第一話 春のホーム
「パパ、あのお姉さん、お友達?」
その声で、朝倉陽斗は呼吸を止めた。
――視線の先にいたのは、水瀬美月だった。
一瞬、理解が追いつかなかった。
ここにいるはずがない、と脳が否定するより先に、現実だけがそこにあった。
桜の舞う春のホーム。
その人混みの中で、彼女は確かに立っていた。
肩まで伸びた髪。
少しだけ大人びた表情。
柔らかなベージュのコート。
それでも、間違いようがなかった。
あの頃と同じ笑い方をしている。
ただ、違っていたのは――その隣だった。
背の高い男性が荷物を持ち、小さな男の子の手を引いている。
男の子は嬉しそうに桜を追いかけ、転びそうになるたびに、美月がしゃがんで笑いかけていた。
どこから見ても、幸せな家族だった。
「陽斗?」
隣の妻・奈緒の声で、現実に引き戻される。
「どうしたの?」
「……いや」
喉がうまく動かなかった。
「知り合い?」
少しだけ間を置いて、答える。
「昔の同級生だ」
それ以上は言わなかった。
言えなかった。
ホームの向こうで、美月がふと顔を上げる。
目が合った。
ほんの数秒。
時間が止まったように感じた。
驚いたように目を見開いたあと、彼女はゆっくりと微笑んだ。
その笑顔だけは、十数年前と何も変わっていなかった。
陽斗も、自然と笑い返す。
言葉はない。
それで十分だった。
「ママー!」
男の子が美月の手を引く。
「はいはい」
美月は優しく頭を撫でると、もう一度だけこちらを見た。
小さく会釈する。
陽斗も静かに頭を下げた。
その一瞬で、十数年という時間が通り過ぎた気がした。
やがて電車がホームに滑り込む。
ドアが開き、人の流れが生まれる。
その中に、美月の姿は溶けていく。
「パパ!早く行こう!」
「……ああ」
小さな手を握る。
温かい。
今の自分にとって、確かな現実だった。
改札を抜けると、妻の奈緒が言った。
「今日は帰ったらハンバーグにしようか」
「結菜、チーズいっぱい!」
「ふふ、はいはい」
いつもの休日。
何気ない会話。
それが今の幸せだった。
それでも。
桜が風に舞うたび、胸の奥で何かが揺れる。
もし、あの日。
たった一言「好き」と言っていたら。
違う未来はあったのだろうか。
答えは、もう出ない。
けれど確かに言える。
あの恋があったから、今の自分がいる。
「パパ?」
「ん?」
「どうしたの?」
陽斗は笑って、頭を撫でた。
「なんでもないよ」
そう。
本当に、なんでもない。
あの日の恋は終わっている。
けれど、その記憶だけは今も、春のどこかで静かに息をしていた。
高校一年の春。
僕は、一人の女の子と出会った。
あの頃の僕は、彼女が十数年後、ホームの向こう側で「知らない誰かの妻」として笑う未来など、想像していなかった。




