1 報復(光喜元年八月庚午/189年9月22日)
突然の悲報に大将軍府では嗚咽が途切れなかった。何進は決して有能でも高潔でもなかったが、人格的には親しみを持つものが多く、そして大将軍になる間に多くの士大夫を引き立て、要職に付けてやっていたからだ。
その悲しみに満ちた空間で陳琳は進言した。
「即刻兵を挙げ、宦官共に反撃すべきです」
袁紹は苦渋の表情で首を横に振った。
「大将軍という旗印はもうないのだ」
洛陽内で兵を使うのは反乱以外の何者でもない。まして帝や皇太后を拉致しようというのだ。大将軍の兵権と外戚の威光あってようやく正当化できるかどうか。だがその何進は殺されてしまった。大逆で棄市される自分が袁紹の脳裏にちらついた。
「司隷校尉の解任が正式に伝達されたら、もはや勝ち目がありませんぞ」
荀攸の言に陳琳も頷いた。
挙兵しようがおとなしくしていようが、勝とうが負けようが、どちらにしろ命はないという事か。
袁紹はようやく決断した。
「兵を……出す。洛陽の宦官を一掃する!」
族弟の袁術が立ち上がった。
「虎賁が出る。お前が州郡に出した『宦官の親族』も対象か?」
袁紹は答えた。
「そう、そうだな。宦官を捕まえても親族に人脈と賄賂を使われたらたまらん」
袁術はにやりと笑った。
「判った。任せろ」
袁術はどすどすと退出していった。
***
何進の第宅にも悲報は伝わった。妻は悲嘆に暮れ、婢達もさめざめと泣いている。
呉匡も涙を流し、嗚咽していた。葬儀の場ではないから、哭まではしなかったが、何進の私兵の隊長として引き立ててもらい、生活できるようにしてもらったのだ。涙を流すに足りる恩が何進に対してあった。
そんな中で何進の長男の様子は違っていた。唇を噛み、手をぎゅっと握り、目に力を入れ、ぐっと涙を堪えている風だった。
「小郎君、泣いてよろしいんですぜ」
同じく部隊長格の張璋が慰める。子は親の死に対し、やせ衰えるほどの悲嘆をして当然なのだ。
だが少年は鼻声で叫んだ。
「ぼくは大将軍の子です。仇を討ってから泣きます!」
少年の宣言に、一同の嗚咽は一層高まった。
張璋は呉匡を振り向いた。呉匡は無言で頷いた。
張璋は少年の両肩に手を掛けていった。
「小郎君、ここはあっしらが仇を討ちに行きます。首尾をお待ちくだせぇ」
呉匡は何進の第宅を護っていた私兵団を二つに分け、その片方が出撃準備を開始した。
想定外にも兵達は仇を討ちたいと出撃を志願するものが多く、留守居してもらうよう説得するのに呉匡と張璋は苦心することになった。
***
「集合!」
虎賁の寺に袁術の声が響く。
ぞろぞろと兵が集合する。
「宦官を殲滅する。まずは永樂宮を包囲し、玉体を確保する」
兵達は冷静だった。しかし整然とは言いがたかった。それもその筈。虎賁はもはやかつての虎賁ではない。この数ヵ月の間に袁術の私費で雇われた傭兵集団になっていたからである。
九年前の光和元年。霊帝は虎賁と羽林の売官を開始した。近衛になって帝を護った、という名誉を求め、小金持ちが続々と入隊した。そして屈強な兵に置き換わっていった。霊帝の崩御で売官は沙汰止みになったが、虎賁の弱体化は著しいものがあった。そこで袁術は売官で入った兵を追放し、私兵に置き換えたのである。彼らには近衛としての気品や統御はないが、宦官になびく役人根性もない。
(本初、お前にこれは真似できないだろう)
一族の傍流にすぎない袁紹と違い袁術は汝南袁家の正統を嗣いでいる。四世に渡り三公を排出した家の富が袁術にはあった。私費で虎賁を再建するなど容易いことだ。
「南宮の永樂宮へ出陣せよ!」
虎賁中郎将の鎧を纏い、気が大きくなって出撃の下知を出した袁術に、ひたりと寄りそう影があった。
(将軍、例の件は如何いたしましょうや?)
