第十八話 夏の読書ノート
七月。
蝉の声が、朝から校庭いっぱいに響いていた。
教室の窓はすべて開け放たれ、時折吹き抜ける風がプリントを揺らす。
「もうすぐ夏休みだな。」
佐々木が伸びをしながら言った。
「宿題、多そう。」
「毎年のことだろ。」
陽斗が笑う。
ふと窓際を見ると、美月が外を眺めていた。
夏の光を受けた横顔は、春より少しだけ大人びて見えた。
放課後。
「今日も行く?」
美月が鞄を持ちながら尋ねる。
「もちろん。」
二人はいつものように栞堂へ向かった。
店の扉を開くと、涼しい風と紙の匂いが迎えてくれる。
「いらっしゃい。」
店主は帳場で帳簿を閉じると、一冊の厚いノートを机の上に置いた。
茶色い布張りの表紙。
角は少し擦り切れ、長い年月を感じさせる。
「これ。」
美月が興味深そうに手に取る。
「読書ノート。」
表紙には、金色の文字でそう書かれていた。
「うちに来た人がね。」
店主が穏やかに話し始める。
「好きな本でも、今日あったことでも、何でも書いていくんだ。」
ページを開くと、そこには様々な文字が並んでいた。
『この本に救われました。』
『試験に落ちた日に読んで泣きました。』
『娘と一緒に読みました。』
短いものもあれば、びっしり書かれたページもある。
「素敵……。」
美月が小さくつぶやく。
店主は笑った。
「本は読んで終わりじゃない。」
「誰かの感想を読むと、もう一度読みたくなる。」
陽斗もページをめくる。
十年前の日付。
五年前の日付。
この町で暮らしてきた誰かの時間が、静かに積み重なっていた。
「二人も書いていくかい?」
「いいんですか?」
「もちろん。」
店主は二本の万年筆を差し出した。
「正解なんてない。」
「その日に思ったことを書けばいい。」
美月は迷わずペンを取った。
さらさらと文字を書いていく。
書き終えると、小さく笑ってノートを閉じた。
「もう?」
「うん。」
「何を書いたの?」
「秘密。」
「ずるい。」
「朝倉くんも書けば?」
「何を書けばいいんだろ。」
しばらく考えたあと、陽斗はゆっくりと書き始める。
書き終えて、自分でも少し照れくさくなった。
「見せないの?」
「見せない。」
「じゃあ、おあいこ。」
二人は顔を見合わせて笑う。
帰り際。
店主が二人に言った。
「そのノートはね。」
二人が振り返る。
「急いで書くものじゃない。」
「続きを書きたくなったら、また書けばいい。」
「人生と同じだ。」
「一ページで終わる人はいない。」
その言葉を、美月は静かに胸へしまった。
帰り道。
空は夏の夕焼けに染まっていた。
「夏休みも来ようか。」
陽斗が言う。
「うん。」
美月は嬉しそうに頷く。
「学校がなくても。」
「栞堂はあるもんね。」
「そうだね。」
その約束が、少しだけ特別に聞こえた。
その夜。
栞堂の読書ノートには、新しい二つのページが増えていた。
七月十九日
『今日は誰かの感想を読むのが楽しいと思った。本は一人で読むものだと思っていたけれど、違うのかもしれない。』
――朝倉陽斗
その次のページ。
七月十九日
『好きな本の話をできる人がいる。それだけで、毎日が少し楽しみになった。』
――水瀬美月
二つのページは並んでいる。
けれど、お互いが何を書いたのかは知らない。
それでも。
同じ日に、同じ場所で書いた言葉は、本棚の片隅で静かに夏を迎えていた。




