第23話 平気である必要はない
やがて、サリアは言った。
「けれど、アニエス様が何も考えておられないとは思っていません」
「アニエスなら――どうにかできると?」
「……そう信じています」
サリアは神妙な面持ちだった。
僕が喰われるか、生きるか。
この身体がどう使われるか。
全部、あの人が決めるのだ。
夕方、アニエスは僕の手首に触れた。
「光は灯ったそうだね」
「一瞬だけです」
「そう」
「サリアさんは、反応があるって言いました」
「灯ることと、扱えることは違う」
「でも、昨日よりは……」
「それだけでは足りない」
アニエスの声は初日よりわずかに低かった。
「グレモルトは、君の光が灯るまで待ってはくれない。器を喰う必要がないと知った以上、次に試す時間もない」
「……勝てないんですか」
聞いてから、自分の声が震えていることに気づいた。
アニエスはすぐには答えなかった。
その沈黙が、初めて怖かった。
「君が光を扱えなければ勝ち筋がひとつ消える」
勝てないとは言わなかった。
けれど、勝てるとも言わなかった。
それまで、アニエスは迷わない人だと思っていた。
何を聞いても、冷たく答える。
何を見ても、動じない。
けれど今、その声の奥に、初めて何か固いものがあるように思えた。
その夜、部屋へ戻されても、すぐに横になる気にはなれなかった。
机の前に座り、右手を開く。
今日、確かに光った。
ほんの一瞬。
息を呑んだだけで消えてしまうほど小さな点だった。
けれど、なかったわけではない。
なら、もう一度くらい出せるはずだ。
掌へ意識を向ける。
呼吸を整える。
力を入れすぎないようにする。
何も起きない。
もう一度。
水盤の底に浮かんだ白い点を思い出す。
掌の奥に同じ場所を探す。
何も起きなかった。
「……何なんだよ」
声が漏れた。
僕の身体には、勇者の術式が刻まれているという。
魔王を焼くための光があるという。
なのに、僕には何も分からない。
木剣の避け方も。
この身体の使い方も。
光の出し方も。
最初から中にあると言われているのに、僕だけが外に置かれているようだった。
「光れよ」
掌へ言った。
何もない。
「あるんだろ……」
指が震えた。
狼の牙が浮かぶ。
肩を噛まれた時、光は出た。
僕が何かをしたわけでもないのに勝手に溢れた。
なら、また噛まれなければ駄目なのか。
また身体を壊されなければ、光は出ないのか。
胃の奥が縮んだ。
それでも、手を下ろせなかった。
もう一度。
もう一度だけ。
灯りの輪郭が、少しずつ滲んでいく。
指に力が入らなくなる。
寝台へ移ろうとしたはずだった。
けれど、次に気づいた時には、机へ腕を置いたまま意識が落ちていた。
「起きなさい」
肩へ触れられ、身体が跳ねた。
「……っ」
目を開ける。
灯りは消えていた。
机に伏せたまま眠っていたらしく、右腕が痺れている。
アニエスが、すぐ横に立っていた。
「自分で試したのかい」
「……はい」
「灯った?」
「いいえ」
「そう」
また、それだけだった。
その言い方に、急に腹が立った。
「こんなことをして本当に意味があるんですか?」
アニエスがこちらを見る。
「毎日、剣で打たれて、水の上に手を置いて、浅いって言われて。それで何が変わるんですか」
「少しは身体が動くようになった」
「少しです」
声が大きくなった。
「グレモルトが来るんでしょう。もう三日も過ぎたのに、僕は木剣だってまともに避けられない。光も出せない。そんなことを続けて、本当に間に合うんですか」
「間に合わせるために続けている」
「もっと効率のいい方法はないんですか」
僕は右手を握った。
「この身体には、勇者の術式が刻まれているんですよね。だったら、それを教えてください。どう動かせばいいのか。どう光を出せばいいのか。最初から中にあるなら、僕がこんなことを繰り返さなくても――」
「教えて済むなら、初日から教えている」
アニエスの声は静かだった。
僕は口を閉じた。
