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十四年間「ありがとう」のない婚約を辞めます  作者: 九葉(くずは)


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7/10

第7話 私の名前で、私の時間を

 約束の日の朝、三回着替えた。


 一回目はいつもの普段着。地味すぎるかと思って脱いだ。二回目は侯爵家に出入りしていた頃のよそゆきの服。鏡を見て、すぐに脱いだ。あの頃の私に戻る必要はない。三回目、少しだけ明るい色の普段着を選んだ。エルマさんにもらった刺繍入りのショールを羽織る。


 リーゼが後ろから覗き込んで、小さく笑った。


「ネリーさま、今日はどちらへ?」


「……町の茶店に。少し用事があるの」


「ショール、お似合いです」


 知っている。リーゼは全部わかっている。前回、ニクラスさんとジャガイモのパンの店で会ったときも、帰ってきた私の顔を見て何も言わずに微笑んでいた。この子は聞かない。でも、見ている。


 ◇


 茶店は広場の裏手、パン屋の二軒隣にある小さな店だった。石造りの壁に木の扉。窓際の席が二つだけで、あとはカウンターに椅子が三脚。領民が朝に立ち寄って一杯飲む、そういう店だ。


 ニクラスさんはもう来ていた。


 窓際の席に座って、外を眺めている。旅装は前と変わらないけれど、今日は上着を着ていなかった。シャツの袖を少しだけまくっている。収穫祭の日もそうだった。この人は手を動かすつもりのときに袖をまくるのだと、二度目に会ったときに気づいた。


「お待たせしました」


「いえ、早く着きすぎただけです」


 早く着きすぎた。この人は、そういう言い方をする。「待っていた」とは言わない。待たせた側に負い目を感じさせないように、自分のほうを調整する。ブルーノさまは逆だった。三十分遅れても「ちょっと待った?」と軽く聞くだけで、待たせたことを気にした様子はなかった。


 ──比べるのは、もうやめようと思っていたのに。


 でも比べてしまう。十四年間の基準がブルーノさましかないのだから、仕方がない。


「前回のパン、美味しかったです。ジャガイモのパン」


「そうですか」


「生地がもちもちしていて、焼きたての匂いが──言葉にするのが難しいですが、また食べたくなります」


 ニクラスさんが「また食べたくなる」と言った。覚えていた。あの店のことを、パンの食感を、匂いを。ブルーノさまなら翌日には忘れていると思った予感は、やはり当たっていた。この人は覚える人だ。


「今日は、お茶を飲みませんか。この店のお茶、種類が多いらしいので」


「はい」


 店主のおじさんがメニューを持ってきた。といっても黒板に手書きで書いてあるだけだ。ハーブ茶が五種類。名前を見ても、どんな味かわからない。


「どれがお好みですか」


 ニクラスさんに聞かれて、困った。好みがわからないのだ。侯爵家の茶会では、ブルーノさまの好みに合わせてお茶を選んでいた。あの人は渋いお茶が嫌いだから、いつも軽い花のお茶。私がどんなお茶を好きだったか──思い出せない。


「……すみません。わからないです」


 笑って言ったつもりだったけれど、声が少し小さくなった。二十二歳にもなって、自分の好きなお茶がわからない。おかしな話だ。


 ニクラスさんは困った顔をしなかった。不思議そうな顔もしなかった。少し考えてから、店主に向かって言った。


「三種類、少しずつもらえますか。カモミールと、ミントと、リンデンを」


 店主が頷いて奥に消えた。ニクラスさんがこちらを見た。


「順番に試してみてください。どれも違う味です」


「三つも頼んでいいんですか」


「好きなものを見つけるのに、一つでは足りないでしょう」


 その言い方が、なんだか胸に染みた。好きなものを見つけるのに、一つでは足りない。当たり前のことなのに、私にはその「当たり前」がずっとなかった。


 ◇


 三つの杯が並んだ。


 カモミールは甘くて柔らかい。悪くない。でも少し物足りない。


 ミントはすっきりしていて、鼻の奥が通る感じがする。爽やかだけれど、これも何か違う。


 リンデン。一口飲んで、少しだけ眉が動いた。最初は苦い。でもその苦みのすぐ後ろに、ふわっと甘さが広がる。蜂蜜みたいな、でも蜂蜜よりも淡い甘さ。


「……これ」


「リンデンですか」


「はい。最初は苦いのに、後から甘くなる。不思議な味です」


 ニクラスさんが小さく笑った。この人が笑うのを見るのは、まだ数えるほどしかない。大きく笑う人ではない。口の端がわずかに上がるだけの、静かな笑い方をする。


「私もそれが好きです」


「同じものが好きなんですか」


「偶然です」


 偶然かもしれない。でも、好きなものが同じだと知ったとき、胸の奥がぽっと温かくなった。ブルーノさまと好きなものが一致したことは──あったかもしれないけれど、思い出せない。いつも合わせていたから、自分の好みと相手の好みの境界がなくなっていたのだ。


