第4話 あなたは、何がしたいのですか
収穫祭の朝は、焼きたてのパンの匂いで始まった。
広場に着くと、もう人が集まっていた。テントの骨組みを立てる男たちの声、鍋を磨く女たちの笑い声、走り回る子どもたちの歓声。昨日までの準備が嘘みたいに、広場が一気に「祭り」の顔になっている。
私は昨日と同じ動きやすい服を着て、管理人のところへ向かった。今日の仕事を聞くためだ。
「ネリーさま、今日は食事の配膳をお願いできますか。あと、どこに何を置くかの指示を」
「わかりました」
──わかりました。
この五文字を口にするたびに、まだ少し胸がざわつく。でも、今の「わかりました」は、前の「わかりました」とは違う。頼まれたから引き受けたのではなく、自分でここに来たのだから。
配膳の準備で樽を運んでいたときだった。
「重そうですね。手伝います」
声は低くて、落ち着いていた。振り返ると、昨日、広場の隅で壁にもたれていた近衛騎士が立っていた。
旅装は昨日と変わらないが、上着の袖をまくっていた。手伝うつもりで来たのだと、その袖だけでわかった。
「あ……ありがとうございます。でも、お気遣いなく」
「気遣いではなく、暇なだけです。任地の移動で立ち寄っただけなので」
そう言って、私が抱えていた樽の片側を持ってくれた。
力の入れ方が自然だった。ブルーノさまは──比べてはいけないのだけれど──こういう場面で自分から手を出す人ではなかった。手伝いを頼む人だった。「わかってくれるよね」と。
「ニクラスと言います。ヴァイセンベルク伯爵家の三男で、近衛騎士をしています」
「ゼーリヒ伯爵家のネリーです」
名乗りは簡潔だった。家柄を飾らない。三男で、近衛。それだけ。自分の立場を飾る必要がない人の話し方だった。
◇
ニクラスさんはそのまま祭りの準備を手伝ってくれた。
驚いたのは、この人が何も聞かずに動くことだった。テーブルを並べ終えたら、次は椅子を運ぶ。椅子が足りないと見れば、倉庫まで取りに行く。指示を待たない。でも勝手に動くのとも違う。周りを見て、足りないものを見つけて、黙って埋める。
私が「すみません、あの荷物も」と言いかけると、もう運んでいた。
「……言う前にやってくださるんですね」
「見ればわかりますから」
見ればわかる。
その言葉に、一瞬、息が詰まった。見ればわかるのだ。この人には。足りないものが、必要なことが。ブルーノさまには見えなかった。十四年間、目の前にあったのに。
──やめよう。比べるのは。
でも、比べずにはいられなかった。
◇
昼過ぎ、祭りが賑わい始めた。
領民たちが持ち寄った料理が並び、楽隊が小さな演奏を始めた。子どもたちがリンゴ飴を手に走り回る。私は配膳の合間に、テーブルの花瓶の位置を直したり、椅子の配置を整えたりしていた。
気がつくと、自分が仕切る側になっていた。管理人が「ネリーさまに任せておけば安心だ」と言って、別の仕事に向かってしまったからだ。
侯爵家の慈善茶会と同じだ。いつの間にか全体を見て、足りないところに手を回している。年配の女性が鍋の場所に困っていれば声をかけ、楽隊と食事の列が近すぎると気づけば机をずらし、子どもが転んで泣けば膝の土を払ってやる。十四年の習慣は、体に染みついている。
──また、やっている。
ふと、手が止まった。また「全体を回す人」になっている。頼まれたわけでもないのに、勝手に動いている。これは「好き」なのか。それとも、こうしなければ落ち着かない体になってしまったのか。
わからない。でも、一つだけ違うことがある。今日、誰かが困っているのを見つけて動くたびに、「ありがとう」と言ってもらえた。それだけで足の疲れが少し軽くなる。こんな簡単なことだったのだ。報われるというのは。
ニクラスさんが水の入った杯を差し出してくれた。
「少し休んだらどうですか。朝からずっと動いていたでしょう」
「あ……はい。ありがとうございます」
杯を受け取る。冷たい水が喉を通ると、自分がどれだけ喉が渇いていたか気づいた。気づかないまま動き続けるのは、昔からの癖だ。自分のことを後回しにする癖。
ニクラスさんは隣のベンチに座って、祭りの風景を眺めていた。しばらく黙っていた。この人は沈黙が怖くないらしい。ブルーノさまといるときは、沈黙が来ると「何か話さなきゃ」と焦っていた。この人の隣では、黙っていても居心地が悪くない。
やがて、ニクラスさんが口を開いた。
「この祭り、あなたが仕切っているようですが」
「いえ、そんなことは──」
「いえ、見ていればわかります。花の配置も、テーブルの並べ方も、人の流れを考えて動いている。慣れた人の仕事です」
見抜かれていた。この人は目がいい。
「それで、聞いてもいいですか」
「はい」
「好きでやっているのですか。それとも、頼まれたからですか」
言葉が止まった。
好きで? 頼まれたから?