虎賁の隊列が足を踏みならす中でぎりぎり聞こえる大きさの声で、影は言った。
「宦官の親族も一掃する……予定通り、な。だが本番が始まるまで待てよ」
「諾」
影は消えた。
***
「攻め続けろ!門を破れ!」
大将軍の遺命を盾に南宮に突入した呉匡、張璋の率いる軍勢は、いち早く永樂宮にたどり着いた。
永樂宮の正門である九龍門は堅く閉ざされ、武装した中黄門達が守備している。
守備する宦官には弩の様な防御兵器はないが、呉匡らの兵にも攻城兵器があるわけではない。塀を乗り越えようとする呉匡勢と、剣を振り回して登ってくる兵を落す宦官との間で早くも膠着状況にあった。
「どっかの兵が接近してきた!どうする?」
張璋が後方より別の軍勢が接近してくると警告してきた。
自分達は所詮私兵である。それが南宮に乱入し皇太后の居所を攻めているのである。宿衛の兵が止めに来る事は容易に想像できた。
「半分を後方に回そう。指揮は頼めるか?」
迎撃を決意した。攻め手は薄くなるが、仕方がない。相手は宦官ではない正規軍。それとの野戦になる。
(邪魔はさせねぇ)
張璋は決意を固めた。
が、その決意は苦笑に変った。接近して来たのが虎賁を率いる袁術だったからである。何進の第宅で、大将軍府で、幾度と無く顔を合わせた間柄である。味方だ。
「故吏として仇討ちとは、感心な事。同心させてもらおう」
大げさに感心してみせる袁術に、二人は少し微妙な顔になる。上司の部下は吏であるが、元上司に対しては故吏となる。思わぬ所で何進の死を再認識させられ、二人は悲しみを新たにした。
(そうか、俺達)
(故吏になったんだな)
(いや、小郎君がいらっしゃる)
目と目で会話する二人であるが、とはいえ、攻めあぐんでいる所に援軍はありがたい。
「虎賁殿、どう攻めます?」
袁術は即答した。
「火」
「え?」
呉匡は驚いた。
「陛下に害が及びませんか?」
「焼くのは九龍門だけだ。この所の雨で建物は湿っている。類焼なぞせんよ」
門が焼け落ちれば兵の突入を防げなくなる。そうすれば防衛できないだろう。士気は崩壊し、宦官は降伏する筈。
「あとは包囲を緩めず宦官共を逃さないことだ」
この事態に帝……いや、皇太后がどういう詔を出すか判らない。永樂宮から外への連絡を防ぎ、詔が公布されないようにし続ける必要がある。
虎賁寺には宿衛用の松明の備蓄がある。それが運ばれた。火の着いた松明が門に投げ込まれる。それは門を焼く事なく、炎は門を舐めて湯気だけを上げた。
「もっとだ。もっと投げろ」
次々に松明が投げ込まれ、日が暮れる頃にようやく門前に豪火、といっていい炎が上がる。だが、
「あ、くそ」
時ならぬ小雨で火勢が弱まる。呉匡は張璋に目配せした。
(これは)
(掛かりそうだ)
二人は部隊に交替での休止を命じた。
「ええい!埓が開かん!」
夜半になって袁術が叫んだ。
「東宮を焼け!」
皇太子のための東宮であるがしばらく使われていない。内側から放火された東宮は九龍門よりも遥かに大きな炎を上げた。
「西側もだ」
永樂宮の両側の宮が焼かれ、天を衝く炎を上げる。
***
「本初がはじめたようだ」
自宅から、遠く洛陽宮に上がった火の手、そして黒煙を見て曹操はつぶやいた。
「お前はどうするんだ?」
同じ煙を見上げながら、夏侯惇は答えた。
この件に関し、曹操は中立を保とうとしていた。宦官殲滅は合理的な解決策ではないと思っていたし、自分の立場もややこしい。
「……情報が必要だな」
だが事が始まった以上、どこまでも中立が保てるとは思えない。中立はどちらか、あるいは両方から敵視される可能性がある。それに
「本初が失敗したときに救いの手を伸ばしてやれるようにしないと」
