5 授業
この件から、雍奴の空気は変った。劉備達は「無駄飯食らいの他所者」から、「頼れる味方」に変ったのである。劉備の配下と住民は和気藹々と交流をするようになった。
なんの馬が合ったのか、関羽と張飛は二人で連むことが多くなり、見る度になにかしらの力比べをしている。
その力比べを見物していた田豫は城門の外、僅かに離れた外側で劉備が一人、西に沈む夕日を見ているのに気付いた。
「県尉」
田豫は後ろから呼びかけた。
「玄徳、でいいぜ」
劉備は振り向きもしなかった。
「玄徳さん、今日は博打は無しですか?」
「皆忙しいからな」
田豫はその答えに微笑んだ。
「玄徳さんは烏桓撃退の実績ができるまで、配下の方々を博打名目で詰所に閉じ込めてくれてたんですよね?ありがとうございます」
劉備もフッと笑い返した。
「おいら達はゴロツキのヤクザ者だからよ。住民と喧嘩になっちゃ困るからな」
劉備は配下が雍奴の民と無用の圧轢を生まぬ様、交流に有利な状況を待っていたのだ。
「……玄徳さんは夕日がお好きなんですか?」
田豫は話の接ぎ穂にしたつもりだが、劉備は何も答えなかった。ただ、夕日をじっと見ていた。
それきり二人は黙り込んで、ただ沈む夕日を見ていた。二人とも無言だったが、田豫は気まずいとは思わなかった。
だが、陽が沈めば城門を閉めるのが定めである。城内に戻らねばならない。田豫は名残り惜しげに切り出した。
「そろそろ戻りましょうか」
それでも劉備はしばらく動かなかった。
充分待ったな、そう思った田豫がもう一度促そうとした時、劉備がぽつりと言った。
「あの夕日の方に洛陽があるんだよな」
田豫はうかつに答えると会話が終わってしまいそうな気がしたので黙って聞くことにした。地平に半ば埋まる様にして夕日がゆらゆらと揺れている。
「……おいら捨て子でよ。生きるためならなんでもして来た」
ますますうかつに答えられないになった。
「なんもないトコから来たおいらが、いったいどこまで昇れるのか。おいらは洛陽でそいつを試してみてぇんだ」
静かな口調だったが、田豫はそこに秘めた熱望を感じた。直感で理解した。劉備はどう振る舞えば洛陽で出世できるのか、判らなくて助言が欲しいのだと。
「洛陽……中央で出世するには条件があります」
今度は劉備は黙って聞く番になった。
「一番容易いのは宦官に金を払う事です。いや、昨今では直接帝から買うこともできますが」
そんな金があるはずが無いのは二人とも判っていた。
「地元有力者の子弟なら、孝廉や上計から郎になることもできるでしょう」
言わずもがなの話である。
「あとは評判が良い事ですね。学があったり、親孝行で有名だったり、容姿が優れていたり」
「おいらにゃ無ぇものばっかりだな……」
劉備が暗い顔になった。
「ええ。お判りのことでしょうがあえて列挙しました。しかし、全く望みが無いわけでもないですよ。太祖にだって何もありませんでしたが、波乱に乗じて至尊に昇ったのですから」
田豫は慰めなのか少しおどけて言った。
「そんな波乱が起きるものかね?」
「各地で反乱がある当世です。先日、富春の孫文臺という人が戦功を重ねて長沙の太守にまで昇っていますから、望みがないわけではないと思います」
田豫も少し暗い顔で付け足した。
「起きては欲しくないですけどね……」
今、この世は行きすぎた寛政により風紀が弛緩している。孝順皇帝が宦官の力で即位してから六十余年。暦にして一順の長きに渡り宦官が跋扈し民には積年の怨みが溜っているのだ。こんな事が長く続いていいわけがない。いつか猛政に振り戻る日が来るだろう。だが、その振り戻しは多大な犠牲を必要とする。そんな予感が有った。
今度は劉備が慰める様に言った。
「ま、そんな事態になったら、おいらがしっかり守ってやるからよ」
劉備は伸びをして踵を返した。
「結局、おいらは今まで通り公孫伯珪殿にお仕えして、戦功を上げるしかねわけだな」
「きっかけにはなりますね」
田豫も追随した。が次の田豫の一言で劉備の足が止まった。
「──でも今のままの玄徳さんじゃその先の出世はできませんけどね」
劉備は再度に向き直って田豫の顔をのぞき込んだ。
「玄徳さんには官界を渡って行く為の最低限の学識と礼儀作法がありません。士大夫の中に入って『おいら』とか自称してたら笑われておしまいです」
田豫の言に劉備は眉を寄せて抗議したつもりらしいが、目と目が離れていて不快を表明できていない。田豫は吹き出しそうになった。
「だから、私がお教えしましょう。洛陽で恥ずかしくないだけの振る舞いを、ね」
***
田豫の劉備に対する授業が始まった。
「こんなに書を読まなきゃいけないのか……」
田豫の自室には、何巻もの竹簡が積まれている。
