第8話 秋の茶会が壊れた日
ゲルダの手紙は、もう封筒に入りきらなくなっていた。
封筒の脇が少し裂けている。紙を詰め込みすぎたのだ。ゲルダらしい。書きたいことが溢れると、封筒の限界など気にしない。
窓際の椅子に座って、封を切る。紙が三枚。いつもの二枚を超えて、三枚目まで書いている。冒頭の一行を読んで、お茶を飲む手が止まった。
『ネリーへ
座ってる? 座りなさい。いや、もう座ってるか。あんたのことだから、あの窓際の椅子でしょ。
大事件よ。あの秋の慈善茶会が、完全に壊れた。
壊れた、っていうか、崩壊したっていうか、あんたが十年間かけて積み上げたものが一晩で瓦礫になったっていうか。ブルーノが「なんとかなるだろ」って言ったときから嫌な予感はしてたけど、予感を超えてきたわ。
マルタさまが急遽仕切ることになって、使用人を何人か動かしたらしいんだけど、もう最初から全部ずれてたの。
まず招待状。宛名を間違えたの。招待していないはずのヴォルフ伯爵家に届いて、招待したはずのシュタイン男爵家に届いてなかった。ヴォルフ伯爵家が来ちゃったのよ、呼んでもいないのに。受付が混乱して、シュタイン男爵夫人は「うちは招かれていないのか」って怒って帰った。
次。グラーフ伯爵家の末のお嬢様。覚えてるでしょ、あんたが毎年確認してた、乳製品が食べられない子。それを誰も把握してなくて、クリームたっぷりのスープを出しちゃったの。あの子、会場で気分が悪くなって、途中で帰ったわ。伯爵夫人の顔、見たかったわね──いえ、見ないほうがいいわ。般若だったから。
座席もめちゃくちゃ。ヘルマン子爵家とフリードリヒ男爵家を隣同士にしたの。あの二家が三年前の境界争いで口も利かないこと、あんたは知ってたわよね。知ってたわよね? 知ってたに決まってるわよね。テーブルの上で口論が始まって、ヘルマン子爵が席を立ったわ。十年続いた慈善茶会で、途中退席なんて初めてよ。
でもね、一番ひどかったのはこの後。
ブルーノが、客の前で言っちゃったの。
「ネリーが全部やっていたなんて知らなかった」
聞こえちゃったのよ、みんなに。
あんた、想像できる? あの場にいた人間の顔。「十年間、目の前でやっていたのに知らなかった」。知らなかったんじゃないのよ。知ろうとしなかっただけでしょう。
社交界の反応は冷たいわ。「侯爵家の嫡男は、婚約者に全部やらせて自分は何をしていたのか」。もうそういう話になってる。ペトラが言ってた「五人がかりの仕事」って話も広まっちゃってるし。
あんたが築いたもの、あんたが守ってたもの、全部なくなった。一晩で。
でもね、ネリー。これだけは言わせて。
あんたが悪いんじゃないわ。あんたは十四年間ちゃんとやった。やりすぎたくらいよ。壊したのは、あんたじゃない。最初から、壊れるようにできてたの。あんたが一人で支えてたから見えなかっただけ。
ゲルダ
追伸:リンデンのお茶が好きなんだって? 誰と飲んだの? 次の手紙で白状しなさい。』
◇
三枚目を読み終えて、しばらく手紙を膝の上に置いたまま動けなかった。
予想はしていた。引き継ぎの書類を読まないブルーノさまと、一か月前に急遽動き出したマルタさまだけでは、あの茶会を回せるはずがない。
──知らなかった。
その言葉が、胸の奥に刺さっている。小さな棘のように。
知らなかった。十年間、目の前でやっていたのに。招待客のリストを作るとき、ブルーノさまはすぐ隣にいた。座席の配置図を広げているとき、あの人は同じ部屋でお茶を飲んでいた。料理の手配で使用人と打ち合わせをしているとき、廊下を通り過ぎていった。
全部、見えていたはずだ。見えていたのに、見ていなかった。
思い出す。去年の慈善茶会の前夜、私は応接室で深夜まで座席の配置図を書き直していた。ヘルマン子爵家とフリードリヒ男爵家の席が近すぎることに気づいて、全体を組み替えたのだ。三時間かかった。翌朝、ブルーノさまが同じ応接室に来て、テーブルの上に広げたままの配置図を見た。「何これ」と聞かれた。「今日の茶会の座席です」と答えた。「ふうん」とだけ言って、ブルーノさまは窓の外を見ていた。
ふうん。三時間の仕事に対する返事が、それだった。
知らなかったのではない。知る必要がないと思っていたのだ。ネリーがやっている。だから自分は知らなくていい。空気みたいに、あるのが当然で、なくなるまで気づかない。
──私は空気だったのだ。十四年間。
その認識が、怒りよりも深い場所に落ちていった。もう怒りではない。悲しみとも少し違う。ただ、はっきりと見えた。あの人の目に、私は映っていなかったのだと。
