4 北芒
(足が……痛い)
陳留王はよろよろと歩いていた。九歳の少年は、物心ついてからずっと永樂宮の狭い範囲で過ごして来た。祖母の気分を害さぬよう、おとなしくおとなしく過ごして来た。だからこんなに歩いた事はない。
長雨で緩んだ地面は時折ずるりと滑べり歩きにくい。前を行く帝……兄も、同じくよろよろと歩いている。その前を行く宦官……張讓もよろよろしているので、急かされる事がないのが救いだ。
昼前の事である。突然、張讓と段珪が兄と自分の前に現れ、何十人かの宦官を引き連れて徳陽殿から脱出した。気が付いた時には都の外、広大な平地に連れ出された。陳留王はこんなに遠くまで見通せる場所に来たことはない。新鮮な驚きだった。
しばらくは二人を宦官が交替で背負って進んだが、宦官達も疲れたのか、いつのまにか二人も徒歩でとぼとぼと歩くことになった。
誰しもが無言で沈痛な雰囲気だった。空気を読む、という事の大事さを陳留王は学んでいたので、何も言わず唇を噛んで痛みに耐え、歩いた。
(お腹……)
空腹だったが、それを訴える事もしなかった。
やがて日が沈みはじめた。太陽が背中を通り左に向かって沈んで行く。目の前の影が長くなって行く。陳留王には屋外に出て過ごした事がなかったので、自分が北に向かって歩いていることは判らなかった。
だいぶ暗くなった頃、目の前を流れる水が塞いだ。轟々と茶色の濁流が左から右に荒れ狂っている。
「河?……全然ちがう」
横に居る兄がつぶやいた。陳留王がはじめて聞いた兄の声である。
永樂宮で半ば監禁されていた陳留王と違い、兄は霊帝の葬儀に参加し、北邙にある文陵に父を埋葬しに行っている。その日から降りはじめ、二ヶ月続く長雨が、黄河を荒々しく増水させていた。
奔流を前に宦官達の多くが膝をついた。
張讓が叫んだ。
「立て!こんな所でぐずぐずしている場合ではない!」
疲れ絶望し、濁流に心の折れた仲間を奮い立たせようとしている。
一番後ろに居た宦官が剣を抜いた。渠穆である。
渠穆は後ろから目を外さずにつぶやいた。
「追っ手だ」
***
袁術が殺戮に酔っている間も、帝、そして張讓の行方を追っていた者がいる。尚書の盧植である。
助け出した何太后を大将軍府に預けた後、盧植は宦官殺戮に参加しなかった。張讓はしぶとい。包囲された徳陽殿からいずれ脱出するだろう。そう考えていた。そこで徳陽殿の回りを巡回していたのである。
盧植の手には青銅の古風な鉞が握られている。宦官をただ意趣で殺すのではない。断罪するのだ。その決意の表明である。
たった一人で、徳陽殿の回りを何周したのだろうか?ふと違和感に気付いた。
徳陽殿の周囲は、袁術の配下によって薄い包囲が施されている。見張りが要所に立っている、という形である。その見張りの兵士が、前回通った時とは違う態度だったのである。緊張し、ピシっとした姿勢で立っていた。
(さっきはもっと楽な姿勢で怠けていた筈)
袁術の率いる虎賁は盧植の目から見てその辺のゴロツキである。事情は判るし理解もするが、とても近衛の精鋭とは言えない。だからどの見張りもそれなりに弛緩した態度であった。だが、この兵士だけ唐突に態度が変っていた。
盧植はその兵の脇を通り過ぎざまに兵の首に鉞を当てて凄んだ。
「おい、お前!宦官を逃したな!」
鎌を掛けただけで兵は白状した。数十名の宦官が子供を連れて北に逃げたことを。賄賂で買われた兵は、それを糊塗するためにこれみよがしに「きちんとした」態度を取ったのである。
あとは同じ事の繰り返し。朔平門、穀門と、賄賂で買収された兵達を追及し、盧植は洛陽の北へ出た。
洛陽の北はどんよりした丘陵が続いていて、宦官達の背はもう見えない。
(大将軍府に戻り、助けを要請するか?)
