第24話 何もないわけではない
昼を過ぎると、サリアのもとへ連れていかれた。
水盤の置かれた部屋は、三日間で見慣れたはずだった。
中央の机も、水の底に沈む透明な石も、昨日までと何も変わっていない。
違って見えたのは、部屋ではなく、その向こうに立つサリアだった。
この人も、サリアという名を継いだのだろうか。
勇者の真実を知らされ、それでも僕をこの水盤の前へ座らせているのだろうか。
「サリアさんも……名前を継いだんですか」
サリアの手が、わずかに止まった。
「イリアから聞かれたのですね」
「はい」
「最初のリュシアンのことも?」
「聞きました」
サリアは少し黙り、静かに頷いた。
「……そうです。サリアも、代々継がれてきた名です」
「最初のサリアは、生身の勇者リュシアンと一緒に戦った魔法使いだったんですね?」
「はい」
「この器の術式を作った人ですか」
「大部分を組み上げた人です」
サリアは、水盤の前へ杖を置いた。
「座ってください。見ながら話します」
僕は言われるまま腰を下ろした。
サリアが杖の先を水面へ向ける。
「水の精霊よ、静かに集い、面を整えなさい」
小さな声に応えるように水面の揺れが消えた。
鏡のように、僕の右手を映し出す。
「私の精霊魔法は、外にいる精霊へ働きかけるものです。杖に刻まれた簡易術式で道を作り、言葉で形や方向を与えます」
「森で使っていた土や風も?」
「同じです。土は、その場にあるものを使えます。風は、向きを変えるのに向いている。必要な形に応じて、外の精霊へ働きかけます」
サリアは杖を、今度は僕の手の影へ向けた。
「けれど、勇者の術式は違います」
サリアが杖の先を水面に映る僕の手へ向けた。
「あなたの器の内側を水面に映します」
水の中で、僕の手の影が淡く揺れた。
その手の影の内側に細い白い線が浮かび上がる。
一本ではない。
幾重もの線が重なり、指から手首へ、さらに腕の奥へと続いているように見えた。
「これが、あなたの身体そのものに刻まれた回路です。器の形を保つ。損傷を戻す。光を巡らせる。魂を留める。魔王の核へ光を届ける。これは、外にいる精霊へ呼びかける術式ではありません」
「これが……僕の身体の中に」
「はい」
自分の右手を見る。
見た目は、人間の手だった。
けれど、その内側には、僕の知らない線が何本も走っている。
「全部、最初のサリアが作ったんですか」
「読める部分の多くは」
「読める部分?」
サリアの杖の先が白い線の中央へ移った。
そこだけは、線になっていなかった。
光が滲んでいる。
何かがあるのに光に覆われていて形として見えない。
「中心に解析できない部分があります」
「それが、光を使えない理由ですか」
「正確には、そこが何に反応して動くのか、私たちには分かっていません」
「――作ったのに?」
思わず言った。
「作ったのに、分からないものを、僕の中に入れているんですか」
サリアは、すぐには答えなかった。
「器を作ったのは、アニエス様お一人ではありません」
「でも、アニエスが作ったと言っていました」
「器を必要とし、光の精霊を集め、成立させようとしたのはアニエス様です。ですが、術式として組んだのは最初のサリアでした」
「じゃあ、この読めない部分は?」
「私たちが作ったものではありません」
サリアは、静かに言った。
「最初のリュシアンにあったものです。読み取ることも、同じ形で作り直すこともできない。だから、器の中心に残したまま、使い続けてきました」
水の中で形を結ばない光だけが揺れていた。
分からないものを、分からないまま使っている。
それでも、この人たちは止めなかった。
急に、背筋が冷たくなった。
「……サリアさんも、勇者を信じていたんですか」
サリアの指が、杖の上で止まった。
「はい」
静かな答えだった。
「本当に?」
「幼い頃、光の院で勇者リュシアン様を見たことがあります」
