第6話 侯爵夫人の来訪
馬車の音が聞こえたとき、私は庭でリーゼと冬祭りの飾りの試作をしていた。
松の枝に赤い木の実を添えて、紙の筒にロウソクを入れたものを吊るす。エルマさんに提案した飾りつけを、まず自分で試してみようと思ったのだ。指先が松脂で少しべたつく。爪の間に緑の汚れが入っている。
リーゼが庭の入り口から戻ってきたとき、その顔がいつもと違った。
「ネリーさま、お客様です」
「誰?」
「……リンドベルク侯爵夫人、マルタさまです」
指先の松脂が、急に冷たく感じた。
──来た。
ゲルダの手紙の最後の一行が、頭の中で鳴った。『マルタさまの「お願い」は、ブルーノの「わかってくれるよね」より厄介だから』。
深呼吸をした。一回では足りなかった。二回目の息を吐いてから、立ち上がった。
「着替えてから参ります。お茶をお出しして」
「はい」
リーゼが走っていく。私は松脂のついた手を洗い、普段着のまま──いや、一瞬迷って、やめた。着替えない。侯爵家にいた頃なら、マルタさまの前に出るのに三十分は支度が要った。髪を結い直し、皺のないドレスを選び、完璧な姿で応接室に入った。
今日は着替えない。松の匂いのする普段着のまま、この人に会う。
◇
応接室に入ると、マルタさまは窓際の椅子に座っていた。
四十八歳。背筋がまっすぐで、銀の混じった髪を低い位置できれいに結っている。旅装だったが、皺一つない。この方はいつもそうだ。完璧な見た目を、呼吸するように維持する人だった。
私の普段着を一瞬だけ見た。ほんの一瞬。でもその視線で、すべてを量られた気がした。
「お久しぶりです、ネリー」
「お久しぶりでございます、侯爵夫人さま」
マルタさまは微笑んだ。穏やかな、春の日差しのような微笑み。この笑顔を私は知っている。社交界で「リンドベルク侯爵夫人はお優しい方ね」と言われる、あの笑顔だ。
「元気そうね。少し日に焼けたかしら」
「はい、収穫祭のお手伝いなどしておりましたので」
「まあ。相変わらず、人のためによく動くのね」
褒めているようで、布石だった。この方の言葉には、いつも次の一手が仕込まれている。
「それで──少し頭を冷やしたでしょう。そろそろ戻ってきてくれないかしら」
やさしい声だった。叱るでもなく、責めるでもなく、ただ当然のことを確認するように。まるで「今日は天気がいいわね」と言うのと同じ調子で。
──これが、この人のやり方だ。
ブルーノさまは「わかってくれるよね」と頼む。頼んでいる自覚がある。でもマルタさまは頼まない。当然のことを、当然の顔で言う。断る余地がないのではなく、断るという選択肢自体が存在しないかのように。
「申し訳ありませんが、戻る気はございません」
声が震えなかったのは、自分でも意外だった。
マルタさまの微笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。春の日差しに、雲がかかるように。
「ネリー。あなたが抜けて、うちがどれだけ困っているか──わかっているでしょう」
わかっているでしょう。
「わかってくれるよね」の丁寧語だ。親子だなと、場違いなことを思った。
「慈善茶会はどうするの。もう招待状を出す時期なのに、何も進んでいないの。ブルーノに任せてみたけれど、あの子には──」
マルタさまが一瞬だけ言葉を切った。「あの子には無理だった」と言いかけて、飲み込んだのだ。この方は息子の無能をよその人間には言わない。それは侯爵家の恥だから。
「存じております」
私は静かに答えた。
「招待客のリスト、各家の好みと食事制限、座席配置の考え方、花の手配先、楽隊への連絡先。すべて引き継ぎの書類に残してございます」
マルタさまの眉が、わずかに動いた。
「書類は──」
「はい。婚約解消の日に、ブルーノさまにお渡ししてあります。付箋をつけて、読む順番も示してあります」
沈黙が落ちた。マルタさまはお茶の杯を持ち上げたが、口にはつけなかった。知っているのだ。あの書類がどうなったか。ブルーノさまが「あとで見る」と積み上げたまま、一度も開かなかったことを。
ゲルダの手紙にもあった。「書類は読まれてこそ書類よね。積んどくだけなら漬物石と同じだわ」。
「ネリー」
マルタさまが杯を卓に置いた。音がしなかった。この方は、怒っていても物を音立てて置かない。
「あなたは聡い子だから、はっきり聞くわ。何が不満だったの。待遇なら相談できたでしょう。ブルーノへの不満があったなら、私から言い聞かせることもできたのに」
──言い聞かせる。
その言葉が、胸の奥に引っかかった。「言い聞かせる」。子どもに言い聞かせるように、ブルーノさまを正す。つまりこの方にとって、問題は「ネリーの不満をどう解消するか」であって、「ブルーノの振る舞いが間違っていた」ではないのだ。
「侯爵夫人さま」
「なに」
「私が十四年間で三十七回、『わかりました』とお答えしたことを、どなたかご存知でしたか」
マルタさまが初めて、はっきりと動きを止めた。