 ニクラスさんが自分の杯に口をつけた。同じリンデン。店主が気を利かせて、四杯目を出してくれたらしい。


「ニクラスさんは、いつもこうしてお茶を飲むんですか」


「任地を移動する合間に、町の茶店で一杯飲む習慣があります。どこの町にも一軒はあるので」


「一人で?」


「一人です。誰かと飲むのは──珍しいですね」


 珍しい。ということは、前回のパン屋も、今日のこの茶店も、この人にとっては特別なのだ。慣れた人の余裕で誘っているのだと思っていたけれど、そうではなかった。この人も、人と過ごす時間に慣れていないのかもしれない。


「俺は三男で、家督も領地もありません」


 ニクラスさんがぽつりと言った。窓の外を見ながら。


「だから、自分で選ぶしかなかった。何を食べるか、どこに住むか、何をして生きるか。全部自分で決めなければならなかった」


「……大変でしたか」


「最初は。でも、慣れると──選べることは、贅沢なのだと思うようになりました」


 選べることは、贅沢。


 私は十四年間、何も選ばなかった。選ばなかったのか、選べなかったのか。今になって思えば、選べたのだ。断ることも、自分の好みを言うことも、「わかりません」と言うことも。選べたのに、選ばなかった。


「騎士になったのも、自分で選んだのですか」


「はい。剣しか取り柄がなかったので。でも、自分で選んだ道は、文句を言う相手がいなくて楽です」


 文句を言う相手がいない。そうか。自分で選んだら、失敗しても誰かのせいにできない。その代わり、成功も自分のものだ。ブルーノさまは自分で何も選ばず、失敗はいつも誰かのせいにした。ネリーのせい。段取りが悪かったせい。たまたま運が悪かったせい。


「私も、少しずつ選べるようになってきました」


 声に出して言ったら、思ったより確かな響きがした。


「グラタンが好きだとわかりました。赤と黄色の花がきれいだとわかりました。カボチャのスープが好きだとわかりました。リンデンのお茶が好きだと、今わかりました」


 ニクラスさんが黙って聞いていた。途中で頷きもしなかった。ただ、最後まで聞いてくれた。それだけで十分だった。


 ◇


 茶店を出るとき、ニクラスさんが言った。


「ネリーさん。今日、何が一番美味しかったですか」


「リンデンのお茶です。苦くて、後から甘いやつ」


「では次は、それを二人分頼みます」


 次。


 次がある。私の好みで、次の約束が決まった。「ネリーさんが好きだと言ったから、それを二人分」。たったそれだけのことが、じわじわと目の奥に来た。


 侯爵家では、全部ブルーノさまの好みだった。お茶も、料理も、行き先も、話題も。私の好みで何かが決まったことは、十四年間で一度もない。


「ありがとうございます」


 声が少し震えた。お茶の注文ごときで泣きそうになるのは、おかしい。おかしいけれど、仕方がない。


 ニクラスさんは気づいたかもしれないし、気づかなかったかもしれない。何も言わなかった。ただ、「では、また」と短く言って、来た道を戻っていった。


 背中がまっすぐだった。前と同じ。でも今日は、その背中が少しだけ──名残惜しかった。


 ◇


 帰り道、ゲルダへの手紙を頭の中で書いていた。


『ゲルダへ。今日、自分の好きなお茶を見つけた。リンデンっていう、最初は苦くて後から甘いお茶。あんたは「お茶くらいで大げさね」って笑うだろうけど、私にとっては大事件なの。二十二年間で、自分で選んだお茶は初めてだから』


 ゲルダはきっと笑う。でもその後で「よかったね」と書いてくれるはずだ。それから根掘り葉掘り聞いてくるだろう。「で、そのお茶、誰と飲んだの?」と。


 もう少しだけ、秘密にしておこう。この時間は、まだ私だけのものでいい。


 手帳を開いた。今日の日付の横に、小さく書き足した。


 ──リンデン。苦くて、甘い。


 好きなものがまた一つ増えた。ジャガイモのグラタン、赤と黄色の花、ジャガイモのパン、カボチャのスープ、窓際の椅子、そしてリンデンのお茶。


 全部、自分で見つけたものだ。誰の好みでもない。私の名前で、私の時間で、私が選んだもの。


 リストはまだ短い。でも確実に、伸びている。

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