第22話 灯らない光
その夜、部屋へ戻された時には、聖都の祝いの声もほとんど聞こえなくなっていた。
狭い石造りの部屋だった。
寝台と、小さな机と、壁際に置かれた灯り。
それだけしかない。
僕は寝台の縁に座り右手を開いた。
傷はない。
指も動く。
肩にも、狼の魔王に噛まれた跡は残っていない。
それでも、右肩へ意識を向けた瞬間、身体が強張った。
牙の感触が戻ってくる。
噛みつかれ、身体の内側から白い光が弾けた感覚。
そのあと、蛇の小さな目の奥から僕を見ていたグレモルトの声。
――不滅の勇者リュシアンは、次に私が殺す。
僕は右手を握った。
生きて動いてもらう。
アニエスはそう言った。
喰われるためではなく。
死んで戻るためでもなく。
生きて動く。
当たり前の言葉のはずなのに、どうすればいいのかは分からなかった。
掌を見つめる。
森で溢れた光は、どこにもない。
試しに、指を開いてみた。
何も起きなかった。
もう一度やろうとして、やめた。
身体が重かった。
森へ行き、狼の魔物に囲まれ、肩を噛まれ、聖都へ戻り、人々の前を歩き、光の院へ行った。
フィルの声が、まだ耳の奥に残っている。
――痛く、ないですか。
僕は右手を胸元へ置き、寝台へ横になった。
眠れるとは思わなかった。
けれど、いつの間にか意識は落ちていた。
扉を叩く音で目が覚めた。
「起きているかい」
アニエスの声だった。
「……はい」
身体を起こすと扉が開いた。
アニエスは、昨日と変わらない白い色の長衣を着ていた。
眠ったのかどうかも分からない顔で、僕を見る。
「今日から始める」
彼女は言った。
「イリアが身体を見る。サリアが術式と精霊の反応を見る。私は、器と魂の定着を確認する」
「それで……光を使えるようになるんですか」
「そのためにやる」
「使えるようになるかは……分からない?」
「――そうだ。分からない」
迷いのない返事だった。
僕は寝台から足を下ろした。
石の床は冷たかった。
「グレモルトが来るまでに間に合わなかったら……?」
「間に合わないまま戦うことになる」
アニエスはそれだけ言って、部屋を出た。
励ます気はないらしい。
できると信じているわけでもない。
必要だから、やらせる。
できなければ、そのまま戦場へ出す。
僕は右手を一度握り、彼女のあとを追った。
訓練場は、白い建物の奥にある小さな中庭だった。
四方を高い石壁に囲まれ、地面には薄く砂が敷かれている。
朝の空気は冷たく、砂の上にはまだ夜の湿り気が残っていた。
イリアは中央で待っていた。
鎧は身につけていない。
黒い上衣に革の靴。腰には剣を帯びているが、手に持っているのは木剣だった。
足元にもう一本の木剣が置かれている。
「――拾え」
言われるままに、木剣を拾う。
「構えろ」
「……構え方が分かりません」
「足を開け。剣を身体の前へ出せ」
言われた通りにする。
「足幅が広い」
少し戻す。
「今度は狭い」
「……どっちなんですか」
「身体に合った動きやすい幅を自分で探せ」
そんなことを言われても、分からない。
木剣を持っているだけで肩にも腕にも余計な力が入る。
「剣を覚えたらいいんですか」
「剣で勝てるようにする時間はない」
イリアは木剣を軽く持ち上げた。
「立つ。避ける。倒れる。起きる。お前が覚えるのは、それだけだ」
「それで――グレモルトに勝てるんですか」
「勝てない」
即答だった。
胸の奥が冷える。
「だが、立ち尽くして死ぬよりはましだ」
次の瞬間、イリアの木剣が動いた。
肩に衝撃が入る。
「ッ……!」
足がついてこない。
僕は砂の上へ片膝をついた。
「今ので死んだな」
「いきなり何をするんですか」
「魔物は待たない」
イリアはもう一度木剣を構えた。
「立て」
肩が熱い。
それでも立ち上がる。
二度目は脇腹だった。
避けようとした時には、もう当たっていた。
「また死んだ」
「……速すぎます」
「速くない。お前が遅い」
森で狼が飛びかかってきた時のことが浮かんだ。
僕は剣を抜いた。
抜いただけだった。
足は動かなかった。
もう一度、木剣が来る。
今度は下がろうとして、足を滑らせた。
背中から砂へ落ちる。衝撃が身体中に奔る。痛い。
「後ろへ倒れるな」
イリアは淡々と言った。
「致命傷を避けろ。倒れても起きろ。お前が一歩でも動ければ、こちらが間に合うことがある」
こちら。
僕を守る側。
そして、必要なら僕の腕を斬る側。
僕は木剣を握り直した。
午前のあいだ、何度も打たれた。
肩。
胸。
脇腹。
脚。
右肩へ木剣が向かうたび、身体が固まった。
