第14話 東門の祈り
僕はしばらく返事をしなかった。
返事をしなくても朝は待ってくれない。
扉の向こうでサリアは静かに待っている。
僕はゆっくりと身体を起こした。
頭が重い。
喉が乾いている。
身体の奥に、夜の疲れがそのまま沈んでいた。
何も身についていない。
けれど、起き上がるしかなかった。
「……はい」
声を出すと、自分のものではないように聞こえた。
扉が開く。
サリアが入ってくる。
その後ろには、衣装を持った女たちが控えていた。
白い衣装。
昨日、光の院へ向かったときのものより、さらに飾りが多い。
外套には金の縁取りがあり、胸元には光の紋章が縫い込まれている。
出陣のための服。
そう言われなくても分かった。
僕は立ち上がった。
着替えさせられるあいだ、ほとんど何も考えられなかった。
袖を通される。
留め具を閉じられる。
外套を肩にかけられる。
腰に剣を下げられる。
剣は、昨日と同じように重かった。
抜ける気がしない。
使える気もしない。
それでも、勇者リュシアンには剣が必要なのだろう。
見せるために。
鏡の前に立たされる。
白と金の衣装。
胸の光の紋章。
腰の剣。
整えられた髪。
顔色の悪さだけが、どうにも隠れていない。
鏡の中の男は勇者に見えた。
少なくとも僕ではなかった。
「こちらへ」
サリアが言った。
部屋を出る。
廊下には、イリアが待っていた。
いつものように背筋を伸ばし、こちらを見る。
「ひどい顔だな」
「眠れなかったので」
「倒れるなよ」
「努力します」
「努力じゃない。倒れるな」
イリアはそれだけ言って歩き出した。
廊下を進むにつれて、外の音が近づいてきた。
最初は風かと思った。
けれど違う。
人の声だった。
低く重なったざわめき。
誰かが名前を呼ぶ声。
石畳を踏む足音。
遠くで鳴る鐘。
サリアが横に並ぶ。
「東門まで、聖都の大通りを進みます」
「……人がいるんですか」
「はい」
「どれくらい?」
「見える限りには」
足が止まりそうになった。
「どうして――」
「勇者リュシアン様が魔王討伐へ向かう姿を見るためです」
サリアは静かに言った。
「勇者がいる。勇者が戦いに行く。そう見えることが、聖都の人々には必要です」
昨日、アニエスが言っていたことだ。
嘘でも、人を立たせることがある。
聖都は二百五十年、それで保っている。
僕は扉の前で立ち止まった。
向こう側に、人の声がある。
昨日までなら、知らない人間の声だった。
今は少し違う。
光の院にいた人たち。
フィル。
カテリーナ。
包帯を巻いた子ども。
勇者を見て、ほんの少し息を深く吸った人たち。
僕は何もできていない。
光も使えない。
剣も振れない。
魔王の前に立つ覚悟もない。
それでも――扉は開いた。
朝の光が差し込む。
眩しかった。
聖都ルミナの白い石が、朝日に淡く光っていた。
建物の壁も、広場の柱も、通りの敷石も、まるで最初から汚れなど知らないもののように輝いている。
その両側に、人がいた。
老人。
商人。
兵士。
子どもを抱いた女。
杖をついた男。
光の院で見たような包帯の人たち。
誰もがこちらを見ていた。
僕ではない。
勇者リュシアンを見ていた。
「リュシアン様!」
誰かが叫んだ。
その声を合図にしたように、ざわめきが大きくなる。
「勇者様!」
「ご武運を!」
「光の加護を!」
「どうか、聖都を!」
足が動かなかった。
違う。
そう言いたかった。
僕はまだ、何もできない。
昨夜だって、石をまともに光らせることすらできなかった。
死にたくないから練習しただけだ。
聖都を守る覚悟なんて、まだどこにもない。
喉が震えた。
けれど、声にはならなかった。
胸の奥で何かが固く閉じる。
言葉がそこから先へ進まない。
イリアが低く言った。
「歩け」
僕は足を出した。
一歩。
白い靴の底が、石畳を叩く。
その音は、人々の声にすぐ呑まれた。
それでも――足は止まらなかった。
二歩目。
三歩目。
白い大通りが、まっすぐ東門へ続いていた。
朝日を受けた白い石の街は目に痛いほど明るかった。
昨日までなら綺麗だと思ったかもしれない。けれど今は、その白さが少し怖かった。
「リュシアン様!」
誰かが叫んだ。
その声を合図にしたように、ざわめきが広がる。
いくつもの声が混ざり、形を失っていく。
左右から声が降ってくる。
それなのに、頭の上から押しつけられているように感じた。
僕は顔を上げられなかった。
目を合わせれば、何かを言われる。
何かを返さなければいけなくなる。
だから、少し先を歩くイリアの背中だけを見ていた。
イリアは振り返らない。
足取りは一定だった。
人々の声も、鐘の音も、何も聞こえていないように歩いている。
サリアは僕の半歩後ろにいた。
大きく声をかけることはない。
ただ、僕が立ち止まりそうになるたび、わずかに気配が近づいた。
止まるな。
そう言われている気がした。
通りの端で、小さな子どもが母親に抱き上げられていた。
「勇者様だよ」
母親が言う。
子どもは意味が分かっているのか分からない顔で、こちらへ手を伸ばした。
僕は反射的に手を上げかけた。
右手だった。
魔王の口の中へ落ちていった手。
戻った手。
フィルの頭に触れた手。
夜のあいだ、光を灯そうとして何度も失敗した手。
手を上げると、通りの声が一段大きくなる。
子どもが笑った。
僕は喉の奥で息が詰まった。
この手が何に使われたのか、誰も知らない。