ちらとよぎった考えを一瞬で捨てた。
(追う)
応援を編成している間に宦官達がどちらに行ったか判らなくなるかもしれない。すぐに追いかけるべきだ。そう考えたのである。
穀門の兵に伝言を頼むと、盧植の追跡が始まった。盧植も徒歩だったが、子連れの宦官の足に負けるとは思わなかった。
***
閔貢は任務の途中、奇怪な男を見た。四つん這いになり、嘗め回すように地面を調べている。
閔貢は河南尹の中部掾である。治安維持の職責を持つ一員として声を掛けざるを得なかった。
「もし、そこの方、一体そこで何を?」
男はがばっと起き、閔貢を向いて逆に尋ねた。
「君は?」
見れば立派な士大夫である。手も膝も泥で汚し、何故か大きな鉞を抱えていたが、腰に黒綬を提げている。黒綬は千石か六百石の役人の証である。
「自分は王河南の御指示でこの辺を巡回していた中部掾でして」
河南尹の王允は自分の配下を洛陽外にばらまいていた。盧植と同じく、宦官が逃げ出す可能性を想定していたのである。司隷校尉の袁紹は洛外まで手が回らないだろう、そこまで想定していた。
自己紹介は泥だらけの手の平で遮られた。
「尚書の盧子幹だ。逃げた宦官を追い帝をお救いする。ついて来い」
それだけ言うと歩き出した。
「帝?」
「帝。街道をまっすぐ北に向かっている。子供の沓跡があった」
盧植の思いの外早い足に、閔貢は小走りで追いかける羽目になった。
だがその努力は報われた。轟々と黄河の音が響く小平津の岸で二人は宦官達に追い付いたのである。
***
盧植は両手に鉞を構え、帝と張讓に向かい突進した。渠穆が無言で立ち塞がる。
宦官一人程度。そう考えて強引に突破を図ろうとした盧植は、慌てて飛び下がった。
盧植はあらためて渠穆を見た。そして自らの持つ鉞を。鉞の先端、刃末の部分が欠けていた。鈍く断面が光る。渠穆が剣で斬り飛ばしたのだ。
盧植は渠穆を見つめて言った。
「帝をお返しいただこう」
この宦官を倒さねば帝にたどり着けない。そう結論したのである。
閔貢が渠穆を迂回して宦官たちに迫る。渠穆はそれを無視して言った。
「我らの練った撃剣の最高、その身で覚えるがいい」
この士大夫を倒さねば仲間を護れない。そう結論したのである。
「士には礼・楽・射・御・書・数の六つがあればよい。撃剣など覚える価値はない」
盧植は少し短くなった鉞を眼前に構えた。
「重い鉞で勝てると……思うな!」
渠穆の横薙ぎ一閃は盧植の目では捕らえられなかった。強い衝撃と共に鉞の刃先に綺麗な亀裂が入った。
「流星から作った宝剣だ。青銅なぞ容易く斬り裂くぞ」
渠穆は惚れ惚れとした顔で自分の剣を眺めた。だが、後ろで上がった悲鳴に顔色が曇る。閔貢が帝への道を邪魔する宦官を斬り捨てたのである。
渠穆が後方へ飛び、帝の居る方へ後退しようとする。あわよくば閔貢を斬る、そういうつもりである。盧植が間を詰め、背を向ければ撲殺できる距離を保った。閔貢の方へ振り向かせない為である。
何度かの牽制のやりとりの後、渠穆が更に後方に飛んだ。盧植が間を詰めようと追った瞬間、渠穆は逆に踏み込んで来て盧植を間合いに入れた。とっさに盧植も加速して踏み込み、剣を振られる前に体当りした。二人ははともにはじき飛ばされ、間合いが戻る。
盧植と渠穆が睨みあっている間に幾つかの悲鳴が上がり、そしてドボンと大きな水音がした。閔貢の追及に加え、ここまでの疲労と空腹が加わり、先を悲観した宦官達が黄河に飛び込みはじめたのである。
「おい、後ろでお仲間が河へ身を投げているようだぞ」
盧植の誘いに渠穆は動じなかった。
「皆がそれを選んだなら、完遂するまでお守りするまで」
そう答えて盧植から視線を外さなかった。
ここに至り、張讓の心も折れていた。洛陽を脱出したもののとっさの衝動であり、逃走に確とした計画があったわけではない。徒歩で黄河までやって来たが、ここから安住できる場所にたどり着けるなど無理な話。それを理解しながら敢えて目を瞑っていたのである。どこかで死ぬなら死体の残らない方が良かった。死後、王甫の様に市場で晒されるのは御免である。
張讓は脇に呆然と立つ帝に語り掛けた。
「臣たちが殄滅すれば天下は乱れましょう。陛下にはおかれましては今後とも御自愛の程を」
そう叫んで黄河に飛び込んだ。胸の前で小さな箱を大事そうに抱きかかえていた。段珪も続いた。そして他の宦官も黄河に次々と身を投げた。
帝と陳留王にとって、人が目の前で死ぬ、というのははじめての体験で、二人は恐怖のあまりその場から逃げ出した。十四と九つの子供なのだ。
秋の太陽はどんどんと沈み、曇り空もあって急に暗くなった。
(見えているうちに決着を付ける)
盧植と渠穆、二人ともが決意した。向かい合う互いの輪郭が怪しくなって来た。八月の終わりである。月明りは期待できない。
