5 四日目(永漢元年九月甲戊/189年9月28日)
翌朝、再び招集された朝議は、昨日とは違って大規模で、そして準備と根回しが済んだものとなった。即位式の開催を前提として吉服の着用すら求められた。
「何太后は永樂太后を追い詰め、憂いの中で死なせた。婦姑の礼に逆らい、孝順の節を知らぬ行ないだ。天子は幼稚で軟弱。君たるにふさわしくない。昔、伊尹が太甲を放逐し、霍光が昌邑王を廃した事は典籍に著されて皆が善しとしている。今、太后は太甲の如くし、皇帝は昌邑王の如くするのが宜しかろう。陳留王は仁孝であり、直ちに践祚いただくのが宜しかろう」
董卓のこの言い分に今回は誰も反論しなかった。
かくして百官は即位の式典に移動した。
半年前、劉辨が霊帝の跡を継ぎ即位したのと同じ場所に同じ舞台が設置された。無いのは霊帝の梓宮くらいである。
驚くべき事に何太后が参列させられていた。
式の最初に、三公が尚書顧命篇に則り皇太后に新帝の即位許可を皇太后に求める。その為に彼女は呼ばれたのだ。
帝の即位に正式な手順はあるが、廃止に正式な手順はない。劉辨が廃される事は、新帝即位式のこの策文にささやかに折り込まれていた。「帝の姿は軽佻浮薄であり、威儀に欠け、喪にあってだらしなく……」と欠点が記され、「今廃して弘農王と為す」との文が加えられた。もちろん、三公は今、太尉の董卓しかいない。
何太后は震える声で「可」と裁可した。そして静かに泣きだした。帝劉辨はいまだ董卓の手にあり、何太后は我が子の助命を条件に廃位に同意せざるを得なかったのである。
何太后を退場させた後、式は粛々と進み、大きさの合わない衣装で着飾らされ年齢に似合わず複雑な表情の少年が進み出た。御年九歳。元服はまだ先であるが天子として天に報告する必要があるため、諱がつけられ、少年は劉協と名乗り、即位した。
天下に大赦と改元が行なわれた。三日前に改元された昭寧から永漢となった。
渋々──皆を覆っていた空気を言葉にするとこの言葉になるであろうか。
尚書となっていた丁宮が音頭を取った。
「天は漢室に禍いをもたらし、今回の乱で多くのものが失われました。昔、祭仲が廃立した事を大いにその権を用いたと春秋も認めております。今、大臣は社稷の為に宜しく計られておいでです。天に人が合しますよう、今は萬歳を唱えようではありませんか」
百官達の萬歳は湿った響きとなった。だがここに、漢家最後の皇帝、後に献帝と諡された少年の治世が始まったのである。