昨日の出来事が頭に戻ってくる。
傷はないのに、身体だけが先に怯える。
「――そこだ」
イリアが言った。
「お前は、打たれる前から肩を庇っている」
「……仕方ないでしょう」
「仕方ないまま死ぬつもりか」
木剣の先が、右肩の手前で止まった。
「痛みを忘れろとは言わない。だが、痛みに身体を奪われるな」
その日の訓練は、それで終わった。
避けられなかった。
木剣を振ることすらなかった。
ただ打たれ、倒れ、起き上がっただけだった。
昼を過ぎると、サリアのもとへ連れていかれた。
石造りの小さな部屋だった。
中央の机に浅い水盤が置かれ、その底には透明な石がひとつ沈んでいる。
「右手を――水面の上へ」
言われた通りに掌をかざす。
「何をすればいいんですか」
「森で弾けた光を思い出してください。この石に光を灯らせるのです」
掌の奥を探る。
けれど、浮かんでくるのは光ではなかった。
狼の牙。
蛇の目。
グレモルトの声。
水面は動かない。
「呼吸をしてください」
サリアに言われ、初めて息を止めていたことに気づいた。
息を吐く。
水面が少し揺れた。
それだけだった。
「……できません」
「今日は、反応を見るだけです」
「これで本当に分かるんですか」
「何も起きないことも、必要な確認です」
それ以上、サリアは何も言わなかった。
ただ、水盤の底に沈む透明な石を見ていた。
夕方、アニエスが僕の手首に触れた。
指先は冷たかった。
皮膚ではなく、身体の内側を確かめられているような感覚がした。
「まだまだ浅いな」
短い言葉だった。
「定着が浅いと、どうなるんですか」
「傷ついても器は戻る。けれど、君が光を扱えない」
「……どうすれば深くなるんですか」
「まずは、その身体を動かすことだ」
アニエスは手を離した。
「借り物として怯えているうちは魂は器へ深く定着しない」
僕は自分の右手を見た。
借り物。
その通りだと思った。
腕を切られても戻る身体を、自分のものだと思えるはずがなかった。
それで初日は終わった。
何もできるようになった気はしなかった。
けれど、まだ一日目だった。
数日あれば、少しくらい変わるのかもしれない。
その時は、まだそう思えた。
二日目も、ほとんど変わらなかった。
イリアの木剣は少しだけ見えるようになった。
けれど、見えたからといって避けられるわけではない。
「死んだ」
肩に当たる。
「また死んだ」
胸に当たる。
「いつまで死に続けるつもりだ」
足を払われ、砂の上へ倒れる。
同じ言葉だけが積み重なっていく。
昼には、サリアのもとで水盤に掌をかざした。
水面が一度だけ、ほんのわずかに揺れた。
「今のは――」
「……反応かもしれません」
「かもしれない?」
「まだ、そう言えるほど強くありません」
サリアは記録板へ何かを書き込んだ。
僕には、何も起きなかったようにしか見えなかった。
夕方、アニエスはまた言った。
「浅いままだね」
――三日目。
イリアの木剣を、初めて真正面からは受けなかった。
胸へ向かってきた木剣を見て、身体を横へずらした。
避けきれず、腕を打たれ、砂の上へ倒れる。
「今のは……」
息を切らしながら見上げる。
「死んではいる」
イリアは言った。
「だが、昨日よりはましだ」
それだけだった。
褒められたわけではない。
けれど、初めて違いを認められた。
嬉しいと思うには、あまりにも小さな進歩だった。
昼、サリアの水盤の底で、白い点が一度だけ灯った。
掌の下。
水の奥。
目を凝らさなければ見落とすほど小さな点だった。
「あ……」
息を呑んだ瞬間、光は消えた。
「少しだけ光りました」
「はい」
サリアは小さく頷いた。
「反応はあります」
「使えたんですか」
「いいえ。まだ、反応しただけです」
「じゃあ……何が変わったんですか」
サリアは答えなかった。
代わりに、記録板へ短く何かを書き込む。
その横顔は、初日からほとんど変わらない。
焦っているようにも見えない。
困っているようにも見えない。
「……間に合わなかったら、どうなるんですか」
僕はおそるおそる聞いた。
サリアの手が、記録板の上で止まった。
「アニエス様が判断されます」
「また、アニエスですか」
「私には――そう答えるしかありません」
「怖くないんですか」
自分でも、責めるような声になっているのが分かった。
「僕が何もできないままでもグレモルトは来ます。今まで魔王を倒してきた方法を使えないんですよ」
サリアはすぐには答えなかった。
水盤の中で、僕の掌の影だけが揺れている。
「……怖くないわけではありません」