この手が一度なくなったことも、誰も知らない。
ただ、勇者が手を上げた。
それだけで人々は安心したように笑う。
僕はその笑顔から目を逸らした。
光の院の前を通った。
白い門の前には、昨日よりも多くの人がいた。
病人も、孤児も、働けなくなった者も、誰かに支えられながら外へ出ている。
カテリーナの姿があった。
小さな体で、フィルを支えていた。
フィルは昨日よりも顔色が悪く見えた。
それでも、目だけは開いている。
こちらを見ていた。
僕は足を止めそうになった。
サリアの気配が横に近づく。
フィルが小さく手を上げた。
昨日、掌に残った熱を思い出す。
弱くて、少し熱くて、すぐに消えてしまいそうな熱。
それなのに、なかなか消えなかった熱。
僕は右手を胸の高さまで上げた。
祝福の形なのか、挨拶なのか、自分でも分からない。
フィルはそれを見て、ほんの少し笑った。
カテリーナが頭を下げる。
違う。
頭を下げられるようなことは何もしていない。
そう思ったのに、また声は出なかった。
ただ、歩くしかなかった。
光の院を過ぎると、道は少し広くなった。
聖堂のような建物の前の広場に出る。
鐘が鳴っていた。
広場の中央には、高い柱が立っている。
そこに古い紋章が刻まれていた。
僕の胸にあるものと同じ形だった。
柱の下には花が置かれている。
白い花。
黄色い花。
乾きかけた花もある。
誰かが祈っていた。
僕が通ると、人々が膝をついた。
音が少しだけ遠くなる。
さっきまで大きかった声が低く沈んだ。
膝をついた人々の頭が道の両側に並んでいる。
僕は、その間を歩いた。
怖かった。
罵られる方がまだ楽だったかもしれない。
嘘つきだと叫ばれる方が息ができたかもしれない。
けれど、人々は祈っていた。
この人たちは――本気で信じている。
勇者がいる。
勇者が戦いに行く。
だから、今日の夜も眠れる。
嘘だから価値がないわけじゃない。
そう分かってしまうことが、嫌だった。
広場を抜ける。
東門が見えてきた。
聖都ルミナの城壁は高かった。
白い壁の上に兵士が並び、旗が風に揺れている。
門の前には、広い空間が空けられていた。
そこには、円形の文様が刻まれている。
石畳の上に淡い線がいくつも走っていた。
昨日、魔王城から帰ってきたときに見た光に似ている。
転移の術式。
そう分かった瞬間、足が重くなった。
あの光の先に、魔王がいる。
昨日とは違う魔王。
ガルヴァンではない。
弱い魔王だと、アニエスは言っていた。
弱い。
その言葉に何の安心もなかった。
弱くとも僕よりはずっと強い。
東門の前にも、人がいた。
兵士たちが道を空け、その奥に術士らしき者たちが控えている。
そのさらに中心にアニエスが立っていた。
大通りにはいなかった。
人々の前を歩く列の中にはいなかった。
けれど、東門で待っていた。
白い色の長衣。
耳は、やはり長くない。
それでも周囲の人々は、彼女を見て一斉に頭を下げている。
「アニエス様」
「エルフの賢者様」
小さな声がいくつも重なった。
アニエスはそれに答えなかった。
ただ、こちらを見た。
「歩けたね」
それだけだった。
僕は何も言えなかった。
歩けた。
だから、次へ進める。
そう判断された気がした。
イリアが術式の縁で足を止める。
「標的は?」
「小型の核だ。すでに防衛圏の外縁へ入り込んでいる」
アニエスが答えた。
「本来なら、あそこまで入る前に止まる。けれど最近は外縁が薄くなっている。迎撃に回るはずの魔物も数が足りない」
「魔物が……迎撃に?」
思わず聞いた。
アニエスはこちらを見た。
「この圏の中では、そう動くようにしてある」
それ以上は言わなかった。
イリアも、サリアも、何も聞かない。
光の院にいた子どもたちの顔が浮かんだ。
フィル。
カテリーナ。
頬に傷のある子ども。
防衛圏を抜けたものが、街道や村を襲う。
親を失った子どもや、行く場所をなくした人間が、光の院へ運ばれる。
そういうことなのだと思った。
サリアが僕の横に立つ。
「リュシアン様。術式の内側へ」
僕は足元を見た。
円の中へ入る。
石の線が淡く光った。
背後には、まだ人々の気配がある。
歓声は、もうほとんど聞こえなかった。
代わりに、低い祈りだけが残っている。
その中で誰かが小さく言った。
「光よ、満ちろ」
その言葉だけが、妙にはっきり聞こえた。
胸の奥が冷える。
僕の中には、まだ光なんて満ちていない。
昨夜、掌の奥に灯ったものはすぐに消える小さな点でしかなかった。
それなのに、その言葉だけが頭の奥に残った。
光よ、満ちろ。
祈りだった。
でも、僕には命令のようにも聞こえた。
アニエスが術式の中央へ進んだ。
同行するのだ、と遅れて分かった。
昨日のガルヴァンの時には彼女は白い部屋にいた。
少なくとも僕の目の前にはいなかった。
けれど今は、円の内側にいる。
「あなたも行くんですか?」
思わず訊いた。
「今回は近い」
アニエスは短く答えた。
「防衛圏の外縁なら、私が直接見た方が早い」
それ以上は言わなかった。
イリアも、サリアも、何も聞かない。
それがかえって引っかかった。
アニエスが片手を上げる。
地面の文様に光が走った。
人々の声が遠くなる。
鐘の音も、風の音も、祈りも、水の中へ沈むように薄れていく。
最後に、東門の向こうの空が見えた。
白い。
次の瞬間、足元が消えた。
世界がほどける。
光が視界を埋めた。
そして――。
冷たい空気が、肺に入った。




