第7話 私の名前で、私の時間を
約束の日の朝、三回着替えた。
一回目はいつもの普段着。地味すぎるかと思って脱いだ。二回目は侯爵家に出入りしていた頃のよそゆきの服。鏡を見て、すぐに脱いだ。あの頃の私に戻る必要はない。三回目、少しだけ明るい色の普段着を選んだ。エルマさんにもらった刺繍入りのショールを羽織る。
リーゼが後ろから覗き込んで、小さく笑った。
「ネリーさま、今日はどちらへ?」
「……町の茶店に。少し用事があるの」
「ショール、お似合いです」
知っている。リーゼは全部わかっている。前回、ニクラスさんとジャガイモのパンの店で会ったときも、帰ってきた私の顔を見て何も言わずに微笑んでいた。この子は聞かない。でも、見ている。
◇
茶店は広場の裏手、パン屋の二軒隣にある小さな店だった。石造りの壁に木の扉。窓際の席が二つだけで、あとはカウンターに椅子が三脚。領民が朝に立ち寄って一杯飲む、そういう店だ。
ニクラスさんはもう来ていた。
窓際の席に座って、外を眺めている。旅装は前と変わらないけれど、今日は上着を着ていなかった。シャツの袖を少しだけまくっている。収穫祭の日もそうだった。この人は手を動かすつもりのときに袖をまくるのだと、二度目に会ったときに気づいた。
「お待たせしました」
「いえ、早く着きすぎただけです」
早く着きすぎた。この人は、そういう言い方をする。「待っていた」とは言わない。待たせた側に負い目を感じさせないように、自分のほうを調整する。ブルーノさまは逆だった。三十分遅れても「ちょっと待った?」と軽く聞くだけで、待たせたことを気にした様子はなかった。
──比べるのは、もうやめようと思っていたのに。
でも比べてしまう。十四年間の基準がブルーノさましかないのだから、仕方がない。
「前回のパン、美味しかったです。ジャガイモのパン」
「そうですか」
「生地がもちもちしていて、焼きたての匂いが──言葉にするのが難しいですが、また食べたくなります」
ニクラスさんが「また食べたくなる」と言った。覚えていた。あの店のことを、パンの食感を、匂いを。ブルーノさまなら翌日には忘れていると思った予感は、やはり当たっていた。この人は覚える人だ。
「今日は、お茶を飲みませんか。この店のお茶、種類が多いらしいので」
「はい」
店主のおじさんがメニューを持ってきた。といっても黒板に手書きで書いてあるだけだ。ハーブ茶が五種類。名前を見ても、どんな味かわからない。
「どれがお好みですか」
ニクラスさんに聞かれて、困った。好みがわからないのだ。侯爵家の茶会では、ブルーノさまの好みに合わせてお茶を選んでいた。あの人は渋いお茶が嫌いだから、いつも軽い花のお茶。私がどんなお茶を好きだったか──思い出せない。
「……すみません。わからないです」
笑って言ったつもりだったけれど、声が少し小さくなった。二十二歳にもなって、自分の好きなお茶がわからない。おかしな話だ。
ニクラスさんは困った顔をしなかった。不思議そうな顔もしなかった。少し考えてから、店主に向かって言った。
「三種類、少しずつもらえますか。カモミールと、ミントと、リンデンを」
店主が頷いて奥に消えた。ニクラスさんがこちらを見た。
「順番に試してみてください。どれも違う味です」
「三つも頼んでいいんですか」
「好きなものを見つけるのに、一つでは足りないでしょう」
その言い方が、なんだか胸に染みた。好きなものを見つけるのに、一つでは足りない。当たり前のことなのに、私にはその「当たり前」がずっとなかった。
◇
三つの杯が並んだ。
カモミールは甘くて柔らかい。悪くない。でも少し物足りない。
ミントはすっきりしていて、鼻の奥が通る感じがする。爽やかだけれど、これも何か違う。
リンデン。一口飲んで、少しだけ眉が動いた。最初は苦い。でもその苦みのすぐ後ろに、ふわっと甘さが広がる。蜂蜜みたいな、でも蜂蜜よりも淡い甘さ。
「……これ」
「リンデンですか」
「はい。最初は苦いのに、後から甘くなる。不思議な味です」
ニクラスさんが小さく笑った。この人が笑うのを見るのは、まだ数えるほどしかない。大きく笑う人ではない。口の端がわずかに上がるだけの、静かな笑い方をする。
「私もそれが好きです」
「同じものが好きなんですか」
「偶然です」
