4 三日目(昭寧元年八月癸酉/189年9月27日)
昼を過ぎてからの急な招集だった。朝議が始まったのは午後ももう遅い時間で、これだけでも異例と言えた。
満場の士大夫、とは行かなかった。ぞろぞろと集まって来た士大夫達の多くは西園平樂觀に避難していた連中である。一様に少しほっとした顔になっていた。五日前に何進が殺されて以降の洛陽の混乱が、これで収拾されるだろう、皆がそういう期待を持ってここに来ていた。
だが張溫は暗澹たる気持ちで参列していた。
(どこに安心できる要素がある?)
自分が韓遂らを相手に在外太尉として長安に駐屯していた際にすら不服従を貫いていたあの董卓が招集したのである。
この時点での董卓の正式な役職は并州牧である。ただ本人は并州へは赴任せずに兵を率いて洛陽へ来たので、前将軍を自認したままでいる可能性も有る。だが、どちらにしても朝廷を牛耳ってよい役職ではない。
もし、董卓がおかしなことをしたらせめて一喝なりとしてやろう。張溫はそういう腹でここへ来ていた。
ずいぶんと待たされた後、董卓が入って来た。大柄な若い男を引き連れている。護衛だろう。長安で別れてから二年ばかり。董卓はだいぶ太り、そして傲岸さを増しているようだった。
董卓は運ばれて来た胡床にどっしりと座った。今上の御出座は無い、という事だろう。
開口一番、こう宣言した。
「長きに渡り雨が降らぬ。その責で司空の劉弘を免じる。後任は私、董卓とする」
士大夫達がざわついた。疑問の声だった。何故ならこの六月からの三ヶ月、雨が降り続いていたからである。
張溫は戦慄した。
(鹿を指して馬と言う、じゃないか!)
秦の丞相の趙高は、二世皇帝胡亥に献上した鹿を指してこれは馬であると言った。趙高に追従して馬と言ったものも沈黙したものも居たが、臆せずこれは鹿である、と言った者を趙高は陥れた。
ここで劉弘解任の不当を主張すれば、処罰が待っているに違いない。張溫は董卓に物申してやろう、という気概がみるみる萎むのを感じた。
その時、董卓の後ろに立つ若い男がすらりと刀を抜いた。
皆がその動きに驚き……そして口々に「あっ」と驚きの声をあげた。この人事が指鹿為馬である事に気付いたのだろう。
結局、誰も異議をとなえられなかった。
「続いて、司空の董卓を太尉に除す」
(三公を独裁する気か!)
司徒は先日丁宮が罷免され後任が立っていない。一旦董卓が司空を経る事で、司空も空席になる。三公のうち二席が空席になり、残る一席を董卓が占める事で皇帝の諮問は董卓が独占することになる。
だが誰もそれに反論する者はいない。張溫は軟弱な士大夫ではない。かつて謁兵式で軍礼と称して霊帝への長揖不拝を貫いた気骨もあったのである。董卓の後ろで抜刀した若い男の眼光を受けると、その気骨はどこかに消えたかのようになった。
ふと、視線を感じた。
張溫が回りを見回すと士大夫の誰ぞと目が合った。目を逸らしたが、別の士大夫と目が合う。首をどう動かしても誰かと目が合ってしまう。
(皆が私を見ている!?)
皆の目が不安を、動揺を、そして懇願を浮かべていた。元太尉にして、董卓の元上司である自分に、皆が期待しているのだと知った。
(太尉の頃にすら言う事を聞かなかった奴だぞ。故吏だからって今更どうなるものではないわ!)
