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十四年間「ありがとう」のない婚約を辞めます  作者: 九葉(くずは)


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5/10

第5話 綻びは止まらない

 ゲルダの手紙は、開ける前から嫌な予感がした。


 前回よりも分厚い。前回が「書きたいことが山ほどある」なら、今回は「書かずにいられなかった」の厚さだ。封筒の口が少し歪んでいて、急いで封をしたのがわかる。


 窓際の椅子に座る。最近はこの椅子が定位置になっている。庭のリンゴの木が見える場所で、朝の光が手紙を読むのにちょうどいい。二十二年間この屋敷に暮らしていて、この椅子の良さに気づかなかった。ブルーノさまの用事に追われていた頃は、窓の外を眺める時間などなかったのだ。


 封を切る。


『ネリーへ


 あんた、座って読みなさい。立ってたら座りなさい。長いから。


 ブルーノ、もう社交界で笑い話になってるわよ。笑い話っていうか、もはや怪談ね。「リンドベルク侯爵家に関わると不幸になる」って、冗談みたいに言ってる人がいるの。冗談で済んでるうちはまだいいけど。


 まず、ヴェーバー伯爵家の夜会。覚えてるでしょ、あんたが三回も謝りに行ったグラーフ伯爵。あの人が来てたの。ブルーノ、その席で同じことを言ったのよ。同じ。一字一句同じかは知らないけど、要するに同じ話題で同じ地雷を踏んだの。


 あんたがいた頃は「ブルーノさま、グラーフ伯爵がいらっしゃいます。領地経営の話題は避けてください」って耳打ちしてたでしょ。覚えてるわよ、私。あんたがどれだけ気を遣ってたか。


 で、今は誰もそれをやらない。


 グラーフ伯爵、今度は黙ってなかったわ。会場の真ん中で「侯爵家の嫡男は、学ぶということを知らないのか」って。周りの人間、全員聞いてた。ブルーノは笑ってごまかそうとしたけど、誰も笑わなかったって。


 あーあ、って感じでしょ。でもまだあるの。


 秋の慈善茶会。あんたが毎年仕切ってたやつ。もう三週間切ってるのに、何も進んでないの。招待状も出てない。ブルーノは「茶会くらい誰でもできるだろ」って言ったらしいわ。


 誰でもできる? あんたが何をしてたか、あの男は本当に知らないのね。招待客の選定、座席の配置、料理の手配、各家のアレルギーと食事制限、お土産の選定、花の種類、楽隊の選曲、席の間隔──書いてたら手紙がもう一通要るわ。


 でね、面白いことにペトラが言ってたの。あの子、最近ブルーノの周りの人間に同情されて事情を聞かされるらしいのよ。で、ペトラが言った言葉がこれ。


 「ネリーさんが一人でやっていたと聞いて、信じられなかった。普通、五人がかりの仕事よ」


 五人がかり。


 あんた、一人で五人分やってたのよ。十四年間。信じられないのは私も同じ。近くにいたのに、気づかなかった。ごめんね、って言わせて。


 ブルーノは今、使用人三人に分担させようとしてるらしいけど、全然うまくいかないんだって。あんたが頭の中で繋げてた情報──誰が誰と仲が悪いとか、あの家にはこの手土産はだめとか、あの伯爵夫人は左側の席を嫌がるとか──そういうの、引き継ぎの書類には書いてあるのに、読む人間がいないの。


 書類は読まれてこそ書類よね。積んどくだけなら漬物石と同じだわ。


              ゲルダ


 追伸:あと、ブルーノのお母様が動き出したらしいわよ。あんたのところに来るかもしれない。気をつけなさい。マルタさまの「お願い」は、ブルーノの「わかってくれるよね」より厄介だから。』


 ◇


 手紙を膝に置いた。


 五人がかりの仕事。


 その言葉が、胸の奥に沈んでいく。石が水底に落ちるように、ゆっくりと。


 嬉しいと思った。認められた気がした。十四年間、当たり前のようにこなしてきたことに、初めて「それは異常だったのだ」と言ってもらえた。


 でも、同時に──寂しかった。


 変な話だ。もう関係のない人の心配をしている。あの慈善茶会が滅茶苦茶になろうと、私にはもう関係がない。招待客のリストも、座席の配置図も、全部引き継ぎの書類に残してきた。あとはあちらの問題だ。


 ──なのに。


 ヘルマン子爵夫人が左側の席を嫌がること、書いたかしら。書いた。確認のために書いた。グラーフ伯爵の愛犬の名前がフリッツに変わったことは──書いていない。あれは先月知った情報だから、引き継ぎの時点では知らなかった。