盧植が鉞を胸の前に掲げた。刃の平を盾の様に掲げてドスドスと突進する。
「遅い!」
渠穆は皇室御物を司る尚方監として、この宝剣、流星剣の斬れ味を知り尽くしていた。打ち合いでもなくかざした青銅の鉞など据え物斬りに等しい。両断は可能と判断した。
渠穆は右手で横薙ぎに剣を走らせる。切先が青銅に斬り込む感触──次の瞬間、剣はおそろしい重さになった。鉞に剣が食い込んだ瞬間、盧植が鉞から手を離したのである。
剣は鉞の半ばまで食い込み、剣と鉞の重量が全て渠穆の右手に掛かった。鉞を捨てた盧植が渠穆の懐へ飛び込む。反射的に右手の剣を支えようとしていた渠穆はとっさの対応が遅れた。盧植の小刀が渠穆の胸を突き刺した。小刀は竹簡の誤字を削る為の短い物だが、心臓を正確に刺し渠穆は絶命した。
閔貢が盧植に報告した。
「帝が居られません」
「しまったな」
盧植の後悔は帝に逃げられた事に関してではない。松明などの明りを持って来なかった事である。暗闇の中、手探りで帝をお探ししなければならない。
「閔君は河沿いを下流へ向かってくれ。私は上流をお捜ししよう」
***
八月の終わり……つまり新月に近い秋の夜。天気も悪くほとんどまっくらだった。
帝と陳留王はとぼとぼと河沿いの道を歩いていた。
どこが道で、どこが河か区別もできないが、左でごうごうと音を立てているのが河だと思われた。落ちたら宦官達の様に流されてしまう。二人はごうごうという音から少し離れる様に下流に向かって歩いた。
空腹で、疲れていて、木沓の中の足は豆の潰れる激痛を訴えていた。
帝は無言だった。陳留王は前を行く帝の姿が見えなくなりそうなので、不安になって声を掛けた。
「あ……兄上……」
帝は無言で歩き続ける。陳留王はもう一度呼んだ。
「……兄上!」
今度は帝から返事があった。
「陛下、だ」
それだけ。
陳留王は呼び直した。
「陛下……」
しばらく歩いてから、帝から返事があった。
「なんだ?……」
言ってから帝は続けた。
「……直答を許す」
陳留王は勇気を奮った。言っても拒絶されそうな気がした。乾いた唇がなかなか開かなかった。ようやく意を決して口を開いた。
「……おててをつないでほしい」
答えは無かった。が、陳留王の左手はあたたかい手に包まれた。
ふたりはとぼとぼと、河沿いの道を歩いた。真っ暗な中、無言で、手をつないで歩いた。
会話はなかった。ごうごうという河の音だけだった。
「蛍……」
帝がつぶやいた。
だが歩き続けて判った。蛍では無かった。小さな灯が建物から漏れていたのだ。
その家は静まり返っていた。誰も居なかったからではない。皆地面に身を投げ出し、平伏を続けていたからである。豪華な貴人の衣装をした子供が二人、夜間突然尋ねて来たからである。どうすればいいか判らなかったのだ。
小さな方がつぶやいた。
「水……それと食べもの」
それでようやく硬直が融けた家人達だが、王侯の子をどう扱っていいのか判らない。おそるおそる、水を差し上げた。
閔貢がこの家に到着した時、家人達はほっとしてへたり込んだ。
「馬か車をお借りしたい」
これ以上二人を歩かせるわけにはいかなかった。
馬なぞ飼っている筈もなく、ましてや馬が繋がれた傘付の車があるはずもない。だが露車が提供された。洛陽の市に人力で荷物を運ぶ為の、ただ荷台に車がついただけのもの。
二人を載せた露車を閔貢が曳いた。二人は荷台で眠りこけていた。
***
夕方が来る前に殺戮は終わっていた。宦官の居なくなった洛陽南北宮に帝もまたおわさぬ事が確定した。盧植の伝言は大将軍府には届いていたが、大将軍府を顧みるものもいなかったので遅れて伝わったのだ。
洛陽中での帝の捜索と、北の殻門から脱出したという話は、平樂觀に避難していた士大夫達にも伝わった。そこに兵を参集していた董卓にも。
「迎えに参ろう」
明確な場所は判らない。多数の斥候を放ちながら、松明の列が北へ北へと向かう。
董卓の斥候が閔貢と露車に接触した。使いが走り、董卓が急行する。松明を持った兵を前に走って先導させ、董卓はその灯りで馬を駆った。
董卓が眠りこける帝と陳留王に拝謁したのは北芒阪、という所である。
「ご苦労だった。後はこの并州牧がお守りしよう」
閔貢は尊大な労いに閉口したが、二千石、それも武装兵を率いた二千石に歯向かうほどの気骨は持ち合わせていなかった。
董卓は楽々と二人を馬に抱えあげた。起きた帝がむにゃむにゃとつぶやいた。陳留王は目覚めると、帝から直答の許しが出ていないので謁者の代わりを勤めた。
「何者か?」
「董卓が参りましたぞ。お抱きしますのでおつかまりを」
二人を揺らさないよう、董卓は夜道を慎重に進んだ。日が昇り周囲が明るくなる頃、董卓とその兵は洛陽に入城した。
これにより漢家は事実上の滅亡を迎える。張讓の遺言は恐ろしく適切だったことになる。
(了)




