第25話 昔の私なら
部屋を出ようとした時、廊下の向こうからイリアの声が聞こえた。
「定着は?」
足を止める。
扉が、少しだけ開いていた。
向こうに、アニエスがいるらしい。
「浅いままだよ」
アニエスの声だった。
「反応は、昨日より長く残りました」
サリアが言った。
「長く残っただけだ。扱えてはいない」
短い沈黙が落ちた。
「――間に合うのですか」
サリアの声が、僕の前で話していた時より低かった。
返事は、すぐには来なかった。
「間に合わせるしかない」
アニエスが答えた。
「アニエス様なら、グレモルトを――」
サリアの声が途切れる。
「私なら何とかできると、まだ思っているのかい」
アニエスの声は、怒っているようには聞こえなかった。
「……思っています」
答えたのは、イリアだった。
「あなたが決めるなら、私は従う」
「私もです」
サリアが続ける。
「アニエス様が、勇者を無意味に死なせるはずはありません」
長い沈黙が落ちた。
「無意味には、か」
アニエスが小さく呟いた。
「……そう言わせている時点で、私がしてきたことも随分なものだね」
「アニエス様、それは――」
「責めているわけじゃない。君たちをそうさせたのは、私だ」
僕は、扉の外で動けなかった。
「では、どうする?」
イリアが言った。
「リュシアンの定着が間に合わなければあなたがグレモルトを止めるのか」
返事はなかった。
答えないのではない。
答えられないのだと思った。
「……定着を急がせる」
しばらくして、アニエスが言った。
「それしかない」
「アニエス様なら……勝てるのではないのですか」
サリアの声だった。
また、沈黙。
「昔の――私ならね」
その言葉だけが、はっきり聞こえた。
僕は廊下で息を止めた。
イリアもサリアも、アニエスなら何とかすると信じていた。
けれど、アニエス自身はそう思えていない。
僕は、音を立てないように扉の前から離れた。
右手を握る。
掌には、まだ何も灯っていなかった。
その後も、光は灯らなかった。
水盤の底で白い点が揺れることはあった。
けれど、それは僕が望んで出した光ではない。
気づいた時には灯っていて掴もうとした瞬間には消えている。
イリアの木剣も、まともには避けられなかった。
右肩へ向かう一撃に身体が完全に固まらなくなった。
倒れても以前より少しだけ早く立てるようになった。
変わったことがあるとすれば、それくらいだった。
「死んだ」
木剣が胸の前で止まる。
「また死んだ」
脇腹に打撃が入る。
「足を止めるな」
立ち上がる。
何度繰り返しても、グレモルトを倒せる姿など想像できなかった。
サリアは、水盤の前で毎日同じように記録を取った。
「反応はあります」
「使えるんですか」
「まだ、使えるとは言えません」
その答えも、変わらなかった。
アニエスは、毎日僕の手首に触れた。
冷たい指が離れるたび同じ言葉を聞いた。
「まだ浅い」
日数だけが減っていった。
そして、その朝。
鐘が鳴った。
一度ではなかった。
低く、重く、間を置いて何度も続く。
パレードの日に鳴っていた鐘とは違った。
祝う音ではない。
胸の奥を叩き、身体を無理に起こすような音だった。
僕は寝台から身を起こした。
扉の外が騒がしい。
走る足音。
短く交わされる声。
金属が触れ合う音。
扉が開いた。
立っていたのはサリアだった。
「来てください」
「……とうとう来たんですか」
「はい。グレモルトの軍勢が、防衛圏の内側へ入りました」
サリアは、ほんの少しだけ目を伏せた。
「もう……戦うんですか」
「まずは聖都へ知らせます」
「――知らせる?」
「隠したままでは防衛できません」
廊下の先で、また鐘が鳴った。
僕は右手を見た。
掌には、何もない。