考えたことがなかった。いつも「頼まれたから」やっていた。ブルーノさまに頼まれたから。侯爵家に求められたから。今日だって、管理人に頼まれたからここにいる。
──でも。
今日は、自分で「手伝いたい」と言ったのだ。頼まれる前に。だとしたら、これは「好き」なのだろうか。わからない。自分が何を好きなのか、十四年間考えたことがなかった。
「……わかりません」
正直に答えた。答えてから、苦笑した。最近、この言葉ばかり使っている気がする。
ニクラスさんは押さなかった。頷きもしなければ、困った顔もしなかった。ただ、私の言葉をそのまま受け取った。
「答えはすぐでなくていいです」
それだけ言って、また祭りの方を見た。広場では子どもたちがリンゴ飴を振り回しながら走っている。楽隊の笛の音が、秋の風に乗って揺れていた。
「ただ──あなたが自分のためにここにいるなら、それはいいことだと思いました」
自分のために。
ブルーノさまに「何がしたい?」と聞かれたことは一度もない。いや、聞かれたことはあったかもしれない。でもそのときの「何がしたい?」は「僕は何をすればいい?」の裏返しで、私の答えなんか聞いていなかった。
この人の「何がしたいのですか」は、違う。本当に聞いている。私の答えを、待っている。
その違いが、水を飲んだときと同じように、胸の奥にすうっと染みた。
◇
祭りは夕方に終わった。
片付けを終える頃には、空が赤く染まっていた。私の腕は筋肉痛の予感でぱんぱんに張っていて、爪の間に土が入っていて、髪からは焚き火の匂いがした。侯爵家の茶会の後とは大違いだ。あの頃は、疲れていても笑顔を崩さず、一本の髪も乱さず、完璧な姿で帰った。
今日の私は、完璧とは程遠い。でも、悪くない気分だった。
ニクラスさんが去り際に、一度だけ足を止めた。
「二週間後に、またこの近くを通ります」
「そうですか」
「もしよければ──この町に美味しい店はありますか。教えてもらえると助かるのですが」
任地への移動なら、二週間後にまたここを通る理由はないはずだ。来た道を戻ることになる。この人は不器用だなと思った。嘘というほどの嘘もつけず、誘うというほどの誘いもできず、「美味しい店を教えてほしい」という、ひどく回りくどいやり方で。
でも──ブルーノさまなら、こういうときどうしただろう。たぶん何も考えず「また来るよ」と軽く言うのだ。約束を守るかどうかは別として。
この人は、軽く言えないから、回りくどくなるのだと思った。
それが、嫌ではなかった。
「……パン屋なら、広場の裏手に一軒あります。ジャガイモのパンが美味しいお店です」
「ジャガイモのパン」
ニクラスさんが繰り返した。覚えようとしているのだと、わかった。ブルーノさまなら翌日には忘れている。この人は、覚えるだろう。理由はないけれど、そう思った。
「では、二週間後に」
ニクラスさんは小さく頭を下げて、夕日の方へ歩いていった。背中がまっすぐだった。騎士だからだろうけれど、それだけではない気がした。
◇
帰り道、赤い空を見上げながら、考えていた。
好きでやっているのか。頼まれたからか。
あの問いに、まだ答えられない。自分が何をしたいのか、何が好きなのか、二十二年間で一度もちゃんと考えたことがない。ブルーノさまの好みはすべて覚えているのに、自分の好みは靄の中にある。
ジャガイモのグラタンが好きだということは、先週わかった。
赤と黄色の花を一緒に挿すときれいだということも、昨日わかった。
ジャガイモのパンが美味しい店の場所を知っているということも、今日思い出した。
──全部、小さなことだ。でもこの小さなことを、一つずつ集めていくしかないのだと思う。
あの人は「答えはすぐでなくていいです」と言ってくれた。
それなら、探してみよう。急がずに。
「何がしたいのですか」と聞かれて、答えられなかった。
でも、答えを探してみたいと思った。それだけで、今は十分だ。