「勇者の術式は、言葉で覚える魔法ではない。器の内側に刻まれている。君の魂が器へ深く定着すれば身体が理解し始める」
「身体が……」
「光の流し方も、再生の感覚も、器の内側にある道も。今の君は、この身体を傷つけられるためのものとしてしか見ていない」
「だって、実際にそう使われたじゃないですか」
「そうだね」
アニエスは否定しなかった。
「けれど、君がこの身体を拒み続ける限り、光は君の意志では動かない」
「受け入れろってことですか」
「使いなさい」
アニエスは言った。
「奪われた身体でも、与えられた名前でも構わない。今、君が立っている場所から君自身の意志で動かしなさい」
「どうやって?」
「分からない」
まただった。
「そんなものに――どうやって間に合わせるんですか」
「恐怖を越えなさい」
アニエスは言った。
「痛みを思い出すたびに身体を閉ざし、死を考えるたびに足を止めていては、魂は器へ深く入れない」
「怖いものは……怖いです」
「なら、越えるしかない」
「そんな簡単に言わないでください」
声が掠れた。
「僕は、また喰われるのが怖い。殺されるのも怖い。この身体を壊されるのも、また誰かに必要だからって使われるのも怖い」
アニエスの表情は動かなかった。
「簡単かどうかは関係ない」
彼女は言った。
「怖がったままではグレモルトは倒せない」
冷たい言葉だった。
慰める気など、最初からないのだと思った。
「イリアが待っている」
アニエスは扉へ向かった。
「立てるなら、来なさい」
僕は机に置かれた右手を見た。
何も光っていない。
それでも、立つしかなかった。
訓練場へ入ると、イリアはすでに木剣を持っていた。
僕の顔を見ると短く言う。
「ひどい顔だな」
「少し……眠れなかったので」
「――そうか」
それだけだった。
すぐに足元へ木剣が投げられた。
拾う。
右手の痺れが、まだ少し残っていた。
「構えろ」
木剣を身体の前へ出す。
イリアが踏み込む。
肩が動く。
腰が沈む。
来る。
身体を横へずらした。
けれど、足が遅れ、木剣が脇腹へ当たった。
「死んだ」
砂へ倒れる。
「立て」
立ち上がる。
もう一度。
今度は胸に当たった。
「死んだ」
立ち上がる。
右肩へ木剣が向く。
反射的に身体が固まった。
衝撃が入る。
イリアがため息をついた。
「また死んだ」
その言葉が、急に耐えられなくなった。
「……イリアさんは」
息を切らしながら言った。
「ずっと――こういうことをしてきたんですか」
イリアは木剣を下ろさなかった。
「ずっとではない」
「でも、ガルヴァンの時は……」
「この名を継いだ時から、必要になればそうすると決めていた」
「名を継いだ時……?」
「イリアは、勇者リュシアンに付き従う剣士の名だ。私の前にもイリアがいた。その前にもいる」
木剣を持つ手から、力が抜けそうになった。
「じゃあ、あなたの本当の名前は――」
「名を継ぐ時に捨てた」
「どうして――そんなことを」
イリアは、すぐには答えなかった。
「真実を知らされたからだ」
「真実?」
「不滅の勇者リュシアンは、一人の人間が生き続けているわけではない。光の精霊で作られた器へ魂を入れ、魔王を討つために運用されてきた」
「それは……知っています」
知っている。
腕を切られた。
魔王に喰われた。
身体が戻った。
知らないはずがなかった。
「お前は、自分の身体で知った。私は……名を継ぐ日に先代から聞かされた」
イリアの声は低かった。
「だが、それ以前には器ではない本物の勇者がいた」
「器ではない……?」
「最初のリュシアンだ」
僕は息を止めた。
「最初の……リュシアン?」
「五百年前に生きていた、生身の人間だ。最初のイリアと、最初のサリアが付き従った勇者だった」
自分の胸元を見る。
この身体。
この名前。
人々が叫んでいた、勇者リュシアン。
それは最初から器の名前ではなかった。
五百年前に生きていた誰かの名前だった。
「じゃあ、僕は……」
「その人間の名を継がせるために作られた器へ入れられた」
イリアは言った。
