第21話 七日
「グレモルトが来る」
最初にアニエスはそう言った。
僕は顔を上げる。
「いつ……ですか」
「早ければ七日。遅くても十日以内」
あまりにも迷いのない言い方だった。
「どうして分かるんですか?」
訊かずにはいられなかった。
アニエスの指が地図の端へ動く。
そこには、聖都から遠く離れた山脈と、深い谷の印があった。
「グレモルトの領域を知っているからだよ」
「領域……」
「魔王は、ただ歩いてくるわけじゃない。自分の闇を広げながら進む。どこから来るか。どこまで広げられるか。どれだけの魔物を連れてこられるか。それは魔王ごとに癖がある」
アニエスの指が、山脈から森へ、森から聖都の外縁へ線を引くように動いた。
「蛇の使い魔がここまで届いていた。なら、もう外縁には触れている」
僕は地図を見た。
線で引かれた距離は遠い。
けれど、遠いというだけで安心できるものではなかった。
「グレモルトは、今日の魔王みたいに……僕を喰わないんですよね」
「喰わない」
アニエスが答える。
「今日、見たからね」
見た。
その言葉で、蛇の目を思い出した。
「じゃあ、僕は……」
何をすればいいんですか。
そう言おうとして喉が止まった。
もし喰われないなら。
勇者は、僕は、何の役に立つ。
「今までのやり方は使えない」
アニエスが言った。
静かな声だった。
「光を扱えるようになってもらう」
「昨日も……できませんでした」
僕は顔を上げた。
「一度は灯った」
「すぐ消えました」
「それでいい」
アニエスは淡々と言う。
「まずは、灯ったことを忘れないことだ」
光。
掌の奥にあった小さな点。
すぐに消えた。
でも確かに、あった。
「グレモルトが来るまでに使えるようになるんですか」
「分からない」
アニエスは答えた。
分からない。
また、その言葉だった。
「でも、やるしかない。グレモルトは喰わない。なら、喰わせるための勇者では勝てない」
アニエスの目が、まっすぐこちらを向いた。
「君には、生きて動いてもらう」
生きて。
その言葉が、少し遅れて胸に届いた。
使われるためではなく。
喰われるためではなく。
死んで戻るためでもなく。
生きて動く。
当たり前のことのはずなのに、ひどく遠く聞こえた。
「明日から始める」
アニエスがそう言うと、イリアが口を開いた。
「身体は私が見る」
「身体……ですか」
「剣に限った話ではない」
イリアは短く言った。
「動けない身体では器も魂も噛み合わない。まずは立つ。避ける。倒れる。起きる。自分の身体がどこにあるのかを覚えろ」
僕は黙って頷いた。
昨日、狼が来た時。
僕は動けなかった。
剣は抜いた。
でも、それだけだった。
「術式と精霊の反応は、私が確認します」
サリアが続けた。
「リュシアン様の中で光がどう動くのか。外の精霊がどう応えるのか。そこを見ます」
アニエスは地図から目を離さない。
「私は――器と魂の定着を見る」
器。
またその言葉。
けれど今度は、さっきほど冷たく聞こえなかった。
僕は自分の右手を見た。
戻った手。
手を振った手。
フィルの前で上げた手。
何も光らなかった手。
その奥に、昨日の小さな光があった気がした。
グレモルトが来る。
七日。
遅くても十日。
その間に、僕は何かをしなければならない。
怖かった。
何が一番なのか、自分でも分からなかった。
喰われる痛みか。
誰の目にも届かない場所で殺されることか。
それとも、また僕の身体だけが先に使われ、僕自身だけが置き去りにされることか。
けれど、光の院のフィルが言った声を思い出した。
痛く、ないですか。
その言葉を噛みしめるように、僕は手を握った。
「……分かりました」
声は震えていた。
イリアが少しだけ目を細める。
サリアは何も言わない。
アニエスだけが、静かに頷いた。
その夜、聖都の外ではまだ人々が勇者の帰還を祝っていた。
でも、石造りの奥の部屋では、もう次の魔王の話が始まっていた。




