第16話 集え
振り返るより早く、黒い影が跳んだ。
僕へ。
サリアが息を呑む音が聞こえた。
杖を構えるも、詠唱が間に合わない。
イリアは遠い。
狼の牙が、目の前に迫る。
動けなかった。
剣を抜いているのに。
手に持っているのに。
何もできなかった。
アニエスが視界の端に映る。
ふいに彼女は、指を曲げた。
それだけだった。
その直後、狼の体躯が空中で歪んだ。
見えない手に掴まれたみたいに、胴が縮み、脚が別の方向へ折れる。
骨が砕ける音が遅れて耳に届いた。
狼は僕の足元へ落ちた。
生き物が倒れたというより、形を間違えた粘土が地面に叩きつけられたようだった。
サリアの魔法とは違う。
光も、線も、輪もない。
術式の形がどこにも見えない。
詠唱もない。
ただ、形だけが乱暴に変えられた。
僕は足元の狼から目を離せなかった。
けれど、それで終わらなかった。
森の影から、さらに何匹もの狼が踊り出た。
一匹はイリアへ。
一匹はサリアへ。
一匹はアニエスへ。
そして、もう一匹が僕を見た。
さらに森の奥から狼の息遣いが聞こえてくる。
アニエスが目を細めた。
空気が変わった。
重い。
耳の奥が詰まる。
肺に入る空気が、急に粘ったように感じた。
土の匂いも、血の匂いも、黒い霧の匂いも、まとめて喉の奥に押し込まれる。
狼たちの動きがほんのわずかに鈍る。
けれど、止まらない。
アニエスが舌打ちした。
「――集え」
短い言葉だった。
最初は、何も起きなかった。
次に、空が鳴った。
羽音ではない。
乾いた骨を何本も擦り合わせたような音だった。
森の上で、黒い影がいくつも旋回している。
鳥だった。
いや、鳥の形をした魔物だった。
骨ばった翼。
長い首。
白く濁った目。
鉤爪は刃物のように曲がっている。
その群れが、森の上から落ちてきた。
鳥たちは僕たちには向かってこなかった。
狼へ落ちる。
爪が狼の背を裂く。
嘴が黒い目を抉る。
翼が土を叩き、狼の群れを押し返す。
魔物が、魔物を襲っている。
意味が分からなかった。
防衛圏は闇を薄める術式だと聞いていた。
魔物の侵入を抑えるものだと聞いていた。
なのに、今、空から来た魔物は僕たちを守っている。
イリアは驚いていなかった。
サリアも、杖を下ろさないまま次の詠唱に移っている。
知っていたのだ。
この光の届かない森で、魔物が味方のように降ってくることを。
アニエスだけが、当然のようにそれを見ていた。
「進むぞ」
イリアが言った。
鳥型の魔物が狼の群れを押し止めている間に、僕たちは崩れた石壁の奥へ向かった。