「そして私も、その勇者の隣にいた剣士の名を継いだ」
手の中の木剣が重くなる。
けれど、胸に引っかかったのは、僕の名前のことだけではなかった。
「……最初から、そういうものだと思っていたんですか?」
「何がだ」
「勇者が、喰われるための器だってことです」
イリアは答えなかった。
その沈黙で、分かった気がした。
「違うんでしょう」
自分でも、なぜそう思ったのかは分からなかった。
「あなたも、勇者を信じていたんじゃないんですか」
風が、砂の上を薄く撫でた。
「――信じていた」
イリアは言った。
思っていなかった答えだった。
「幼い頃は、不滅の勇者リュシアンがいる限り、人は魔王に負けないと思っていた。剣を持つなら、いつかその隣に立ちたいとも思った」
「それなのに……」
喉が詰まった。
「真実を聞いたのに、どうしてそっちに立てるんですか」
「そっち?」
「勇者を使う側です」
言った瞬間、右腕が冷たくなった。
「騙されていたんでしょう。信じていた勇者が、本当は魔王に喰わせるための器だったって知ったんでしょう。それなのに、どうして僕の腕を斬れるんですか」
イリアは、木剣を下ろさなかった。
「真実を知ったからだ」
「分かりません」
「勇者が嘘でも、魔王は消えない」
イリアの声は低かった。
「私が信じていたものが壊れても、聖都の外で死ぬ人間は減らない。魔王に村を焼かれ、街道で喰われ、光の院へ運ばれる者も消えない」
光の院。
その言葉に、フィルの顔が浮かんだ。
「だから続けるんですか」
「だから――継いだ」
「自分が騙されていたのに?」
「信じていたからこそ、真実を知ったあとに逃げることはできなかった」
理解できなかった。
イリアが最初から僕を道具として見ていたのなら、まだ分かった。
そういう人なのだと思えばよかった。
けれど、違う。
この人も、勇者を信じていた。
聖都の人たちと同じように、不滅の勇者を希望だと思っていた。
その希望が嘘だと知らされた。
勇者が、魔王へ喰わせるための器だと知らされた。
それでも、この人は剣を置かなかった。
僕を斬る側へ立った。
そのことが、腕を斬られた事実とは別の怖さを持って、胸の奥へ落ちてきた。
「……平気だったんですか」
ようやく、それだけが出た。
「平気である必要はない」
返事は短かった。
「手が止まらなければ、それでいい」
僕は、何も言えなくなった。
「このまま、僕が光を使えなかったら……」
しばらくして、聞いた。
「どうするんですか」
「――アニエスが決める」
イリアは、ためらわずに答えた。
「あなたも、あの人に任せるんですか」
「勇者の器を作ったのは私ではない」
「でも、戦うのはあなたでしょう」
「命じられれば戦う。守れと言われれば守る。斬れと言われれば斬る」
イリアは木剣を構え直した。
「何を使い、何を捨ててグレモルトを倒すかを決めるのは、私ではない」
それは信頼のようにも聞こえた。
けれど、同時に、何かをアニエスへ預けてしまった人の言葉にも聞こえた。
「最初のリュシアンは……どんな人だったんですか」
「私は会ったことがない」
「じゃあ、誰が知っているんですか」
イリアは少しだけ黙った。
「アニエスに聞け」
アニエス。
あの人は知っている。
五百年前に生きていた、本物の勇者リュシアンを。
「――構えろ」
イリアが言った。
「まだやるんですか」
「知っただけで、身体が動くようになるなら苦労はしない」
僕は木剣を握り直した。
イリアが踏み込む。
木剣ではなく、彼女の肩を見る。
腰が沈む。
足が砂を擦る。
イリアの木剣が右肩へ向かう。
牙の感触が脳裏にまた過る。
身体が縮みかける。
けれど、今度は足が止まらなかった。
木剣が肩をかすめる。
その直後、頭上から振り下ろされる。頭に当たる寸前で木剣がぴたりと止まった。
「……今のは」
「死んでいる」
イリアは言った。少しの間を置いて、続ける。
「だが、止まらなかった。一度は避けた」
少しだけ彼女が笑った気がした。