それはそれで、偽らざる気持ちであった。
「俺が出ようか?」
「いや、事は宮中だ。元讓は留守を頼む」
夏侯惇には宮中に入る資格がない。曹操は兵力としては事実上解散したとは言え、校尉から解任されたわけではない。宮中に入れる以上、自分自身で情報収集するしかない。
「チビ達を守ってくれ」
卞夫人が産んだ子は三歳になっていた。
夏侯惇はドンッと自分の胸を叩いた。
***
「何事です?」
東西宮の炎上で永樂宮の正殿も騒がしくなり、何太后はようやく異常に気付いた。
張讓が参上し、無表情で報告した。
「大将軍の謀反でございます。宮に放火し、尚書台を攻めております」
大将軍なぞとっくに殺したがそうも言えない。そして尚書台は攻められてはいなかったが包囲されている張讓に正確な状況は掴めていない。
「なんて事を……」
何太后は信じられない、という顔で立ち尽くしていた。
張讓達宦官は微動もせずお待ちした。しばらくして、何太后は肩を落し、疲れた顔で言った。
「兄の暴挙を止めなければ。詔を出します。中書をこれへ」
その命令に張讓の口が僅かに歪んだ。
(大将軍の事をご報告するか?いや、兄を我々に殺されたと知れば、この女は即座に降伏しかねない。騙してでもこちら側の権威であり続けてもらわねばならぬ)
「中書を呼びます。仲裁の詔、お願い致します」
どうせ止まるわけが無い。詔は握りつぶすこととした。
***
西園平樂觀。その建物に入る手続きなど取りようがないので、董旻は近くに天幕を張るよう部下に命令した。
雨が降ったり止んだりをくりかえすあいにくの天気で、天幕の設営自体に苦労し、全てが終わった頃には夕方となった。
「あれは?」
部下の注進で天幕を出た董旻が見たのは洛陽の方角の赤い光。この前の猛火とは違い、それほど明るくはないが、確実に洛陽宮内で発した光である。
「火事か?」
董旻は何かが洛陽で起こっている事を知った。だが何か今すぐ行なえる事が有るわけでもない。
(明日、伝令を出して兄上に指示を仰ごう)
土地勘の無いこの辺りで、騎兵を放って夜道に兵を損なう事は避けたかった。
***
「やあ、朝飯は食ったかい?」
張璋は気さくに挨拶して来る袁術に答えた。
「まだです。……朝が来ちまいましたね」
事態は膠着状態のまま、一夜が明けた。折からの雨で湿気をたっぷり吸った門は、少々の炎にびくともしなかった。
「力攻めしますか?」
張璋は兵の士気を気にしている。我々はともかく、兵達の仇討ちの高揚はそうそう長持ちしないだろう。
「まだ早かろうな。我々は宦官を殲滅したいだけで陛下を害したいわけじゃない」
力攻めは玉体に瑕が付く可能性を否定できない。
「だが、今日一日だな」
袁術という貴公子が、存外短気で我慢が利かないという事に張璋は気付いていた。
***
「文和?」
董卓の質問に、賈詡の答えは一つだった。
「なんか政変があったんでしょう。我々も洛陽に行った方がいい。それも急いで」
状況がわからないまま、勝手に反乱軍にでもされてはかなわない。この状況で生き残るにはこちらが主導権を取る必要がある。
董旻からの使いの騎兵が指示を持ち帰るべく、待機している。賈詡は董卓にお願いした。
「先遣隊は急ぎ洛陽に入城いただき、情報収集をお願いしたい」
「フン、忙しくなるな」
董卓は胡床から立ち上がり、てきぱきと指示を始めた。
***
「鮑信は?丁原の使者は?」
「使いを送ります!」
部下達が慌しく動き出す。
大将軍が殺され、永樂宮の包囲戦が始まってから一日が経った。袁紹は大将軍府から動いていない。兵力が不足しているのである。鮑信、王匡、張楊と張遼。彼らが持ち帰る募兵が頼りだった。
