第20話 祝われる帰還
東門の転移陣の上に、僕たちは戻っていた。
兵士たちが一斉に膝をつく。
術士たちが息を呑む。
門の向こうから、ざわめきが広がっていく。
「お戻りになったぞ!」
誰かが叫んだ。
その声が、大通りへ走っていく。
僕はまだ、うまく立てていなかった。
足の裏が石畳についているのに、身体だけが森に残っているようだった。
肩に手をやりかける。
傷はない。
布も破れていない。
噛み砕かれたはずの場所は、何もなかったように戻っている。
でも、感触はある。
牙が食い込んだ場所。
肉が裂けた場所。
そこから光が弾けた感覚。
「顔を上げろ」
イリアが低く言った。
僕は反射的に顔を上げた。
門の外に、人が集まり始めていた。
兵士だけではない。
商人。
職人。
子ども。
年寄り。
光の院へ向かう途中だったのか、白い布を巻いた人たちもいる。
みんな、こちらを見ていた。
僕ではない。
勇者リュシアンを見ていた。
「魔王は?」
誰かが言った。
アニエスが短く答える。
「退けた」
それだけだった。
一瞬、静かになる。
次の瞬間、歓声が上がった。
「リュシアン様!」
「勇者様だ!」
「魔王を退けられた!」
「光の加護を!」
声が大通りへ広がる。
さっきまで森にあったグレモルトの笑いが、別の音に塗り潰されていく。
祝福。
歓声。
安堵。
どれも、僕には重かった。
僕は何をした。
狼に襲われた。
剣を抜いた。
何もできなかった。
肩を噛まれた。
喰われた。
それで、狼魔王は消えた。
また同じだ。
僕は戦っていない。
勝っていない。
なのに、人々は笑っている。
「歩け」
イリアが言った。
その言葉に、足が動いた。
東門から大通りへ出る。
出陣の時と同じ道だった。
けれど、空気は違う。
朝の祈りではなく、今は帰還の歓声だった。
人々は道の両側に並び、僕を見る。
手を振る者もいた。
膝をつく者もいた。
泣いている者もいた。
誰かが花を投げた。
白い花だった。
石畳に落ち、僕の足元で揺れる。
踏みそうになって、少しだけ足をずらした。
「リュシアン様!」
子どもの声がした。
反射的に右手が動きかける。
けれど、止まった。
この手で何をする。
手を振るのか。
祝福の形を作るのか。
サリアが半歩後ろにいた。
声はかけない。
けれど、僕が立ち止まりそうになるたび気配が少し近づく。
進め。
そう言われている気がした。
光の院の前で、列が少し緩んだ。
白い門の前には人が集まっていた。
前に来た時よりも多い。
病人。
孤児。
魔物に傷つけられた人。
働けなくなった人。
誰かの肩を借りて、どうにか立っている人。
その中に、カテリーナがいた。
小さな身体でフィルを支えている。
フィルの顔色は悪かった。
前よりも、少し白い。
それでも目だけは開いていた。
僕を見ていた。
足が止まりそうになる。
カテリーナが頭を下げた。
深く。
何度も。
違う。
そう思った。
僕は、頭を下げられるようなことをしていない。
フィルが小さく手を上げた。
その手は細かった。
力が入っていない。
でも、僕へ向けられていた。
昨日、この手に残っていたのは焼けるような熱だった。
魔王の口の奥で弾けた白い光。
自分のものだったはずの腕が自分から離れていく感覚。
けれど今、思い出すのはフィルの体温だった。
弱くて、少し熱くて、すぐに消えてしまいそうな熱。
それなのに、なかなか消えなかった。
僕は右手を上げた。
胸の高さまで。
それだけだった。
フィルが、ほんの少し笑った。
声は出なかった。
でも、その笑顔を見た瞬間、喉の奥が痛くなった。
勇者は嘘だ。
でも、この子たちが勇者を必要としていることまで嘘ではない。
そのことが苦しかった。
光の院の奥へ通された。
凱旋の列は門の外で止まった。
中へ入ったのは、僕とイリアとサリア。
少し遅れて、アニエスも入ってきた。
院の中は、外の歓声が嘘のように静かだった。
白い布。
薬草の匂い。
古い木の床。
咳を押し殺す音。
小さな祈り。
僕は祭壇の前に立たされた。
そこには、小さな皿に白い花が置かれていた。
帰還を示す花だと、サリアが小さく説明した。
勇者リュシアンが魔王討伐の前後に光の院を訪れる。
それは、ずっと続いている儀礼なのだという。
治すためではない。
救うためでもない。
聖都がまだ守られていると示すため。
それだけだ。
それだけなのに、院の人々は僕を見る。
僕の中に何かがあると信じている。
僕が戻ったから、今日も聖都はあるのだと信じている。
「右手を」
サリアが小さく言った。
僕は右手を祭壇の上へかざした。
何も起きない。
光は出ない。
昨夜、掌の奥に一瞬だけ灯った小さな点は、今はどこにもなかった。
それでも、人々は祈った。
誰かが小さく言う。
「光よ、満ちろ」
その言葉が胸に落ちる。
光なんて、満ちていない。
僕の中にはまだ、恐怖しかない。
牙の感触。
蛇の声。
肩を噛まれた時の熱。
自分がまた道具として使われたという感覚。
それでも、祈りは止まらなかった。
僕は手を下ろした。
儀礼が終わる。
カテリーナがフィルを支えながら近づいてきた。
「おかえりなさいませ」
カテリーナが言った。
その言葉に、息が詰まった。
おかえり。
帰ってきた。
僕は帰ってきたことになっている。
「……ただいま」
声は小さかった。
カテリーナは顔を上げる。
少し驚いたような顔をして、それからまた頭を下げた。
フィルは僕を見ていた。
「勇者様」
細い声だった。
「……痛く、ないですか」
僕は一瞬、言葉を失った。
誰もそんなことを聞かなかった。
人々は勝利を喜んだ。
兵士たちは膝をついた。
サリアは術式を確認した。
イリアは歩けと言った。
アニエスは戻ると言った。
でも、この子だけが痛いかと聞いた。
「……痛くないよ」
迷った末に声をしぼりだす。
嘘だった。
傷はない。
けれど痛みはある。
「大丈夫だよ」
フィルは少しだけ安心したように目を細めた。
その顔を見て、僕はもう何も言えなくなった。
光の院を出る頃には、外の歓声は少し遠くなっていた。
けれど、聖都全体がまだ浮き立っているのが分かった。
魔王は退けられた。
勇者は戻った。
そういう日なのだ。
僕にとっては、違った。
グレモルトに見られた日。
グレモルトに殺すと言われた日。
そして、アニエスが何かを隠していると、はっきり分かった日だった。
その夜、白い部屋に戻されることはなかった。
通されたのは石造りの奥まった部屋だった。
大きな机があり、その上に地図が広げられている。
壁には灯りがいくつも揺れていた。
窓はない。
外の歓声は聞こえなかった。
イリアが扉の近くに立つ。
サリアが地図の横に立つ。
アニエスは椅子に座らず、机の前に立っていた。
地図には、聖都ルミナを中心にした円が描かれている。
その外縁。
今日、僕たちが行った森のあたりに、黒い印が置かれていた。
アニエスはその印を見ていた。




