第19話 次に私が殺す
そのとき、石の隙間で何かが動いた。
黒い灰の向こう。
崩れた壁の裏。
もう一匹の蛇が、静かに頭をもたげた。
大きさも、形も、さっき斬られた蛇とほとんど同じだった。
その目の奥にあるものも同じように思えた。
蛇が違っても、こちらを見ているものは変わらない。
「――なるほど」
さっきと同じ声だった。
死んだはずの蛇が喋ったのではない。
別の蛇を通して、同じものが喋っている。
サリアの顔色が変わる。
イリアが剣を構えた。
アニエスが、初めてわずかに目を細めた。
「保険くらい、用意するさ」
蛇が言った。
「蛇は目にすぎぬ。目を一つ潰して、私を退けたつもりか」
僕は地面に座り込んだまま蛇を見ていた。
グレモルトは――見ていた。
僕が噛まれるところを。
狼魔王が光で焼けるところを。
アニエスが、それを止めなかったところを。
蛇が笑った。
低い笑いだった。
それは次第に大きくなり、森の湿った空気に響いた。
「二百五十年か」
蛇の声が、黒い灰の上を這った。
「二百五十年、我らは餌に毒を盛られていたわけだ」
アニエスは答えない。
「勇者リュシアン。喰えば力を得る。そう信じた魔王は、どれほどいた?」
蛇は笑い続ける。
「だが、違った。力ではない。核へ届く光だ。器そのものが、魔王を内側から焼くように作られている」
蛇の目が、僕ではなくアニエスへ向いた。
「面白い仕組みを作ったな、エルフの賢者」
その言葉には、侮蔑があった。
人々が敬意を込めて呼ぶその名を、グレモルトはわざと汚すように口にした。
まるで、その名がアニエスの本当の姿ではないと知っているように。
アニエスの表情は動かない。
森の空気がさらに重くなった。
「……それにしても、弱くなったな」
グレモルトが言った。
「人の守り手など演じ続けるからだ。かつての貴様なら、この程度の魔王に外縁を踏ませはしなかった」
アニエスは何も言わない。
その沈黙が、答えのようだった。
「だが、これで分かった」
蛇が頭を高くもたげる。
「勇者は喰わぬ。喰わせもせぬ。雑兵の牙にも触れさせぬ」
勝ち誇った声だった。
「エルフの賢者よ、聖都ルミナに告げよ」
蛇の目がこちらを見る。
小さな黒い穴の奥に、別の何かがいた。
そこから、僕を見ている。
「不滅の勇者リュシアンは、次に私が殺す」
喉の奥が冷えた。
殺す。
喰うのでも、奪うのでもない。
その言葉だけが、やけにはっきりと残った。
「不滅の勇者の首は、私のものだ。誰の目にも分からぬ場所で、私の牙だけが届く場所で殺してやる」
遠くにいるはずの魔王の笑いが、蛇の小さな喉を通って森に響いている。
イリアの手が、剣の柄を握り直す。
サリアは何も言わない。
ただ、杖を持つ指が白くなっていた。
アニエスだけが、表情を変えなかった。
「よく喋るね」
「――嬉しくてな」
蛇が笑った。
「二百五十年だ。不滅の勇者などという厄介なものをようやく葬れる」
「……来るなら来なさい」
アニエスが言った。
声は静かだった。
けれど、その静けさが怖かった。
「あなたが聖都へ辿り着く前に、こちらも準備する」
「準備?」
蛇の口が歪む。
「今さら何をする。人の守り手。エルフの賢者。弱くなった貴様が」
森の空気が重くなる。
僕には、それが風なのか、魔力なのか、怒りなのか分からなかった。
ただ、息がしづらい。
「――黙りなさい」
アニエスが呟いた。
その瞬間、蛇の身体が潰れた。
音は小さかった。
枝の上で黒い線がねじれ、乾いた葉のように崩れる。
血は出なかった。
ただ、闇を含んだ煤のようなものが、さらさらと地面に落ちた。
声は消えた。
けれど、終わった気がしなかった。
森の奥で、鳥型の魔物たちが鳴いている。
狼の魔物の死骸は、黒い霧を吐きながら崩れていく。
地面にはサリアの土槍がいくつも突き立っていた。
湿った土。
折れた枝。
黒い毛。
血に似た匂い。
焼けた闇の匂い。
僕の肩には、もう傷はない。
けれど、牙の感触だけは消えなかった。
「――戻る」
アニエスが言った。
イリアが周囲を見た。
「残りは……?」
「鳥が片づける」
アニエスは短く答えた。
鳥型の魔物たちは、まだ空を旋回していた。
こちらを襲ってこない。
狼の魔物だけを狙っている。
魔物が魔物を襲っている。
その光景が、やはり理解できなかった。
「……あれは」
言いかけると、サリアが僕を見た。
「今は――転移の術式へ」
答えはなかった。
そういう顔だった。
僕は口を閉じた。
アニエスが片手を上げる。
足元の地面に、淡い線が走った。
森の中に円が浮かぶ。
来た時と同じ光だった。
けれど、来た時とは違う。
あの時は、ただ怖かった。
今は、怖いものが増えていた。
グレモルト。
蛇の目。
狼魔王の牙。
アニエスの沈黙。
鳥型の魔物。
そして、聖都で僕を待っている人たち。
「中へ」
サリアが言う。
僕は術式の内側に立った。
イリアが前に立つ。
サリアが半歩後ろへ下がる。
アニエスは中央に立った。
光が足元から立ち上がる。
最後に、森を見た。
黒く汚れた地面の上で、折れた蛇の残骸が風にさらわれていく。
そこにもう目はない。
けれど、見られている気がした。
次の瞬間、世界が白くほどけた。
肺に入る空気が変わった。
森の湿った匂いではない。
石の匂い。
人の気配。
遠くの鐘の音。
聖都ルミナだった。