(間に合わないかもしれない)
焦りが袁紹を支配していた。
「状況は悪くはありませんよ」
荀攸は袁紹の焦燥を見て言った。
「ここに至るまで邪魔が入っていない。これなら虎賁だけで事は為せましょう」
洛陽宮には虎賁に並ぶ近衛である羽林が居る。宿衛である屯騎、越騎、歩兵、長水、射聲の五営が居る。永樂宮や東宮が放火される、という異常事態が起きているのにこれらの部隊に何も動きがないのである。
「様子見、か?」
「ええ」
羽林中郎将も、五営を統べる北軍中候も、袁術の攻撃を見逃してくれている。普通であれば反乱として鎮圧に来るのが職責だろうに。だが、積極的に味方してくれている風でもない。
「追々董卓も来るでしょう」
それでようやく袁紹は思い出した。
「平樂觀に董卓の先兵が居る筈だな」
「連絡をつけますか?」
「ああ。あと大門に通達し、兵を通す様伝えろ」
洛陽市街に兵を入れる。その決断を行なった。
***
洛陽の所属する郡、河南尹は中央のくびれた空中独楽の形をしている。洛陽はその西側の端にある。くびれた中央部にあるのが成皋県である。
洛陽より遥か東、故郷兗州泰山郡での募兵……つまり実家に私兵を借りに行った鮑信と王匡は、千余名の兵を引き連れて洛陽へ戻る途上、この成皋県で袁紹からの使いと出会った。
「大将軍が?」
鮑信は驚愕した。何進が宦官に殺された、というのだ。
泰郡の鮑信は子供の頃から節義を弁え、寛大で人を愛し、それでいて沈毅で謀のできる儒者として知られていた。だがこの時の鮑信は沈毅にはほど遠かった。
「あと一歩の所で間に合わないとは!」
悔やむ事しきりであった。だが、動揺していたのは鮑信だけではない。
「洛陽で何が起こっているのかね?子細を、子細を教えてくれ……」
使者の語る洛陽の状況を王匡は熱心に聞いていた。
何進が孟津を焼かせ董卓を呼び寄せたので、恐れた何太后が中常侍達を追放したこと。追放された筈の中常侍達が後宮に戻り、勝ったと思った何進を偽詔でだまし討ちにした事。虎賁が永樂宮を焼き討ちにしている事。出発時点で他に戦闘はなく、洛陽市街は平穏である事。
最後のを聞いてほっとした顔の王匡に鮑信は驚いた。この肝の太い先輩が動揺するのを見たことがなかったからだ。
自分を観察している鮑信の視線に気付いた王匡は、恥ずかしそうに言った。
「孫がな、洛陽に居るんだ」
王匡、字は公節。同じ泰山の出で、財を軽んじ施しを好み、仁侠を以て知られていた。つまり太學の評価だと厨、という事になる。実際、やはり同じ泰山の出で八厨の一人である胡母班を娘婿にしていた。
「公節殿」
鮑信は優しい顔になって言った。
「お孫さんの為にも急ぎましょう」
***
バン、という大きな音とともに、門の太い柱に罅が走った。二日近く炙られ続け、表面の炭化した木材の割れ目に、新鮮な木の色が覗く。
「おお」
門の木材は乾燥しバチバチと音を立て、門全体の各所が煙を吐いている。丸一日続けた放火がようやく功を奏しはじめたのである。
「今夜中にいけそうですな」
呉匡は安堵の息を吐いた。間もなく日が暮れる。もう一夜を外で過ごすと士気はぐんと下がるだろう。その前に終えてしまいたかった。
袁術は大声で門に向かい叫んだ。
「張讓、降伏して出て来い。お前達十常侍が出て来たら他の宦官は許そう!」
反応は無かった。
「離反者、出ませんな」
張璋は小声でつぶやいた。
「宦官共も判ってるんだろうな」
呉匡も小声で答えた。包囲する側としては宦官を生かして逃す気などなかった。その気持ちが伝わっているのだ。
「突入に備えて兵を戻そう」
包囲は薄くなるが、呉匡は遅れを取る気は無かった。
