること。

 その全部が、喉の奥で固まった。言葉にしようとしても術式が声になるのを阻んだ。

 答えられずにいると、フィルが小さく息を吐いた。


「僕も……怖いです」


 フィルが呟くと、カテリーナの肩が震えた。


「眠るのも……怖い」


 掠れた声だった。


「でも……勇者様も、怖いなら」


 そこで一度、息が止まる。


「僕だけじゃ……ないんですね」


 右手が動いた。

 つい反射的に。

 僕は、フィルの手の上へ自分の手を重ねた。

 冷たかった。

 光は出ない。

 暖めることもできない。

 治すこともできない。

 それでも、手を引くことはできなかった。


「僕も……怖いよ。ずっと」


 フィルは目を閉じた。

 奇跡は起きなかった。

 光も灯らなかった。

 けれど、重ねた手の下で、小さな指がわずかに動いた。


「リュシアン様」


 後ろから、サリアの声がした。


「時間です」


 僕は、ゆっくりと手を離した。

 カテリーナが僕を見る。

 何かを言おうとして、言えない顔だった。


「……行ってきます」


 僕は言った。

 勇者としてなのか。

 僕自身の言葉なのか。

 自分でも分からなかった。

 カテリーナは、深く頭を下げた。


「お願いします」


 何を、と聞くことはできなかった。

 フィルを救ってほしいとは、彼女の口からは出ない。

 それでも、彼女は僕へ願うしかない。

 その願いが、ひどく重かった。

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