第15話 防衛圏の外縁
気がつくと足の下に、石畳はなかった。
白い大通りも、鐘の音も、人々の祈りも消えていた。
靴底が湿った土に沈む。
顔を上げると低い森が広がっていた。
木々は細く、葉の色は濁っている。
幹のところどころに黒い筋のようなものが走り、枝は不自然な方向へ曲がっていた。
風はある。けれど、森の匂いではなかった。
腐った水。
濡れた獣の毛。
古い血。
そういうものが混ざった匂いがした。
「……ここが」
「はい。防衛圏の外縁です」
サリアが言った。
声は静かだった。
けれど、杖を握る手はすでに構えを取っている。
イリアは一歩前に出ていた。
大剣の柄に手を置き、森の奥を見ている。
アニエスだけが少し離れた場所に立っていた。
彼女は杖を持たず、腰に剣も帯びていない。
白い外套の裾が湿った風にわずかに揺れている。
僕は周囲を見回した。
少し離れたところに崩れた石壁のようなものがあった。
村の跡なのか、見張り場なのかは分からない。壁は半分ほど土に埋もれ、残った石の間には黒い蔦が絡んでいる。
その奥から低い唸り声が聞こえた。
身体が固まる。
藪が揺れた。
一匹の狼が出てきた。
いや、狼に似たものだった。
背中が異様に盛り上がっている。
口からはみ出した牙が黒ずみ、前脚の爪は地面を削るほど長い。
毛皮の下で何か細い虫のようなものがうごめいているように見えた。
目は濁っていた。
獣の目ではなかった。
こちらを見ているのに、こちらを見ていないようだった。
一匹。
二匹。
三匹。
さらに奥で、枝を折る音が続いた。
「――多いな」
イリアが短く言った。
「外の核に押されているようです」
「こちらの力が薄い場所を選ばれたな。獣が染まり始めているのは、そのせいだ」
アニエスが森の奥を見たまま言った。
こちらの力。
その言い方が、少し引っかかった。
けれど聞き返す余裕はなかった。
狼の魔物が跳んだ。
速い。
目で追えなかった。
イリアが剣を抜いた。
金属の音がした次の瞬間、先頭の狼の首が落ちる。
血ではなく、黒い霧のようなものが切断面から漏れた。
イリアは止まらない。
二匹目の爪を避ける。
身体を沈め、肩口から斬り上げる。
骨の砕ける音がした。
――強い。
怖いくらいに強い。
けれど狼はまだ来る。
森の奥から次々に出てくる。
草の間から。
倒木の裏から。
黒い蔦の絡んだ石壁の陰から。
数が多すぎた。
「下がらないでください」
サリアが僕の横で言った。
「下がると、守れません」
守る。
その言葉に、胸の奥が冷えた。
僕を守るためではない。
魔王の前まで運ぶためだ。
喰わせるための器を途中で壊さないためだ。
そう分かってしまう自分が嫌だった。
サリアが杖の先を地面へ向けた。
「土の精霊よ、起きなさい。牙を止め、脚を縛れ」
詠唱と同時に足元の土が盛り上がった。
新しく何かを作ったのではない。
そこにあった湿った地面が、形を変えた。
狼たちの前脚が沈む。
土が足首を噛むように固まり、動きを止めた。
イリアがその間を斬り抜ける。
土に縛られた狼の首が跳ぶ。
牙が地面に突き立てられ、黒い霧が土に染み込んでいく。
攻撃の魔法といえば、火だと思っていた。
けれど、サリアは地面を使った。
この森で火を使えば木々まで焼く。
新しく何かを作るより、そこにある土を動かす方が早い。
たぶん、その方が消耗も少ない。
そう考える余裕があるはずなのに、足は震えていた。
右手が剣の柄に触れる。
抜け。
そう思った。
けれど、指は動かなかった。
「――何をしている」
イリアの声が飛んだ。
狼の首を落としながら、こちらを見もしないで言った。
「立っているだけなら邪魔だ」
「……っ」
「剣を抜け」
「でも――」
「斬れとは言っていない」
イリアが踏み込み、別の狼の牙を剣で弾いた。
「ちょっとは身を守る努力をしろ」
喉が詰まる。
言い返せなかった。
僕は震える手で剣を抜いた。
重い。
ただ抜いただけなのに、腕が引かれる。
剣先が下がる。
構え方も分からない。
それでも、抜いた。
狼の一匹が土の拘束を引きちぎった。
泥が飛ぶ。
黒い牙がこちらへ向く。
「風の精霊よ、右を塞ぎ、左へ流れなさい。前方の牙を逸らしなさい」
サリアの唇が早く動いた。
杖の先から白い線がほどける。
狼と僕の間に、薄い弧が走った。
風が鳴った。
正面から迫っていた牙が、横へずれる。
狼の身体が空中で傾き、爪だけが僕の頬の前を裂いていった。
避けたのではない。
避けさせられたのだ。
そのまま狼の爪は、背後の木に突き刺さる。
木の皮が裂けた。
息が止まった。
あと少しで、喉だった。
サリアの顔がわずかに強張る。
それでも、すぐに次の詠唱へ移った。
「土の精霊よ、深く起こし、硬く締め、下より穿て。螺旋の土槍」
杖の石突きが地面を叩いた。
湿った土が一瞬だけ静まり返る。
次の瞬間、地面が爆ぜた。
土ではなかった。
もはや岩だった。
地面の下にあった石が、細く、鋭く、捻じれるように伸び上がる。
杭というより、巨大な錐だった。
螺旋を描いた岩の先端が、狼の腹を下から貫いた。
一匹。
二匹。
三匹。
貫かれた狼たちの身体が宙へ持ち上がる。
黒い霧が口から漏れ、脚がばたつき、やがて力を失った。
土槍の表面は捻じれている。
刺さった体躯が抜けない。
サリアは息を乱していなかった。
けれど、杖を握る指には力が入っている。
戦える人なのだ。
結界を張るだけでも、勇者の横に立つだけでもない。
この人は、魔法使いとして戦える。
そう思った直後、最後の狼がイリアの剣で斬られた。
黒い霧が湿った森に溶けていく。
終わった。
そう思った。
土槍に貫かれた狼たちは、地面に崩れかけている。
サリアが杖を少しだけ下ろした。
イリアも、剣先をわずかに下げる。
その瞬間、背後の森が揺れた。