***
夜空を焦がさんばかりに炎上を始めた九龍門を見て、趙忠は他の十常侍を引き連れ、正殿に戻った。
「陛下、ここは危険でございます。北宮に避難いたします。御準備を」
「矢止めの詔は出した筈でしょう?」
「無視されております。まずは御身の安全を」
「でも……」
何太后は趙忠の説明に訝しげだった。張讓はそれを遮った。
「臣が帝をお連れいたします。段中常侍が畏れながら陛下を。陳留王は高中常侍がお連れします」
有無を言わせぬ口調だった。
***
九龍門の燃え落ちるのを待つほど、袁術の気は長くなかった。
「引き倒せ!」
兵達に接合の弱った部分を狙わせ、棒で突き、あるいは戈で引かせた。
荘厳だった九龍門はその自重でゆっくりと歪み、門扉が倒れた。
「突入!」
虎賁が、何進の私兵が、永樂宮に雪崩込む。
呉匡と張璋も、兵と先を争ってまだ燃える門の隙間を駆け抜けた。
前庭に入る。思っていたより広い。九龍門の炎に照らされ、各所に立ちすくむ宦官達が見える。
呉匡は剣を抜き、宦官を斬りながら叫んだ。
「冠に金の透かし飾りを付けている奴を捜せ!」
夜でも判る中常侍の特徴である。
「宦官は全部殺せ!」
後ろから袁術の叫びが聞こえた。
呉匡と張璋は思わず顔を見合わせて、クスリと笑った。
「そりゃそうだ」
「でも前庭に居るはずはないな」
奥に居る筈である。二人は正殿に走った。
宦官は全員が帯剣している。無抵抗には斬られてはくれない。苦労しながら前進し、永樂宮の正殿に入った。獣脂の明りが豪華な調度を照らしている。
「おかしい。気配がない」
前庭の宦官達は正殿に近寄らせまい、と、正殿を守ろうとする気迫が見えた。だが正殿の中の宦官は逃げまどうばかりで、特定の方向を守ろうとする意志が感じられない。
「逃げられたか?」
逃げる宦官の背中を斬りながら、奥へ奥へと向かう。
誰も居ない豪華な房を抜け、とうとう裏口に付いた。
「やられた」
北の土塀に人の通れる穴が穿たれていた。
***
時は少し遡る。
突然、永樂宮の北側の塀にぽっかりと穴が開いた。
二日に渡って攻められている九龍門は永樂宮の南の門である。九龍門が崩壊間近という状況で北の包囲は手薄になっており、監視の虎賁達もずいぶん広い間隔で包囲する羽目になっていた。
その穴から出てきた人影は素早かった。手近にいた虎賁に襲い掛かり、一瞬で刺した。悲鳴も上げずに虎賁は死んだ。暗闇に鈍い光を残して剣を収めたのは渠穆である。
ついで張讓が帝、高望が陳留王、段珪が何太后を、それぞれ背負って穴から姿を現した。最後に趙忠がゆっくりと出てきた。
あと三日で九月になろうとする暗い夜。月は無く、雨も降っている。脱出にはおあつらえ向きだった。
「いくぞ」
永樂宮の北に出た一行は、南宮と北宮を繋ぐ複道へ向かう。張讓を先頭に、老宦官の一行はよたよたと北へ走った。
***
宦官の死体がごろごろと転がる前庭で、胡床に座ったまま袁術は言った。
「十常侍どもの行き先?後宮か、北宮か、だろうな」
(そりゃそうだろう)
それは当り前すぎて張璋にもとっくに出せていた答えだった。
「ま、両方と言う可能性もある。まず後宮を攻めよう。どうせ全部殺すんだ。近い方からいこう」
「北宮に逃げられたら、反撃を許すかもしれません」
袁術は吐き捨てる様に答えた。
「そっちは本初がどうにかするとさ」
心底つまらなさそうだった。
***
段珪は自分が張讓、高望から段々遅れて行くのに気付いた。無理もない。二人と違って自分は大柄な何太后を背負っているのだ。よたよたと歩くのが精いっぱいである。
「急げ」
