第13話 消える光
死にたくないなら。
その言葉だけが、胸の奥に残った。
助けるためではない。
勇者になるためでもない。
聖都を守るためですら、ない。
「……覚えたら、生き残れるんですか」
「可能性は上がる」
「それだけですか」
「それだけだ」
アニエスは迷わなかった。
「今の君に渡せるものは、それ以上ない」
僕は唇を噛んだ。
怒りたいのか、泣きたいのか、自分でも分からなかった。
可能性。
それだけ。
でも、何もないよりはましだった。
喰われるだけで終わるよりは、まだましだった。
「……分かりました」
声は小さかった。
「やります」
イリアが少しだけ目を細めた。
サリアは何も言わなかった。
アニエスだけが、淡々と頷いた。
「なら、先に確認する」
「確認?」
「君がどれだけこの器と結びついているか」
アニエスは机の端から小さな透明な石を取った。
光の院の祭壇に置かれていたものより、ずっと小さい。
掌に収まるほどの石だった。
「手を出して」
僕はためらいながら手を伸ばした。
アニエスがその石を掌に置く。
冷たい。
けれど、光の院の石とは少し違った。
ただ冷たいだけではない。
掌の奥でかすかに何かが揺れている気がした。
「握らない。押さえつけない。ただ、そこにあると認識しなさい」
「認識?」
「この器は光の精霊で編まれている。君の肉体ではない。だが、君の魂が入っている以上、動かすことはできる」
アニエスの声は低かった。
「指を動かすように、息を吸うように、その石へ器に組み込まれている光の精霊を通す」
「そんなこと急に言われても……」
「急でも、やるしかない」
アニエスは言った。
「君には時間がない」
アニエスは机の上の地図へ視線を落とした。
「出発は明日の朝だ。東門で転移する」
明日の朝。
その言葉だけで掌の石が急に重くなった。
「それまでに、最低限は覚えなさい」
掌の石を見た。
透明なはずなのに奥で何かが薄く揺れていた。
白いものが、息をするように灯っては消える。
僕は息を吸った。
指を動かすように。
息を吸うように。
そう言われても、分からない。
けれど、死にたくなかった。
喰われたくなかった。
また自分の身体が自分から離れていくところを見たくなかった。
フィルの熱が、ふと掌に戻った気がした。
弱くて、少し熱くて、すぐに消えてしまいそうな熱。
僕はそれを追いかけるように、掌の奥へ意識を向けた。
石が、かすかに光った。
本当に、かすかだった。
白い点が、一瞬だけ灯って、すぐに消える。
アニエスの目がわずかに細くなった。
「もう一度」
「今の――できてたんですか」
「消えたのでは意味がない」
「できてないんですね」
「だが灯った」
アニエスは言った。
「消えたとしても、灯ったなら次がある」
次。
その言葉は嫌いだった。
昨日の続きのように聞こえた。
でも今だけは、少し違って聞こえた。
終わりではない。
そういう意味にも、聞こえた。
「もう一度」
アニエスが言った。
僕は石を見た。
掌が汗ばんでいる。
喉が渇く。
身体の奥が震えている。
怖い。
できる気がしない。
でも、やらなければ明日、僕はまた魔王の前に立たされる。
喰われるだけなら、そうなる。
アニエスの言葉が頭に残っていた。
僕はもう一度、息を吸った。
そのとき、遠くで鐘が鳴った。
聖都のどこかで、今日の儀礼の終わりを告げているのだろう。
人々は祈るのかもしれない。
明日の出陣を待つのかもしれない。
勇者リュシアンがまた魔王を討つと信じて。
掌の石は冷たかった。
けれど、その奥にある白い点だけがほんの少しだけ熱を持っていた。
僕はそれを見つめた。
フィルの熱は、もう消えている。
けれど、消えたはずなのに残っている気がした。
あの子は、僕にありがとうと言った。
僕は何もしていない。
治してもいない。
救ってもいない。
ただ、手を置いただけだ。
それでも、あの子は少し息を深く吸った。
そのことが胸の中で引っかかっていた。
勇者リュシアンは嘘だ。
エルフの賢者も、きっと嘘だ。
イリアもサリアも、僕の味方ではない。
それでも、フィルの息だけは嘘ではなかった。