張溫は激しく首を横に振って視線を拒絶した。皆が落胆のため息を漏らす。
(今の私には力がない)
兵を持たない自分では董卓に対抗できない。今、対抗できるとすれば洛陽で虎賁を握る袁術───
「虎賁中郎将の袁術を、後将軍に除する」
先手を取られていたらしい。既に洛陽内での兵権を奪われていると見ていい。
「并州主簿の呂布を騎都尉に除する」
知らない名だった。だがそれで思い出せた。并州刺史の丁原。昨日兵を引き連れて入城して来たあの男なら、董卓に対抗できるのではないか?少なくともこの近辺で兵を持っているのはあの男だけだ。
張溫がそう連想した瞬間、董卓はにやりと笑った。
「なお、并州刺史の丁原殿は急死なされた。悼ましいことだ」
後ろの若者は無表情に首をコキコキと揺らした。
***
昨夜の宴が終わった後。董卓は李儒と賈詡に丁原対策を相談した。
正面から当たっては利有らず。それが董卓の結論であり前提である。法で陥れて刑死させるには時間が掛かり、丁原が士大夫に奉り上げられる可能性がある。となると暗殺だが、あの強そうな丁原をどうやって殺すか。
「あの主簿、女を使えば転びそうでしたよ」
とは賈詡の言。
「よし、文和。お前が口説き落して来い」
賈詡は女を使って謀略を行なう事に禁忌の感覚を持たなかった。 だが、丁原暗殺をあの若者に持ち掛けた瞬間、逆鱗に触れてこちらが殺される可能性を危惧した。
「自分はこれから城外に出て牛将軍をお助けせねばなりませんが……」
董卓の娘婿、牛輔には今夜使命が与えられていた。涼州兵を数組に分け、密かに城外へ抜け出させ、朝までに合流して堂々と再入城し、見掛け上の兵数を水増しするのである。夜間の行軍と合流という困難は実質的に賈詡が指揮を執る以外に実現不可能であろう。
「ならば文優、頼めるな?」
結果、李儒が呂布への調略を担当する事になった。
李儒は基本的に善悪の判断ができない男である。だから配慮がない。その足で丁原と呂布が宿泊している廃寺へ行き、呂布を呼び出した。
「何の用だ?親父なら酔ってもう寝ちまってるぜ」
不機嫌な呂布に対しあまりにも正直な説得を行なった。
「呂奉先殿。丁執金吾より女色を止められてご不満がおありでは?執金吾を殺していただければ宮女をいくらでも下げ渡すと董将軍が申し出られています」
もし呂布が丁原への恩義を優先していたらこの場で斬られてもおかしくない不躾な申し出であった。
だが呂布にも李儒同様の人間的欠陥が備わっていた。善悪が簡単に好悪で塗り替えられてしまうのである。
「判った。待ってろ」
そう言って宿舎へ戻ると、すぐに出て来た。晴れやかな笑顔で。血塗れの大きな生首をぶら提げて。
***
(全て対策されている─────?)
董卓にこんな知恵がある筈がない。誰かが知恵を与えているに違いない。張溫はそう思って董卓の周囲を見回した。
僅かに見知った男がなにくわぬ顔で立っていた。
(誰だったか?見たことがあるが─────?)
そこで記憶が甦った。二十年前、竇武と陳蕃の反乱が鎮圧された時、残党への制裁として夷三族を勧めた士大夫を。
(う)
思わず呻きが洩れた。
朝議は大詰めに差し掛かっていた。
「大いなるは天地、その次に君臣、これが政の根幹である」
董卓が芝居掛かって言った。
「今、皇帝は闇弱で、天下の主として宗廟を奉じる力はない」
百官はどよめいた。もうこの後に言うことは判り切っていたからだ。だが、本気か?
「今、伊尹と霍光の故事にならい、代わって陳留王を立てたく思うが、どうか?」
公卿たちは言葉もなく、朝堂は静まりかえっていた。
董卓は満足げに頷くと、立ち上がろうとした。だがその気先を制し、先に立ち上がった男がいる。尚書盧植である。
「尚書を案ずるに太甲は即位して既に明ならざるところがあり、昌邑王は罪を侵すこと千余り。故に廃立となったのです。今上はお若く、徳を失うような行いも無い。先例とは比べものになりませんぞ」
董卓はそれに答えず、席を蹴る様に退出した。これで今日の朝議は散会となった。
無論、董卓が愉快に思っていたわけではない。
「あの男を殺せないか?」
李儒が考え込んだので董卓はあわてて撤回した。
「いや、よそう。今はそれどころではない──奉先!」
「おう、親父!」
「永樂宮に向かう!供をせい!」
「かわいい女官が居たら持って帰っていいか?」
「いいとも。大事な息子の頼みだ」
この一夜の間に、董卓は呂布と親子の契りを交わしていた。