「三十七回です。ブルーノさまに『わかってくれるよね』と頼まれるたびに、私は『わかりました』とお答えしました。花瓶のときから。茶会の代理も。謝罪の訪問も。季節の贈り物も。慈善茶会も。全部で三十七回」
数えていたのだ、と。マルタさまの目がわずかに見開かれた。数える人間がいるとは、思っていなかったのだろう。
「一度も──一度も『ありがとう』とは言われませんでした」
応接室が静まった。窓の外で風が木の枝を揺らす音だけが聞こえた。
マルタさまは、しばらく何も言わなかった。この沈黙は演技ではないと思った。本当に言葉を探しているのだ。ただし、探しているのは謝罪の言葉ではなく、この状況をどう収拾するかの言葉だろう。
やがてマルタさまが口を開いた。
「……ネリー。あなたの気持ちはわかったわ」
わかった。この方も「わかった」と言う。
「でもね、考えてちょうだい。ゼーリヒ伯爵家にとっても、侯爵家との縁は大きいはずよ。お父様のお立場のことも──」
応接室の扉が開いた。
父だった。
いつもの穏やかな顔で、でも背筋はいつもより少しだけ伸びていた。
「侯爵夫人さま、ご足労いただきありがとうございます」
「伯爵さま」
マルタさまが立ち上がる。父は軽く手で制して、椅子に座るよう促した。
「娘と話をされていたのですね」
「ええ。少し──相談をしていたところです」
「そうですか」
父はマルタさまの向かいに座った。お茶を一口飲んで、それからまっすぐにマルタさまを見た。
「娘の判断を支持しております」
短い一文だった。それ以上の説明も弁明もなかった。
「侯爵家との関係は、別の形で維持できるでしょう。婚約だけが縁ではありませんから」
マルタさまの唇が、かすかに引き結ばれた。この方は計算のできる人だ。伯爵家の当主が明確に娘の側についた以上、これ以上押しても得るものがないと、すぐに判断しただろう。
「……そう。伯爵さまがそうおっしゃるなら」
マルタさまが立ち上がった。お茶は半分も減っていなかった。
私は玄関まで見送った。マルタさまは馬車に乗る前に、一度だけ足を止めた。こちらを振り返らず、背中を向けたまま。
「……あの子はね、ネリー」
声が、少しだけ違っていた。侯爵夫人の声ではなく、母親の声だった。
「あなたがいなくなって、初めて泣いたのよ」
秋の風が、マルタさまの言葉を運んでいった。
泣いた。ブルーノさまが。
胸の奥が、一瞬だけ揺れた。十四年間の記憶が、水面に石を投げたように波立った。あの人が泣く姿を、私は見たことがない。笑っている顔しか知らない。困っても笑い、失敗しても笑い、人を傷つけても笑っていた。その人が、泣いた。
──でも。
泣いた理由は、私がいなくて「寂しいから」ではない。私がいなくて「困るから」だ。茶会は開けない。贈り物は届かない。失言をフォローする人がいない。泣いたのは喪失ではなく、不便だ。
わかっている。わかっているのに、一瞬だけ揺れてしまった自分に、少し腹が立った。
◇
マルタさまの馬車が見えなくなってから、父が隣に立っているのに気づいた。
「よく言えたね」
父の声は穏やかだった。いつもの父だ。多くは言わない。でも、必要なことは言う。
「……お父さま、いつから聞いていたのですか」
「三十七回、のあたりから」
少し笑った。タイミングが良すぎる。わざと聞いていたのだろう。マルタさまが家格を持ち出すことを、予測していたに違いない。
「お父さま」
「うん」
「ありがとうございます」
父は頷いた。それだけだった。でも、その「ありがとう」に「どういたしまして」を返さない代わりに、父は私の頭にそっと手を置いた。子どものときみたいに。二十二歳の娘の頭に手を置くのは少しおかしかったけれど、おかしいと思う前に、目の奥がじんわり熱くなった。
◇
部屋に戻って、手帳を開いた。
二週間後の日付のところに書いてあった小さな文字。──ジャガイモのパン。
ニクラスさんと会う日が、もうすぐだ。
あの人は「何がしたいのですか」と聞いてくれた。マルタさまは「戻ってきてくれないかしら」と言った。ブルーノさまは「わかってくれるよね」と頼んだ。
三つの言葉を並べると、違いがはっきりする。
「わかってくれるよね」は、私の意思を聞いていない。「戻ってきてくれないかしら」は、私の意思を無視している。「何がしたいのですか」だけが、私の意思を──本当に聞いている。
手帳を閉じて、窓の外を見た。マルタさまの馬車が通った道に、車輪の跡がうっすら残っている。あの跡もすぐに消えるだろう。風が吹けば。雨が降れば。
松脂の匂いが、まだ指先に残っていた。冬祭りの飾りの試作を、途中で中断してしまった。明日、続きをやろう。
──大丈夫だった。
マルタさまの前で、「わかりません」と同じ言葉を──「戻る気はございません」と、言えた。震えなかった。泣かなかった。
三週間前、ゲルダの手紙を読んで、手が冷たくなった。マルタさまが来ると聞いて怖かった。でも、終わってみれば──大丈夫だった。
三十七回の「わかりました」の代わりに育ててきた小さな「わかりません」が、今日もまた一つ、根を張った気がした。




