2 太陽を蝕む
太尉の馬日磾は午後の空がゆっくり暗くなるのを静かな気持ちで見つめていた。
中平六年四月朔日。太陽は右端からゆっくりと欠け始めた。既に太史令は日食の始まりを宣言しており、後は見守るまでである。
百官が見上げる中、天は夜の暗さを湛え、やがて金色の環が燃え盛り、星まで燐きはじめた。
日食は天から帝に対する譴責である。帝は素服を着てそれを受け止め、謝罪として様々な策を詔として発するのが通例である。しかしながらこの場に今上は列席されていない。嘉徳殿の董皇后より、今上のご病気による欠席が伝えられたからである。
「では、自分の罷免で天への回答とさせていただきましょう」
天の譴責への回答として馬日磾は三公の筆頭、太尉である自分の罷免が適当と考えていた。太尉は天を司る。陰陽が和さず、季節が狂い、星辰が度を失い、災変常ならぬ。そういう時に責を負うのが務めだからである。
「後任は?」
司徒の丁宮に問われて馬日磾は答えた。
「劉伯安殿がふさわしいでしょう」
幽州牧の劉虞は烏桓と交渉し、先月幽州反乱の主魁、張純の首を送らせることに成功していた。これにより張純の乱は終結し、遥か遼東で包囲拘束されていた公孫瓚も解放されたのである。王族の裔でもあり、人望も実績も申し分ない。
懸案であった董卓も并州牧を了承し移動を開始している。彼が到着すれば并州の治安も改善されるだろう。汝南や徐州青州の黄巾も鎮静化の見込みである。あとは帝の本復をお待ちするのみ。
馬日磾はようやく肩の荷が降りた気がした。間違っていた。
***
南宮の嘉徳殿の外門で昼の警備にあたっていた羽林左監の許永は、唐突に蹇碩から声を掛けられ、恐怖の混じった驚きに襲われた。
「帝が夢を見られたそうだ」
「は?」
許永は何事か判らず聞き返した。
「帝が夢に見た出来事をお話しくださった。その意味が左監なら判らないだろうか?」
「……お聞かせください」
今一つ要領が掴めなかったが、帝のお言葉である。許永はとりあえず謹聴することにした。
「夢枕に威宗様が現れて、大変お怒りで今上を叱責なされたらしい。『宋皇后に何の罪過があって邪蘖の言を聴き命を絶たせたのか?渤海王は自らを罰したのに、なぜ誅されねばならなかったのか。今宋氏と渤海王は天に訴えているぞ、上帝は怒りに震え、罪は救いがたいぞ』──これはどういう意味だろうか?」
許永は目の前の蹇碩を見て少し考えた。あからさまな宦官批判はできない……だが宋皇后の一件は王甫のせい、という事になっている。構わないだろう。
「宋皇后は陛下と共に宗廟を受け継ぎ萬国の母となられたお方です。歴年久しく悪い話など聞きませんでしたのに陛下は讒言をお聞きになってしまわれました。渤海王は威宗様の弟君であらせられ、国に於いて藩を奉じられ、特に過ちなどないのに陛下は不審を抱かれ、遂に辜に伏されてしまわれました。宋氏を改葬し魂を安んじ、流刑となった家族を戻し、渤海王の家を再興なさってください。それで咎は消えましょう」
蹇碩は話を聞き終えるとただ一言
「上聞しよう」
そう言って嘉徳殿の中に戻って言った。
(陛下のご病状は相当お悪い様だな)
どう考えてもうわごとである。許永は周囲に居る羽林の兵士達を見た。皆ざわざわし、動揺しているのが見えた。先程の蹇碩の話が聞こえたのだろう。釘を刺した。
「この件、口外した者は罰する!」
と言ってもこういった箝口令に効果がない事を許永は知っていた。
(しかし、陛下は威宗様の玉顔をどこでお知りになられたのだろう?)
ちらりと疑問が沸いた。
***
南宮の嘉徳殿の奥。皇帝の為の大きな牀に痩せ衰えた青年が横たわっている。
音がしないよう静かに宦官達が入室した。病身の帝をお起こししてはならない。その配慮である。青銅の爵を掲げた蹇碩達である。
帝、劉宏の頭が僅かに蹇碩の方へ傾いた。
「お騒がせして申し訳ございません。薬湯を持って参りました」
劉宏からの応えはない。
「恐れながら玉体にお触れさせていただきます、お許しください」
蹇碩の太い腕が帝劉宏の頭の下にさしこまれた。
「お加減は如何でございますか?」
「……と」
何か答えようとした劉宏は激しく咳込んだ。もう一方の手でかき抱くように背中をさする蹇碩に、劉宏は途切れ途切れにつぶやいた。
「吾の体は……どうして……しまったのだ……」
劉宏はこの一月、咳の発作や身体の麻痺に苦しめられていた。下痢が続き別人の様に痩せこけている。肌にも染みや黒ずみができ、知っていなければ半年前に無上将軍として西園で意気軒昂を示した人物とは判らないだろう。
「しっかりお休みになり、早くお治しになることでございます」
劉宏は掠れた音をさせて息を吸うと、ぽつりとつぶやいた。
「碩、尚書をここへ……」
「気弱な事を申されますな。じきに良くなりますとも」
蹇碩は励ました。
「陛下、薬湯を」
宦官達が爵から移した杯を蹇碩が劉宏の口元へ運ぶ。ぬるい薬が劉宏の口に流し込まれる。劉宏は朦朧としていて薬湯を誰も嘗薬していない事に気付かなかった。