偶然かもしれない。でも、好きなものが同じだと知ったとき、胸の奥がぽっと温かくなった。ブルーノさまと好きなものが一致したことは──あったかもしれないけれど、思い出せない。いつも合わせていたから、自分の好みと相手の好みの境界がなくなっていたのだ。
ニクラスさんが自分の杯に口をつけた。同じリンデン。店主が気を利かせて、四杯目を出してくれたらしい。
「ニクラスさんは、いつもこうしてお茶を飲むんですか」
「任地を移動する合間に、町の茶店で一杯飲む習慣があります。どこの町にも一軒はあるので」
「一人で?」
「一人です。誰かと飲むのは──珍しいですね」
珍しい。ということは、前回のパン屋も、今日のこの茶店も、この人にとっては特別なのだ。慣れた人の余裕で誘っているのだと思っていたけれど、そうではなかった。この人も、人と過ごす時間に慣れていないのかもしれない。
「俺は三男で、家督も領地もありません」
ニクラスさんがぽつりと言った。窓の外を見ながら。
「だから、自分で選ぶしかなかった。何を食べるか、どこに住むか、何をして生きるか。全部自分で決めなければならなかった」
「……大変でしたか」
「最初は。でも、慣れると──選べることは、贅沢なのだと思うようになりました」
選べることは、贅沢。
私は十四年間、何も選ばなかった。選ばなかったのか、選べなかったのか。今になって思えば、選べたのだ。断ることも、自分の好みを言うことも、「わかりません」と言うことも。選べたのに、選ばなかった。
「騎士になったのも、自分で選んだのですか」
「はい。剣しか取り柄がなかったので。でも、自分で選んだ道は、文句を言う相手がいなくて楽です」
文句を言う相手がいない。そうか。自分で選んだら、失敗しても誰かのせいにできない。その代わり、成功も自分のものだ。ブルーノさまは自分で何も選ばず、失敗はいつも誰かのせいにした。ネリーのせい。段取りが悪かったせい。たまたま運が悪かったせい。
「私も、少しずつ選べるようになってきました」
声に出して言ったら、思ったより確かな響きがした。
「グラタンが好きだとわかりました。赤と黄色の花がきれいだとわかりました。カボチャのスープが好きだとわかりました。リンデンのお茶が好きだと、今わかりました」
ニクラスさんが黙って聞いていた。途中で頷きもしなかった。ただ、最後まで聞いてくれた。それだけで十分だった。
◇
茶店を出るとき、ニクラスさんが言った。
「ネリーさん。今日、何が一番美味しかったですか」
「リンデンのお茶です。苦くて、後から甘いやつ」
「では次は、それを二人分頼みます」
次。
次がある。私の好みで、次の約束が決まった。「ネリーさんが好きだと言ったから、それを二人分」。たったそれだけのことが、じわじわと目の奥に来た。
侯爵家では、全部ブルーノさまの好みだった。お茶も、料理も、行き先も、話題も。私の好みで何かが決まったことは、十四年間で一度もない。
「ありがとうございます」
声が少し震えた。お茶の注文ごときで泣きそうになるのは、おかしい。おかしいけれど、仕方がない。
ニクラスさんは気づいたかもしれないし、気づかなかったかもしれない。何も言わなかった。ただ、「では、また」と短く言って、来た道を戻っていった。
背中がまっすぐだった。前と同じ。でも今日は、その背中が少しだけ──名残惜しかった。
◇
帰り道、ゲルダへの手紙を頭の中で書いていた。
『ゲルダへ。今日、自分の好きなお茶を見つけた。リンデンっていう、最初は苦くて後から甘いお茶。あんたは「お茶くらいで大げさね」って笑うだろうけど、私にとっては大事件なの。二十二年間で、自分で選んだお茶は初めてだから』
ゲルダはきっと笑う。でもその後で「よかったね」と書いてくれるはずだ。それから根掘り葉掘り聞いてくるだろう。「で、そのお茶、誰と飲んだの?」と。
もう少しだけ、秘密にしておこう。この時間は、まだ私だけのものでいい。
手帳を開いた。今日の日付の横に、小さく書き足した。
──リンデン。苦くて、甘い。
好きなものがまた一つ増えた。ジャガイモのグラタン、赤と黄色の花、ジャガイモのパン、カボチャのスープ、窓際の椅子、そしてリンデンのお茶。
全部、自分で見つけたものだ。誰の好みでもない。私の名前で、私の時間で、私が選んだもの。
リストはまだ短い。でも確実に、伸びている。




