第9話 三十八回目
翌朝、手紙を開いた。
机の端に置いたまま一晩過ぎた封筒。リンドベルク侯爵家の封蝋。見慣れた紋章。
昨日は開けなかった。花に似ていると言われた日を、あの人の言葉で上書きしたくなかった。でも一晩経てば大丈夫だと思った。大丈夫な自分が、朝にはいると信じた。
封を切る。
手紙が──長かった。
ブルーノさまの手紙は、いつも三行だった。用件だけ。「次の夜会、よろしく」「グラーフ伯爵への手土産、頼んだ」「土曜の茶会、段取り任せる」。十四年間、ブルーノさまが四行以上書いたことは一度もない。
今日の手紙は、便箋二枚に渡っていた。字が少し乱れている。いつもの丸っこい字が、ところどころ尖っている。
『ネリーへ。
茶会が失敗した。全部だめだった。招待状も座席も料理も、何もかも間違えた。
僕は何も知らなかった。あの茶会を十年間、君が一人でやっていたことを。知らなかった。本当に知らなかった。
母上に怒られた。使用人にも呆れられた。グラーフ伯爵には二度目の失言をした。ヘルマン子爵は途中で帰った。社交界で僕の悪口を言わない人間を探すほうが難しい。
ネリー、戻ってきてほしい。
僕が悪かった。全部僕のせいだ。だから──
わかってくれるよね。』
最後の一行を読んだ瞬間、笑ってしまった。
声に出して笑ったのではない。喉の奥で、小さく、空気が漏れるように。泣き笑いに近かったかもしれない。
──三十八回目。
反省の言葉を並べて、初めて長い手紙を書いて、それでも最後はこの言葉で締めるのだ。「わかってくれるよね」。十四年間の習慣は、便箋二枚では変わらない。
「僕が悪かった」。その言葉は本当だろう。でも「だから戻ってきてほしい」は、謝罪ではない。取引だ。僕が非を認めたのだから、君は戻ってくるべきだ。そういう計算が、この人の中では自然に成り立っている。
手紙を畳んで、封筒に戻した。引き出しにはしまわなかった。机の上に置いたまま、窓の外を見た。
──三十七回目までは、この手紙を読んだら走って行った。
走って、「わかりました」と答えて、すぐに段取りを組んで、問題を片付けて、ブルーノさまの世界を元通りにした。何度も。何度でも。
三十八回目は、窓の外に秋の終わりが見えるだけだった。
ゲルダの手紙を読み返した。三通目。「壊したのは、あんたじゃない。最初から、壊れるようにできてたの」。ブルーノさまの手紙を並べてみると、ゲルダの言葉の正しさがよくわかる。反省しているようで反省していない。謝っているようで謝っていない。壊れたものを見て、壊した原因ではなく修理できる人間を探している。
返事は書かなかった。書くことがなかった。「わかりません」も、もう要らない。何も返さないことが、三十八回目の答えだった。
◇
三日後、ブルーノさまが来た。
手紙の返事を出さなかったのだ。返事が来ないということは、ブルーノさまにとって想定外だったのだろう。十四年間、返事はいつも翌日には届いた。「わかりました」の六文字が。
リーゼが応接室に通そうとしたが、私は庭に出た。応接室はマルタさまのときに使った。あの部屋には、父が助けてくれた記憶がある。今日は一人で会う。
庭のリンゴの木の下にベンチがある。葉はもうほとんど落ちて、枝だけが空に伸びている。その下で待った。
足音が近づいてくる。砂利を踏む音。ブルーノさまの足音は軽い。いつもそうだ。深刻な場面でも、この人の足取りは軽い。世界が自分に優しいと信じている人間の歩き方だ。
──でも、今日は少し違った。
庭に出てきたブルーノさまを見て、息が止まりかけた。
痩せていた。頬の線が鋭くなっている。目の下に隈がある。髪も、いつもきれいに整えていたのに、少し乱れていた。社交界での孤立が、この人を削っている。
一ヶ月半前に婚約を解消したときのブルーノさまは、まだ余裕があった。「ネリーがいなくても何とかなる」と思っている顔だった。今は違う。何ともならなかったのだと、顔に書いてある。
「ネリー」
名前を呼ばれた。その声が少しかすれていて、胸の奥がまた揺れた。やめてほしい。揺れるのは、もうやめたいのに。
「ブルーノさま」
「……返事、くれなかったね」
「はい」
「読んだ?」
「読みました」
ブルーノさまがベンチの端に座った。私との間に、一人分の隙間を空けて。昔なら隣に座った。今は距離がある。その距離を、この人も感じているのだろうか。
「僕が悪かった」
手紙と同じ言葉だった。でも声に出すと、少しだけ重みが違った。
「全部、君に押し付けていた。茶会も、贈り物も、謝罪も。全部。それは──わかってる」
「はい」
「でもそれは、君を信頼していたからだ」
──信頼。
その言葉が出たとき、胸の奥で何かが静かに閉じた。扉が閉まるような感覚だった。
「信頼と依存は違います、ブルーノさま」
自分でも驚くほど、穏やかな声が出た。怒りではなかった。もう怒りの段階は過ぎていた。