「こんなに、じゃありません。これじゃ全然足りないですよ」
田豫はそこまで大金持ちでも代々の名家でもない。田豫が自ら借りて書写したものに限られた。その中でひときわうず高い竹簡の山を田豫は指さした。
「まず、この漢書百巻から始めます。政治というのは先例主義ですから、歴史を知らないでは始まりません。王莽までの歴史を学びましょう──それ以降の歴史が東観で編簒されてるらしいんですが、待ってられませんから」
その半分くらいの山を次に指さした。
「次は礼記四十九巻です。論語とかと違って実用的ですよ」
劉備の顔は読む前からうんざりしていた。田豫は顔色を見て言った。
「これでも厳選してますよ?」
「判ったよ、読むよ、読む。判らん字は教えてくれよ」
劉備は降参した。が、疑問に思った。
「……なんでおい……吾にそんなに良くしてくれるんだ?」
田豫は朗らかに笑った。
「玄徳さんの大望に感心したからですよ。自分の助けでこの先玄徳さんが本当に出世したら面白いじゃないですか」
続く言葉はかなり声が小さかった。
「──自分はこの雍奴から離れられず小成で終わりそうですから」
翌日、田豫の自室を尋ねて来たのは劉備だけではなかった。張飛が後ろに立っていたのである。そして自室の外で立っている筈の関羽まで。
張飛は熱の籠った目で言った。
「勉強って奴をしてみてぇ。俺、士大夫になりてぇんだ」
田豫はたじろいだ。
張飛の目に籠った熱は、劉備の熱望よりさらに高温な気がした。
「……でも、自分の蔵書、そんなにないですよ?」
張飛は小さな山を指さした。
「これがいい。少ないから」
「商君書ですか……」
法家の本である。
「これを読めば士大夫になれるか?」
「民に法を守らせれば兵が強くなる……みたいな内容ですが……士大夫も読むと言えば読みますが……」
「丁度いい。字も教えてくれ!」
田豫は頭を抱えたくなったが、張飛の後ろに控えている関羽にも声を掛けた。
「長生さんはいったい?」
関羽は張飛を指さした。
「俺がこいつに負けるわけにはいかん」
「こんなとこでも張り合うんですか……」
田豫は実際に頭を抱えた。
「俺はこっちにする。こいつのより多い!」
「左伝ですか……講釈してもらわないと意味判りにくいですよ」
「う」
田豫の言葉に関羽は怯んだ。
「それに卑猥というか……ちょっといやらしい話も含まれてますし」
「これ!俺はこれを諳んじてみせる!」
関羽は竹簡を鷲掴み力説した。顔が紅潮し熟した棗のようだった。
四人の勉強会がはじまった頃、洛陽から帝の崩御、そして大赦と改元の詔がやってきた。新元号は「光喜」。
だが雍奴は平和だった。烏桓は先の戦闘に懲りたのか再度襲撃して来る気配はなかった。勉強会の頻度は上がり、四人は急速に親密になった。
ある日、かねてからの懸案について田豫は相談した。
「長生さんは実は河東で役人を殺していて、塩商の伝手でここに逃げて来ているんですが……指名手配を逃れる方法はありますかね?」
重犯罪者は全国の郵を使い、全国各地に手配される。各地の警察機構である亭はその手配を見ているので、関羽が自由に振る舞えるのはこの雍奴くらいでしかない。
「手配で送達されるのは本籍、姓、名、字、人相、背格好。変えられるだけ変えちまえば?」
とは劉備の意見。
「親から貰ったものだ」
関羽は抵抗があるようだった。
「悪いこと言わねぇ。字だけでも変えた方がいい」
「むぅ」
名は滅多に使わないから困らないが、関長生、というのがどこかへ伝われば一発だろう。
「じゃあ自分が付けて差し上げます」
田豫の発案に関羽は渋々従った。
「名が羽、ですから、それに合わせて雲長、というのは如何ですか?長生から一文字引き継いでいますし」
名と字を関連付けるの昨今の流行である。
「であれば」
これには関羽も満足げである。
「あとは鬚でも生やせばそうそうは捕まらねぇだろうよ」
自身は鬚の生えていない劉備が言った。
「待ってくれ」
そこに物言いしたのが張飛である。
張飛は自分を指さしこう言ったのである。
「俺もそういうかっこいい字が欲しい!國讓さん、俺にも付けてくれ!」
一瞬の間があったが
「おめぇにゃいらねぇだろ?」
「益徳。いい字ですよ」
「かっこいいだろ?」
三人の反対で却下された。
勉強会から張飛が脱落してしばらくして、またも大赦と改元の詔が届いた。先日即位したばかりの幼帝が退位し、もっと幼い新帝が即位したのだという。
(洛陽でいったい何が起こっているんだろう?)
新しい元号は「永漢」。この詔は洛陽で大将軍が暗殺され、宦官達が殲滅されたという噂と共にやってきた。
(もしかして、今がその時なのか)
田豫は感じた。寛政の時代が終わり、猛政の振り戻しがはじまった事を。
(了)