怖いままでも、行かなきゃいけない時がある。
自分で言った言葉が今さら自分に返ってくる。
明日。
僕はまた魔王の前に立つ。
いや、立たされる。
行きたくない。
死にたくない。
使われたくない。
それでも、フィルの目を思い出すとただ逃げたいだけでは済まなくなる。
そのことが、何より怖かった。
それから、同じことを何度か繰り返した。
掌に石を置く。
息を吸う。
指を動かすように光を通そうとする。
石の奥に、白い点が灯ることはあった。
けれど、すぐに消えた。
少しでも力を入れると光は散る。
怖くなって手を引くと何も起きない。
うまくいきそうだと思った瞬間には、もう消えている。
「もう一度」
アニエスは、同じ声で言った。
僕は掌の石を見た。
透明な石の奥で、白いものが薄く揺れている。
「……これは、本当に意味があるんですか」
声が漏れた。
アニエスは顔を上げた。
「ある」
「でも、光らせようとして、少し光ってすぐ消えるだけです。こんなのを何度やっても明日までに魔王を倒せるとは思えません」
「倒せるようにはならない」
あっさりと言われた。
僕は息を呑んだ。
「じゃあ、何のために――」
「死ににくくするためだよ」
アニエスは机の上に置かれた石を指で押した。
「今の君に必要なのは、魔王を倒す術式ではない。闇に触れたとき自分の中に光があると忘れないことだ」
「もっと効率のいい方法はないんですか。呪文とか、型とか、そういうものは?」
「――ある」
「なら、それを教えてください」
「今の君には使えない」
アニエスの声は変わらなかった。
「勇者の術式は器に刻まれている。君の魂が器に深く定着すれば、頭で理解するより先に身体が分かる」
「身体が……」
「そうだ。手の動かし方を言葉で覚えたわけではないだろう。息の吸い方を誰かに教わり続けているわけでもない」
アニエスは僕の手を見た。
「定着が進めば、器に刻まれた術式を君自身が読めるようになる。読もうとしなくても分かるようになる」
「じゃあ、今はまだ……?」
「定着が浅い」
短い言葉だった。
「君の魂は器に入っている。だが、まだ逃げている。痛みから。恐怖から。この身体が自分のものだと認めることから」
胸の奥が、少しだけ詰まった。
この身体は僕のものではない。
そう思わなければ、昨日の出来事にも耐えられなかった。
「……サリアさんなら、分かるんじゃないんですか」
僕は言った。
「魔法使いなんですよね。昨日、結界も転移も使っていた」
サリアが少しだけ目を伏せた。
「一部は分かります」
「一部?」
「私は、勇者リュシアン様の器を解析し、補助するために術式を学んできました。光の精霊の循環、再生、形状維持、魔王の核へ光を届かせる回路。その多くは、構造として読むことができます」
半分も分からなかった。
ただ、この身体が人間ではなく、誰かに組み上げられた仕組みなのだということだけは分かった。
「じゃあ――」
「ですが、中心に解析できない部分があります」
「作ったのに分からないんですか?」
思わず、アニエスを見た。
サリアは答えなかった。
代わりに、アニエスがしばらく黙った。
「器を作ったのは――私一人ではない」
やがて、アニエスはそう言った。
「勇者の器を作るには、光の精霊を集めるだけでは足りなかった。循環させ、形を保ち、壊れても戻るようにし、魔王の核へ届く道を作る必要があった」
それは、身体の話をしているようで武器の整備手順を聞かされているようだった。
アニエスの視線がサリアへ向いた。
「その術式の多くは、最初のサリアが組んだ」
「最初の……?」
言葉が引っかかった。
サリアは何も言わない。
アニエスも、それ以上は説明しなかった。
「身体の構造は、最初のイリアを参考にした。剣を振れる骨格。戦闘に耐える重心。反応速度。人間の身体として破綻しない形」
イリアが壁際で、わずかに目を細めた。
「読めるものは読める形で組み上げた。再生も、形状維持も、光の回路も、魂の定着も」
「じゃあ、読めない中心は?」
「私たちが作ったものではない」
アニエスは言った。