ゲルダの最後の段落を読み返す。「壊したのは、あんたじゃない。最初から、壊れるようにできてたの」。
──うん。そうだね、ゲルダ。
◇
午後、ニクラスさんが来た。
今日は約束の日ではなかった。任地への移動の途中で、少し道を逸れたらしい。「少し逸れた」がどのくらいの回り道なのか、この人は言わない。たぶん、少しではない。
「今日は顔色が悪いですね」
会って最初の一言がそれだった。この人は挨拶より先に、相手の顔を見る。
「……手紙を読んで、少し疲れてしまいました」
「そうですか」
それ以上は聞かなかった。ニクラスさんはいつもそうだ。聞かない。でも、察している。聞かないことが、この人のやさしさだと、最近わかるようになってきた。
「少し歩きませんか」
「はい」
町を並んで歩いた。秋が深まって、街路樹の葉がほとんど落ちている。踏むとかさかさと乾いた音がした。風が冷たい。でも、隣に人がいると風の冷たさが少し和らぐ気がする。
ブルーノさまと並んで歩いたことは何度もあるけれど、ブルーノさまはいつも半歩前を歩いた。この人は、私の歩幅に合わせてくれる。私が少し遅れると、気づかないふりをして歩を緩める。それが自然すぎて、本人は意識していないのだと思う。
パン屋の前を通りかかった。前に二人で来た店だ。焼きたてのパンの匂いが漂ってくる。ニクラスさんがちらりと店を見て、何も言わなかった。でも口元がわずかに動いた。ジャガイモのパンのことを思い出したのだろう。この人は覚えている。いつも、覚えている。
花屋の前を通りかかったとき、ニクラスさんが足を止めた。
店先に、小さな白い花が並んでいた。名前は知らない。主張しない花だ。華やかな赤いバラや、鮮やかな黄色のダリアに挟まれて、ほとんど目立たない。でも、よく見ると花びらの形がきれいで、近づくとほのかに甘い香りがする。
「この花」
ニクラスさんが、少し間を置いてから言った。
「あなたに似ています」
「……え?」
「主張しないけれど、そこにあるだけで場が整う。この花がなかったら、バラもダリアも少しうるさく見えるはずです」
冗談かと思った。でもニクラスさんの目は真剣だった。この人は冗談が下手だ。冗談が言えないのではなく、思ったことをそのまま言うから、冗談になる前に本気になってしまうのだ。
「それは──褒め言葉ですか」
「はい。自分では気づかないかもしれませんが、あなたがいる場所は穏やかになります。収穫祭のときも、茶店でも」
胸の奥が、ぎゅっと掴まれた。
十四年間。ブルーノさまに一度も言われなかった言葉だ。「いるだけで場が整う」。私がいることに気づいてすらいなかった人が、一度も言わなかった言葉を。この人はさらりと、花を見ながら言う。
目が熱くなった。泣くほどのことではない。花に似ていると言われただけだ。でも、こんなに嬉しい言葉を、こんなに簡単に言える人がいるのだと思ったら、十四年間の沈黙が急に重く感じた。
「……ありがとうございます」
声がかすれた。ニクラスさんは何も言わず、また歩き出した。私の歩幅に合わせて。
◇
夜、机に向かってゲルダへの手紙を書いた。
『ゲルダへ。
茶会のこと、聞きました。驚きはしませんでした。あの書類を読めば防げたことばかりだから。
でも「知らなかった」は──やっぱり、少しだけ痛かった。十年間、目の前にいたのにね。
リンデンのお茶のこと、白状します。ある人と飲みました。名前はまだ教えない。あんたに教えたら最後、三日で社交界に広まるでしょ。
あと、今日ね、花に似ていると言われた。生まれて初めて。白くて小さくて、目立たない花。でもそこにあるだけで場が整う、って。
ブルーノさまには一度も言われなかった。一度も。
こんなに嬉しいことを、こんなにあっさり言える人がいるのね。世の中って不思議。
ネリー
追伸:あんたの追伸、全部読んでるからね。白状はこれで十分でしょ。根掘り葉掘り聞くのは次の手紙までお預け。』
ペンを置いて、封をした。
──と、部屋の扉をリーゼがそっと叩いた。
「ネリーさま、もう一通、お手紙が届いております」
「誰から?」
リーゼが差し出した封筒を見て、指先が冷たくなった。
リンドベルク侯爵家の封蝋。見慣れた紋章。そして、見慣れた筆跡。
ブルーノさまからの手紙だった。
封を切らなかった。今日はもう、あの人の言葉を受け取る余裕がない。花に似ていると言ってもらえた日を、あの人の「わかってくれるよね」で終わらせたくなかった。
手紙を机の端に置いて、窓を開けた。冷たい夜風が入ってくる。秋がもうすぐ終わる。
──明日、読もう。明日の私なら、大丈夫だから。