僕は息を止めた。
「光の院で……」
「病人や孤児の前を歩き、何人かの子どもへ手を置いていかれました。私も、あの方の帰還を祈った一人です」
昨日の光の院が浮かんだ。
白い寝台。
フィルの細い身体。
カテリーナの下げた頭。
僕が、何の意味も分からないまま上げた右手。
「それで……真実を聞いたんですか」
「名を継ぐ日に」
「勇者が、魔王に喰わせるための器だって?」
「はい」
「……壊そうとは思わなかったんですか」
サリアは、水面を見た。
「思いました」
その答えに、僕は顔を上げた。
「なら……どうして?」
「壊したあとに、何を置けばいいのか分からなかったからです」
「何を置くって……」
「勇者の器がなければ魔王を倒せない。勇者の帰還を信じている人々へ真実だけを伝えても、魔物から守れるわけではありません」
サリアの声は、静かなままだった。
「私は、嘘を終わらせることより、その嘘で生き延びている人たちを失わないことを選びました」
昨日の光の院が浮かんだ。
白い寝台。
フィルの細い身体。
カテリーナの下げた頭。
僕が、何の意味も分からないまま上げた右手。
勇者でも、フィルの病は治せない。
カテリーナも、それを分かっていたのだと思う。
それでも、彼女は僕へ頭を下げた。
あの二人へ、勇者は嘘だと言えば何が変わるのだろう。
フィルは治らない。
あの細い身体が、元気に走り回ることもない。
それでも。
だからといって、僕が喰われることまで正しいとは思えなかった。
「ガルヴァンの前で僕の腕が切られた時は――」
僕は聞いた。
「止めようとは思わなかったんですか」
「思いました」
サリアは答えた。
「けれど、止めませんでした」
「どうして」
「止めれば、ガルヴァンを焼き切れないと判断したからです」
逃げるような言い方ではなかった。
「私は、あなたが怖がっていることを知りながら、魔王を倒す方を選びました」
サリアは謝らなかった。
許してほしいとも言わなかった。
そのことが、かえって苦しかった。
「サリアさんは、名を継いで長いんですか」
「いいえ」
サリアはかすかに首を振った。
「私も、まだ長くはありません。まだ先代のように、多くの勇者の帰還を支えてきたわけではありません」
「それでも、僕を使った」
「はい」
「……これからも?」
サリアは、すぐには答えなかった。
「必要なら――そうすると思います」
やがて、彼女は言った。
「ですが、グレモルトには同じ方法は通じません」
「だから僕が光を使えるようになる必要がある」
「はい」
「間に合わなかったらアニエスが何とかするんですかね」
「……私には、あの方を信じるしかありません」
「どうして、そこまで信じられるんですか」
サリアは、水盤の中の光を見た。
「……信じていなければ、私は何のためにこの名を継いだのか、分からなくなるからです」
「何のために……?」
「アニエス様にも答えがないのなら……私たちは、ただ勇者を喰わせ続けてきただけになる」
声は穏やかなままだった。
けれど、それまで聞いたどの言葉よりも弱く聞こえた。
イリアは手が止まらなければいいと言った。
サリアは信じたいと言った。
二人とも、真実を知らなかったわけではない。
真実を知ったあとに、そこへ立つことを選んだ。
僕には、それが理解できなかった。
勇者を信じていたのなら。
騙されていたと知ったのなら。
どうして壊す側ではなく、続ける側へ立てるのか。
「手を――水面へ」
サリアが言った。
僕は右手をかざした。
掌の奥へ意識を向ける。
腕を切られた時の熱。
狼の牙。
フィルの声。
イリアの木剣。
サリアの、信じたいという言葉。
白い点が、水の底で一瞬だけ灯った。
前よりも少しだけ、長く残った。
けれど、消えた。
「……これで、足りるんですか」
「足りません」
サリアは答えた。
「ですが、何もないわけではありません」