宦官達は帝に尻を向ける不敬を犯さぬ様、後ずさりに退出していく。最後に蹇碩は深々と拱手の礼をしてから退出した。
(……終わった)
一月前、滞在する劉宏に雄黄の毒を盛った。毒に中った劉宏は動けなくなり、嘉徳殿で伏せることとなった。急な病いを怪しまれない為に宋皇后と渤海王による天帝の怒り、という噂も流した。そして今、とどめとして十分に致死の量を薬と偽り飲ませた。今上が目覚める事はもう、ない。
(思った以上に簡単だった)
皇帝弑逆が、である。もちろん蹇碩の意志でそうしたわけではない。董皇后の依頼である。
(母たるを捨て権力を選ぶ。恐ろしい……)
帝劉宏の子、史侯と董侯。どちらも董皇后にとっては孫である。しかし、董皇后にとって重要なのは自らが養育している董侯だけである。もし今上が何皇后の養育する史侯を太子に立ててしまった場合、今上の母として振ってきた権力と財力は董皇后の手からすり抜けてしまう。董侯の皇位を確定させる為、董皇后が選んだ非情の手段が息子劉宏の暗殺である。
蹇碩は自分の気分がどん底まで落ち込んでいる事に気付いた。自分も、碩よと寵愛していただいた今上の恩を捨て、董皇后の下での権力を選んだのだ。
萎えた気持ちを無理矢理奮い立て、蹇碩は嘉徳殿の表で叫んだ。
「帝、御危篤!上軍校尉が命ずる!九龍門を閉ざせ。五営の校尉を招集せよ」
蹇碩の号令に嘉徳殿の九龍門がゆっくりと閉じていく。
権力を確実に手にする為に先手を打つのだ。
***
何進を乗せた車は早朝の南宮を走る。
──帝御危篤、遺詔を伝えたい由。大将軍は急ぎ嘉徳殿へ参上いただきたい。
その報に慌てて飛び出して来たのである。
(急がねばならん!崩に間に合いませんでした、では面目が立たん)
しんと静まり返っていて誰一人歩いていない嘉徳殿への道を何進は急いだ。
近付いてみれば嘉徳殿も特に何か変った風ではなく、いつもの様に九龍門の前に何人かの兵が守衛として立っているだけだ。
何進の指示で禦者は門前に横付けする為に車の速度を落しながら右に進路を変える。
間もなく停まろう、という所で何進は門に立つ衛兵の一人が激しく目をしばたたかせているのに気付いた。
(眼病?──いや!)
見れば旧知の部下であった。潘隱という。何進の口聞きで出世した男で、とっくに衛兵などする立場ではない筈だ。門脇に立っている事自体がおかしい。何進と目が合った瞬間、潘隱は頭も体も微動だにせずに門の方をちらりとみて眉を寄せた。
「急な病である!陛下に差障りあってはならぬ。ここで失礼する!」
何進はそう叫んで禦者の背を叩いた。車は止まらずに門前を通過し、城内とは思えない程の速度で走り去っていった。
***
「大将軍、引き返されました!」
扉の外からくぐもった声で報告があった。大将軍何進の暗殺失敗を、蹇碩は嘉徳殿内の執務室で聞いた。
蹇碩はその時、全裸で床に這い、爪先と拳の先だけで体を支えていた。
ぽたり。
音を立てて落ちた汗が床の石畳を丸く染める。
蹇碩が息を吐きながら胸の筋肉を引き絞ると、みしり、という音がして蹇碩の上体が力強く持ち上がる。伸びきった二の腕の外側に丸めた太い縄の様な筋肉が浮かびあがる。最も高い位置で息を吐ききると、今度は息を吸いながらゆっくりと筋肉を緩めていく。上体は沈み、ぶ厚い胸板が石畳に触れそうになるところで止める。もう半刻になるだろうか。蹇碩はその上下の運動を続けている。床石に蹇碩の形の汗の染みがあった。
(どんどん弱くなってるな)
蹇碩は──張讓たちのような──子供のうちに親に宮された宦官ではない。大人になってから自ら志願した自宮者である。近隣一の力持ちの蹇碩は、それ以上の地位、歴史に残る悪来のような地位を求め、自ら業者に金を払い性器を切断させたのだ。
宦官らしからぬたくましい肉体で帝の寵愛を得ることができたが、宮する前に蓄えたその隆々とした筋肉も、頼もしい髭も、もはや衰える一方。髭は生ぶ毛の如くに成り果てている。せめてもの抵抗として蹇碩は毎日全身の筋肉を痛めつける事を欠かさない。
自らが規定した回数が終わると、絹の薄布で全身の汗を拭い、香を焚きしめた宦官の衣装を着けた。
蹇碩が嘉徳殿の前庭に出て行くと、そこには五営の当直から選抜した兵士が壁際にびっしりと整列している。予定の暗殺が不発に終わったことを認識している彼らは、蹇碩が姿を見せた瞬間からピリピリと緊張した空気を発している。恐縮した面持ちで司馬たちが走ってくる。彼らの目線はちらちらと蹇碩の腰の剣あたりをさ迷っている。
(まぁ、いくら何進が馬鹿であっても、成功するか疑問ではあった)
「通常の警備体制に戻してよろしい」
宣言にほっとする司馬たちを置き去りに、蹇碩は次の手を考え始めた。
(帝のご遺体は我が手にある。つまり崩御を明かす明かさないをこちらで決めれるという事)
帝のご次男、董侯に後継を託す内容の遺詔は偽造済みである。あとは董皇后を後ろだてに皇后の甥、驃騎将軍の董重が体制を整え、一気に董侯の即位まで持ち込んで頂けるはずだ。
蹇碩は政治には素人である。だから董皇后も董重も同じ素人に過ぎない、という点に気付いていなかったのである。