「信頼は、相手の意思を尊重することです。依存は、相手の意思を聞かずに頼ることです。ブルーノさまは十四年間、一度も私にお聞きになりませんでした。『これを頼んでいいか』と。いつも『わかってくれるよね』でした」
ブルーノさまが唇を噛んだ。
「……それは」
「花瓶を割ったとき、覚えていらっしゃいますか。私が八歳のときです。ブルーノさまが走り回って花瓶を倒して、『ネリーがやったことにしてくれるよね』と。あれが一回目でした」
「そんな昔の──」
「三十七回です」
ブルーノさまの言葉が途切れた。
「三十七回、『わかりました』とお答えしました。一度も断りませんでした。そして一度も──一度も、『ありがとう』と言っていただけませんでした」
秋の風が枝の間を通り抜けた。落ち葉が一枚、ブルーノさまの肩に乗った。払わなかった。気づいていないのかもしれない。
「変わるから」
ブルーノさまが言った。声が少し震えていた。
「もう『わかってくれるよね』とは言わない。約束する。だから──戻ってきてくれ」
その目を見た。
十四年間、好きだった目だ。明るくて、屈託がなくて、世界を怖がらない目。その目に映る自分を探した。
──映っていなかった。
ブルーノさまの目は、今も「ネリー自身」を見ていない。困っている自分を助けてくれる人を探しているだけだ。十四年前と同じだ。花瓶を割ったあの日と同じ目で、「助けてくれるよね」と言っている。
ニクラスさんの目を思い出した。花屋の前で、小さな白い花を見ながら、「あなたに似ています」と言ったときの目。あの人の目には、私が映っていた。花ではなく、私自身を見ていた。
「ブルーノさま」
「うん」
「『変わるから』とおっしゃいましたね」
「言った。本気だ」
「でもその言葉は、私のためではありません」
ブルーノさまの顔が、一瞬固まった。
「困っているご自分のためです。私が戻れば、茶会は開ける。贈り物は届く。社交界での失言もフォローしてもらえる。ブルーノさまはまた、変わらなくて済む」
「違う──」
「それは信頼でも、愛でもありません」
声が震えなかった。泣いてもいなかった。ただ、はっきりと、自分の言葉で言えた。三ヶ月前の自分には、絶対に言えなかったことが。
ブルーノさまが立ち上がった。何か言おうとして、口を開いて──閉じた。
初めてだった。この人が「わかってくれるよね」で切り抜けられない瞬間を迎えるのは。言葉をなくしたブルーノさまを見るのは、十四年間で初めてだった。
去年の茶会の前夜を思い出した。深夜まで座席の配置図を書き直していた私を、翌朝「ふうん」の一言で通り過ぎた人。あの日から一年。あの人はまだ「ふうん」の先に何があったのかを知らない。知ろうとしたのは、失ってからだ。
「三十八回目の『わかってくれるよね』には──」
一呼吸、置いた。
「わかりません。もう、わかりたくもありません」
◇
ブルーノさまは、何も言わずに背を向けた。
砂利を踏む音が遠ざかっていく。来たときより、足取りが重かった。世界が自分に優しくないと知った人間の歩き方だった。
その背中を見ながら、涙が一筋だけ頬を伝った。
嫌いになったわけではない。十四年間、好きだった。笑顔が明るくて、誰にでも優しい顔を見せて、一緒にいると世界が軽く見えた。
でも、その「軽さ」の正体がわかってしまった。あの人の世界が軽かったのは、重いものを全部、私が持っていたからだ。私が持っていたから、あの人は軽く笑えたのだ。
もうあの場所には戻れない。
リンデンのお茶の味を知ってしまった。花に似ていると言ってもらえた。自分の好みで次の約束を決めてもらえた。自分で選んだもので手帳が少しずつ埋まり始めている。ジャガイモのグラタン。赤と黄色の花。カボチャのスープ。窓際の椅子。小さなものばかりだ。でもその小さなものは全部、私が自分で見つけたものだ。
あの場所に戻ったら、全部なくなる。
涙を手の甲で拭った。一筋だけ。三十七回の「わかりました」に比べれば、軽い涙だった。
◇
庭に一人で座っていると、リーゼが静かに近づいてきた。
「ネリーさま」
「……うん」
「お伝言がございます。ニクラスさまから」
顔を上げた。リーゼが小さな紙片を差し出している。
「『明日、町の広場に来てほしい。見せたいものがある』と」
見せたいもの。
この人はいつも、私に何かを押し付けない。「来い」ではなく「来てほしい」。断る余地を残してくれる。
涙の跡がまだ乾いていないまま、小さく頷いた。
「……行くわ」
リーゼが微笑んだ。何も聞かなかった。この子はいつもそうだ。
手帳を開いた。明日の日付の横に、小さく書いた。
──広場。見せたいもの。
ブルーノさまの手紙は、引き出しにしまった。ゲルダの手紙の隣ではなく、一番奥に。もう読み返すことはないだろう。
窓の外で、最後のリンゴの葉が落ちた。秋が終わる。
でも、冬は怖くなかった。明日、会いに行く人がいる。