趙忠は急かすが、それで速度を上げられるわけでもない。背負うのを替わってほしいぐらいだが、大長秋にそう言えるほど段珪は強くない。
「降ろしなさい」
段珪に背中から声が掛かる。
「降ろすのです。私が兄に話をすれば済む事です」
段珪は和解が無理であることを知っている。いや、何太后と士大夫は和解できるかもしれないが、自分達の命は助からないだろう。この苦境をどうにかするには、皇太后と帝の身柄を確保したまま安全な場所に逃げること。体勢を整え、反撃するのはそれからだ。
ようやく複道の入口の篝火が見えてきた。先行していた筈の張讓らは居ない。置いて行かれたのだ。
横を歩く趙忠が緊張したのが判った。もし複道の入口を守る宿衛の兵が敵に回っていたら、我々はここで終わりなのだ。
「皇太后陛下である。道を開けよ」
宿衛は素直に従った。段珪は安堵のため息をついた。
複道は、南北の二宮を繋ぐ通路であり、その名の通り複数の通路を束ねたものである。一段高いところにあるのが皇族専用の通路である。当然段珪らもそこに入った。
ここは両側に壁が作られていて矢を射かけられるような事もない。下の官僚用通路からは高さで分けられており、登って来る様な事もないだろう。窓から月も差さない暗い夜だがここ皇族の通路は常夜の燈火で照らされていた。
「北宮に行ってはいけません!兄と話ができなくなってしまう!」
何太后は背中で暴れ、膝が段珪の脇腹に突き刺さった。
「うっ!」
段珪はたまらず廊下に膝を突き、何太后が転がり落ちる。痛みにかっとなった段珪は叫んだ。
「あんな奴とっくに死んだわ!会いたいなら会わせてやろうか!」
「ああっ!」
反射的に起き上がろうとした何太后は、段珪の言葉の意味を理解し、手足の力が抜けてまた廊下に伏した。
趙忠がすばやく何太后のそばに駆けつける。
「陛下!陛下!不孝な事故だったのです!」
何太后を助け起こしながら、段珪を睨み付ける。だが何太后は趙忠の手を振り払い、ぶるぶると体を震わせながら、廊下の壁に寄りかかって立ち上がる。
「近寄るな!お前達なぞ信用できるものか!」
叫んで趙忠からも段珪からも身を遠ざけようとした。
趙忠が目配せした。「拘束し脅してでも北宮に連れて行け」との指示である。段珪は頷いた。
その瞬間である。
「お上の通路から女性の声とは!もしや皇太后陛下であらせられるか?」
大声であった。何太后には初めて聞く声だが、趙忠らにはすぐに判った。
「尚書!」
複道の下の階に尚書の盧植が居るのだ。
何太后は窓の下に向けて叫んだ。
「助けて!!」
階下から腹に響く大きな声が轟いた。
「承った!」
段珪は何太后を後ろから羽交い絞めに捕まえ、窓から引き剥す。
「馬鹿が!ここまで上がって来れるわけがなかろうが!」
そう嘯いた次の瞬間、窓に戈の先が現れた。下の道にいる盧植が掲げているのだ。
戈の青銅の援がガッと窓に引っかかる。援は版築の窓を切り裂き、視界から消える。が、再び現れ、窓の固い所を探る。
「昇って来る気か!」
あの恐ろしい尚書は戈を登り綱代わりに、この階へ昇る気なのだ。
「ひぃいいい」
段珪は悲鳴を上げ、逃げ出した。
「あ、馬鹿」
何太后を手放した段珪に趙忠は舌打ちする。自分が捕まえに向かうが
「助けて!」
なんと何太后は窓から飛び降りた。
「しまった」
驚いたのは盧植である。見上げる窓から大柄な女性が身を乗り出し、間髪入れず飛び降りて来たのである。
戈を放り出し、両手と全身で重い女体を受け止める。地面に転がり、ようやく勢いを殺した。
(これは宦官を追うどころではないな)
ぐんにゃりした高貴な女性が腕の中に居る。感慨とか興奮とか以前に、彼女をどこでどう保護するかなど盧植には困惑しかなかった。