 一瞬、「教えてあげたほうがいいかしら」と思って、すぐに手を引いた。


 だめだ。この癖は、まだ抜けていない。あの人たちの不便を見つけると、つい手を伸ばしそうになる。十四年分の「わかりました」が、体の奥にまだ残っている。


 ──でも、伸ばさなかった。今日は。


 手紙を畳んで、引き出しにしまう。前回の手紙の隣に並べた。二通目のゲルダの手紙。三通目が届く頃には、もっと平気になっているだろうか。


 ◇


 午後、領地の管理人の妻のエルマさんが訪ねてきた。


「ネリーさま、冬祭りの飾りつけのことで、少しご相談があるのですが」


「はい、なんでしょう」


「去年までは松の枝とリボンだったのですけれど、今年はもう少し華やかにしたいと領民から声がありまして。でも、私たちにはどうすれば華やかになるのか、見当がつかなくて」


 エルマさんは両手を前で組んで、少し申し訳なさそうに笑った。


「お忙しいところ申し訳ないのですが──お願いできますか?」


 お願いできますか。


 また、この言い方だ。「わかってくれるよね」ではなく、「お願いできますか」。断ってもいい余地がある。私の都合を聞いてくれている。


「松の枝に、赤い木の実を添えるときれいですよ。あと、ロウソクを紙の筒に入れて吊るすと、夜に温かい光が出ます」


「まあ、そんな方法が。ネリーさまは本当にお詳しいですね」


 詳しいのではない。侯爵家の冬の夜会で、毎年飾りつけを任されていただけだ。でもその知識が、ここで「ありがとうございます」と言ってもらえる形で使えることが、じんわりと温かい。


 エルマさんが帰った後、手帳を開いた。


 白紙だったページに、少しずつ予定が増えている。「冬祭りの飾りつけ相談」「リーゼと庭の冬支度」「母の刺繍教室(続き)」。全部、自分で書いた予定だ。誰かの「わかってくれるよね」で埋まっていた手帳が、今は自分の字で埋まり始めている。


 まだ隙間だらけだ。でも、その隙間が怖くなくなってきている。


 ふと、二週間後の日付のところに、小さく書いてあった。


 ──ジャガイモのパン。


 ニクラスさんと会う日だ。あの人は覚えているだろうか。「ジャガイモのパン」と繰り返していたあの声を思い出すと、覚えていると思った。根拠はないけれど。


 ◇


 夕方、庭に出た。


 リンゴの木の葉が、だいぶ色づいている。収穫祭の頃は黄色かった葉が、今は赤みを帯びている。季節が進んでいる。婚約を解消してから、もう三週間。


 三週間前の自分は、白紙の手帳が怖かった。何を書けばいいのかわからなかった。


 今はまだ、怖さがゼロにはなっていない。でも、怖さの質が変わった気がする。「何もない」が怖かったのが、「何を選ぼう」に変わりつつある。


 ブルーノさまの話を聞くと、まだ胸がざわつく。ざまあ、と思う自分もいる。あの仕事を誰もできないのだと聞いて、少し誇らしい自分もいる。助けてあげたくなる自分も、まだいる。


 全部、本当の気持ちだ。きれいに割り切れると思っていたのに。人の感情は、手帳の予定みたいに線を引いて消せるものではないらしい。


 ──でも、手を伸ばさなかった。今日は伸ばさなかった。それでいい。


 庭の隅で、リーゼが洗濯物を取り込んでいた。


「ネリーさま、ゲルダさまからのお手紙、今日のは長かったですね」


「うん。……ゲルダは相変わらずよ」


「お顔の色がいいですね、最近」


 リーゼが微笑む。この子は多くを聞かない。聞かないけれど、見ている。私の顔色が変わったことに気づいてくれている。ブルーノさまは十四年間、私の顔色を一度も見なかった。


「リーゼ、今日の夕食、何がいいかしら」


「ネリーさまのお好きなものを」


「じゃあ──カボチャのスープ」


 また一つ、自分の好きなものを見つけた。ジャガイモのグラタン、赤と黄色の花の組み合わせ、ジャガイモのパンの店、窓際の椅子、そしてカボチャのスープ。


 全部小さなことだ。でも、小さなものが少しずつ集まって、白紙の手帳を埋めていく。


 ゲルダにはまだ何も話していない。収穫祭で会った騎士のこと。「何がしたいのですか」と聞いてくれた人のこと。話したら、あの子のことだから根掘り葉掘り聞いてくるだろう。「で、かっこいいの?」と。


 口元が少し緩んだ。


 ──そして、ゲルダの追伸を思い出した。


 マルタさまが──来る。


 手が少しだけ冷たくなった。ブルーノさまの「わかってくれるよね」は、断れた。あの日、熱の中で「わかりません」と書けた。


 でも、マルタさまは違う。あの方は「わかってくれるよね」とは言わない。もっと静かに、もっと正しい顔をして、こちらの逃げ道を塞いでくる人だ。


 秋の風が頬を撫でた。リンゴの葉がひとひら、足元に落ちた。


 ──大丈夫。


 今の私には、「わかりません」と言える自分がいる。三週間かけて、少しずつ育ててきた自分が。


 でも心のどこかで、あの侯爵夫人の顔が浮かんでいた。穏やかに微笑みながら、一切の退路を断つ、あの顔が。


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