「勇者リュシアンの名に、最初から結びついていたものだ。私たちはそれを完全には読めない。読めないまま、二百五十年使ってきた」
背中が冷たくなった。
この人たちは、全部分かっていて僕を使っているのだと思っていた。
でも違う。
分からないものを、分からないまま使っている。
「それが分かっていれば――ここまで遠回りはしていない」
アニエスがさらに続けた。
「器を作るまでに長い時間を使った。運用を始めてからも読めるところは増えた。それでも、中心だけは読めない」
「中心……」
「そこが動かなければ、勇者の術式はただの構造だ。光の精霊で編まれた身体。再生する器。魔王の核へ届く回路。それだけでは――勇者にはならない」
アニエスは淡々と言った。
「だから繰り返す。器に触れろ。逃げるな。灯って消えるなら、灯った場所を覚えなさい」
「それだけ……?」
「それだけだ。私たちに言えることは――」
また、それだけ。
でも、さっきより少しだけ違って聞こえた。
何も分からないまま石を光らせているのではない。
この身体に刻まれた何かへ、少しずつ触れようとしている。
ただ、そう言われても、できる気はしなかった。
けれど何の意味もないわけではない。
それだけは、分かった。
「もう一度」
アニエスが言った。
僕は石を見た。
掌は汗ばんでいる。
喉が渇く。
身体の奥が震えている。
できる気がしない。
掌の石は冷たいのに、右肩の奥だけが熱を思い出していた。
明日になれば、僕はまた魔王の前に立たされる。
その場所で、またこの身体を使われる。
そう考えると、息が浅くなった。
でも、やらなければ明日、僕はまた喰われるだけで終わる。
アニエスの言葉が頭に残っていた。
喰われるだけなら、そうなる。
僕はもう一度、息を吸った。
白い点が灯る。
そして、すぐに消える。
それで終わりだった。
夜が深くなっても、できたとは言えなかった。
たまに光る。
すぐ消える。
それだけだった。
それでも、消える前に灯った場所だけは、掌の奥にかすかに残っている気がした。
やがて、アニエスが石を取り上げた。
「今日はここまで」
「できてません」
「知っている」
「明日、死ぬかもしれないんですよ?」
「そうだね」
「それでも、終わりなんですか」
「これ以上続けても、明日に支障が出る」
アニエスは机の上に石を置いた。
「今の君に必要なのは、完璧な術式ではない。光が一度でも灯ったことを忘れないことだ」
忘れないこと。
それだけ。
でも、忘れなければ死を遠ざけることはできる。
きっと、そういうことなのだろう。
サリアが記録を閉じた。
「部屋へ戻りましょう」
歩き出そうとして、膝が少し揺れた。
イリアがこちらを見る。
「――立て」
短い声だった。
僕は奥歯を噛んで足に力を入れた。
立てた。
それだけで、少し腹が立った。
まだ立てるなら、まだ使えると思われる。
そんなことを考えてしまう自分にも、腹が立った。
勇者の部屋へ戻されたとき、窓の外はとても暗かった。
サリアは扉の前で足を止めた。
「少しでもお休みください」
「眠れると思いますか」
言ってから、昨日も似たようなことを言った気がした。
サリアは答えなかった。
「朝になれば、出発します」
その言葉だけを残して、彼女は扉を閉めた。
部屋に一人になる。
寝台は柔らかかった。
昨日と同じように、その柔らかさが気持ち悪かった。
横になっても目は閉じられなかった。
掌を開く。
閉じる。
石の冷たさが、まだある気がした。
白い点が灯って、消える。
灯って、消える。
何度思い返しても、光は続かなかった。
けれど、一度も灯らなかったわけではない。
そのことだけが眠れない夜の中で、細い希望のように残っていた。
フィルの熱も、同じ場所に残っている気がした。
弱くて、少し熱くて、すぐに消えてしまいそうな熱。
それなのに、なかなか消えなかった熱。
窓の外が、少しずつ白んでいく。
夜が終わる。
終わってほしくないと思った。
朝になれば出発する。
まだ何もできないまま。
それでも、朝は来た。
扉が叩かれる。
「リュシアン様」
サリアの声だった。
「出陣の支度を」




